第1話 幽霊橋の箱
――月を見たのは、何日ぶりだろう。
夜風が、制服のスカートを撫でる。終電が走り抜けたあとの通学路は、嘘みたいに静かだった。友達と別れた帰り道、私はただ信号が変わるのを待っていただけ……のはずだった。
左手の古い橋。地元では「幽霊橋」と呼ばれ、子供のころから近づくなと大人に言われてきた場所。欄干の下で、何かが月明かりを受けて鈍く光った。
足が、勝手に止まった。
そこにあったのは掌ほどの鉄箱。黒錆と朱の斑点。どこか生き物の傷みたいな色だった。
拾い上げた瞬間、冷たさではなく、奇妙に“湿った温度”が指先を這う。心臓が一拍、合わなかった。
蓋は、触れただけで開いた。
中には一本の短刀。鞘は黒漆、その継ぎ目には血のような紅糸が縫い込まれていた。光ではなく闇を吸うような刃。
そして、耳の奥で声がした。
《――選ばれよ》
幻聴、と思った。けれどその声は、私の胸の奥、もっと深いところでくすぶる何かを撫でた。
知らないはずの誰かの泣き声。冷たい手。母の声……のような断片が浮かんでは消える。
手を伸ばしてしまったのが、間違いの始まりだ。
刃の冷たさが掌に触れた瞬間、“何か”が逆流した。
視界の端に、時計の針が一秒ぶん、焼き切られて落ちる映像が走る。
「――やめろ」
男の声。低く、しかし素肌をなぞるような温かさを孕んでいた。
振り向くと、路地の闇に赤い瞳が浮かんでいた。
背の高い、制服姿の男――いや、人間じゃない。
彼は一歩、光の中へ出る。
月光がその額の下までたどり着いた瞬間、牙が覗く。
「……吸血鬼」
自分の口から漏れた単語が、空気を凍らせた。
彼は微笑む。まるで十年ぶりの恋人に会ったかのように。
「その刀は、血脈を断つ」
赤い瞳が、私の手の中の刃を射抜く。息が詰まる。
「……返せば助けてやる。今なら、まだ戻れる」
その時、背後で風が裂け、影が跳ねた。別の“何か”が、笑いながら橋の欄干を越えてくる。
牙。爪。血の匂い。
考える暇もなく、刃を引き抜いていた。
風が裂ける。骨を断つ感触が手首から腕へ、そして胸へと突き抜ける。
吸血鬼の瞳が一瞬だけ、人間の色に戻った。
次の瞬間、重さが消えた。
足元に転がる影。耳元でカチ、という音がした。
自分の時間から、何かが削ぎ落とされたような……
「…………なに、これ」
男――赤い瞳の吸血鬼は、静かに笑った。
「代償だ。お前の命を喰う刀だ」
月が、冷たく夜を裂いていた。
その夜から、私は世界の終わりと同じ速度で、死へ歩き出す。
「お前は今、選んだんだ——死ぬまで戦う道を」