第4話 捨てられた子
母がまだ祖母の家にいた頃、
私は暴力を受けたことはなかった。
だけど、それが「守られていた」
とは思えなかったが…
母は毎晩のように、夜になると
飲み屋のバイトに出かけていった。
帰ってくると、
部屋の中にはお酒のにおいがただよっていた。
そのにおいが帰宅のお知らせとなっていた。
一緒の布団に入って眠った記憶は、一度もない。
母が家にいたとしても、
私のほうを見ていることはなかった。
どこか遠く、違う世界を見ているようだった。
私は、母を呼んだ記憶がない。
抱きついた記憶もない。
手を握ってもらった記憶も、思い出せない。
ある日、気がついたら、母はいなくなっていた。
何も言わずに、何も残さずに。
その日から、祖母の様子が変わった。
「お前は母親に捨てられたんだよ」
その言葉が、何度も、何度も、
私の耳に突き刺さった。
祖母は何かのスイッチが入ったように、
冷たく、鋭くなった。
怒鳴る声、睨みつける目、無言の圧。
真冬の夜、いきなり服を脱がされて
ベランダに立たされたことがある。
足の裏が冷たくて痛くて、
ガラスの窓に映った自分の顔を見たとき、
なんだか別の子どもみたいに見えた。
それでも泣けず、叫ベずにいて、
もちろん誰にも届かなかった。
暗い押し入れの中に、
突然閉じ込められた日もあった。
狭くて、息が詰まりそうで、
何も見えなかった。音もしなかった。
恐怖で初めて泣き狂いした。
ただ、自分の心臓の音だけが、
ドクドクと響いていた。
祖母の影響でドラマを見ていたせいか
ころされると思った。
負けたくない。
もう同じ事をされたくない。
そういう思いで、
何か言われると反抗的になった。
そして睨んだ。
祖母は私の目をにらんでこう言った。
「鬼嫁とそっくりの目をしてるわ」
そのとき、私は「鬼嫁」というのが
母のことだと、なんとなく分かった。
そして、それは“ののしる言葉”なのだとも。
祖母が私をにらむとき、
まるで別の人のような顔になる。
怖いという感情よりも先に、
「なぜこんなことをされているのか」が
まったく分からなかった。
母がいた頃の“静かな無関心”は、
まだ良かったのかもしれない。
あの頃は、少なくとも誰かが家にいたから。
でも今は、誰もいない。
寒さも、痛みも、こわさも、どこにも届かない。
私は小さい頃から体が弱くて、
熱を出すとよくけいれんを起こした。
お風呂で倒れて救急車で運ばれたことも、
何度もあったらしい。
だけど、それも全部、
ぼんやりとしか覚えていない。
泣いたのか、苦しかったのか、
誰がそばにいたのかもわからない。
今思えば、あれが「さびしさ」
だったのかもしれない。
でも当時の私は、その言葉さえ知らなかった。
どんな気持ちを感じればいいのかも、
わからなかった。
ただ、毎日が終わっていくだけだった。
今日が終わって、明日が来て、
また同じことが繰り返される。
私はその中に、ただ置かれていた。
だけど――
祖母が吐いたあの言葉だけは、
強く、はっきり、私の心に残っていた。
「お前は捨てられたんだよ」
その言葉は、まるで呪いのように
私の胸にしみついた。
誰にも消せなかった。
自分でも、どうすることもできなかった。
それは私を、少しずつ、静かに、
地面の奥へと沈めていった。