第3話 夢でだけ知ってる人
その日、空はどんよりと灰色で、
風がぴゅーぴゅー吹いていた。
アパートの古い窓がカタカタ鳴って、
私は部屋の中で丸くなっていた。
「これ、アンタに届いてたやつよ」
祖母はそう言って、机の上に一通の封筒を
ぽんと投げた。
古びた紙のにおい。少しくしゃっと曲がった角。
封筒の裏には、見慣れない文字が印字されていた。
「○○刑務所」
それが何なのかは分からなかったけれど、
なんとなく冷たい感じがして、
手を伸ばすのが少し怖かった。
「お父さんからやって」
祖母はそれだけ言って、
台所に戻っていった。
“お父さん”
その言葉は、頭の中にふわっと浮かんだけれど、
心には届かなかった。
私には、おじいちゃんとおばあちゃんしか
記憶になかった。
捕まったとか、お母さんがいなくなったことも、
なぜかあまり気にしていなかった。
もしかすると、
覚えていなかっただけかもしれない。
全部、夢の中の出来事だったような、
そんな気がしていた。
手紙は、一通だけだった。
ぺらりとした紙には、
丸くて大きな文字で何かが書かれていた。
私は字があまり読めなかったから、
祖母に読んでもらった。
「元気にしてるか」
「早く会いたい」
「ちゃんとご飯食べてるか」
それは、とてもやさしい言葉だった。
でも、まるで知らない誰かが書いたように感じた。
絵も描いてあった。
うさぎの絵だった。
ピンクの耳、にっこり笑った口。
かわいらしいはずなのに、
私の胸は何も動かなかった。
私はただ、ぼーっとその手紙を見つめていた。
手の中にあるはずなのに、
すごく遠くにある気がした。
「会いに行く?」
祖母がそう聞いてきたとき、
私はすぐに言った。
「べつにいい」
ほんとうに、どうでもよかった。
会いたいとか、会いたくないとか、
そういう気持ちがなかった。
だって、その人のことを知らなかったから。
父親って言われても、比べる何かがなかった。
私の中では、「お父さん」は、
夢でたまに出てくる人だった。
声も、顔もはっきりしない、
ぼんやりした影のような人。
本当にいたのか、それすらもわからなかった。
もしかすると、あまりにつらくて、
記憶から飛ばしてしまったのかもしれない。
覚えているとつらいから、全部、
心の奥にしまいこんでしまったのかもしれない。
夜、布団に入っても、私はただ目を閉じていた。
外からは、遠くの車の音がかすかに聞こえた。
それが、ずっと耳の奥に響いていた。
手紙のことも、「お父さん」という言葉も、
私は心の中でそっと沈めた。
深い水の底に、誰にも触れられないように。
うさぎの絵だけは、なんとなく頭に残っていた。
でも、それがあたたかく感じることはなかった。
その日、私はたしかに手紙を受け取った。
でも、それは気持ちとして届いたわけじゃなかった。
ただの紙。
ただの言葉。
「お父さん」
その言葉は、私にとって音だけの存在だった。
意味も、かたちも、ぬくもりもなかった。
私はそのまま、眠ることもなく、
目を閉じて朝を待った。