第3話 旧き狩人
放課後の帰り道。夏の湿った風に混じって、嗅いだことのない匂いが鼻を掠めた。
雨の前触れでもない、生き物の血でもない――もっと乾いた、古びた鉄と火薬の匂い。
異変に気づいて立ち止まった瞬間、背後から声がした。
「……刀を見せろ」
振り返ると、そこに立っていたのは壮年の男だった。
色褪せたコートに、片方しかない革手袋。片耳は欠け、右目には古い眼帯。
彼の背中には、銃とも刀ともつかぬ長い武器が吊られている。
「あんた……誰?」
「旧き狩人、だと呼ばれてきた。
本名などもう棄てた。お前が持っているもの――“血脈断刀”。それを作った一族を、俺は知っている」
喉の奥がきゅっと縮まる。
この人、ただの変人じゃない。刀を「名前」で呼んだ。
その瞬間、ポケットの短刀がじり、と熱を帯びる。
「何の用?」
「忠告に来た。この刀は祝福じゃない。呪いだ。
振るうたびに削られるのは寿命だけじゃない。……記憶もだ」
「記憶……?」
旧き狩人は、片目の奥で静かに笑った。
「最初は親しい顔を忘れる。次に、誕生日や行事の匂いを忘れる。最後には自分の名前すら──」
脳裏の奥で、昨夜の夢が蘇る。母の声の断片。時計の針が焼け落ちる映像。
本当に……あれを忘れていくの?
答えが出ないうちに、影が二つ、路地から滲み出た。
吸血鬼だ。ゆっくりと狩人に、そして私に目を向ける。
「話は後だ」
旧き狩人は背の得物を引き抜き、長身の影に飛び込む。
一撃。まるで重機のような音と共に、血脈が断ち切られ、灰が舞う。
私は反射的に短刀を構えて、もう一体に向かう。
だけど足と手が震えて、振り抜けない――その瞬間、蓮が影の間から割って入った。
「……遅い」
低く呟き、蓮の刃が吸血鬼の首元をかすめる。
断たれた血脈が、赤く光ってすぐに崩れ落ちた。
「お前……吸血鬼なのに、どうしてそんなに人間を助ける?」
旧き狩人が蓮を睨む。
蓮は薄く笑って言った。「助けてるつもりはない。ただ、こいつにはまだ死んでもらっちゃ困る」
その「こいつ」という言葉が、妙に胸の奥をざわめかせる。
戦いが終わった路地に、静かな夜が戻る。
旧き狩人は私の方に目をやり、低く言った。
「奴はお前を利用するかもしれん。俺が教えてやる。刀の全てを、そしてその代償の本当の重さを」
蓮は鼻で笑い、「お前の全部が正しいとは限らない」と吐き捨てた。
二人の間に、鋼のような沈黙が走る。
どちらを信じればいいのか――わからない。
ただ、刀の紅糸がいつもより数ミリ、短くなっていることだけが確かだった。
夜道を帰りながら、旧き狩人の声が頭で反芻する。
「最初は、親しい顔を忘れる」
明日、由佳の笑顔をちゃんと思い出せるだろうか。
そして翌日、狩人の“稽古”は、殺し合いの形で始まるのだった。