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沈む子供  作者: あさま
第一章 沈む子供の目覚め
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第2話 ミカンとイモムシとゲンバタロウ



警察沙汰になって父がいなくなり

気がついた時には、私は祖母の家にいた。

いつからそこにいたのかは、よく思い出せない。


ただ、父がいなくなって、母と2人で

その古いアパートの部屋にいたことだけは

覚えている。


祖母の家は、3階建てのアパートの一角にあった。

部屋の中は静かで、古くて、

畳と埃のにおいがいつも漂っていた。

ベランダを開けると、外には畑が広がっていて、

ときどき猫が歩いていた。

空は広くて、風が通るとカーテンが

ふわりと揺れた。


母もそこにいた。

半年くらい、一緒に暮らしていた気がする。

けれど、どんな会話をしたのか、

何をして遊んだのかは、なぜか覚えていない。

思い出そうとすると、頭の中がもやもやする。


ただ、ひとつだけ覚えている。


ある日、廊下に置かれていた

ミカンの箱を見つけて「たべたい」と母に言った。

母は少し笑って「いいよ」と言った。

私は箱を開けて、ミカンを手に取り

母に渡して皮をむいてもらった。


そのときだった。

「イヤァァァァムリムリムリッ」

母が叫んだ。


びっくりしてのぞいてみると

ミカンの中から芋虫がにょろりと出てきた。

なんでもないような様子でのそのそと這っていた。

黄緑色で、やわらかそうな、芋虫が

静かに動いていた。


私は「かわいい」と思った。

母は泣きそうな顔で、後ずさりした。

こわかったのだろう。声を出して泣いていた。

でも私は、芋虫をそっと手のひらにのせて、

畑まで歩いていった。

畑の端っこに、小さな草むらがあった。

そこにそっと置いた。


母の叫び声も、泣き声も、

芋虫のやわらかい体も、

今でも頭の中にはっきりと残っている。


そういえば、もう一つ。

私には友だちがいた。

名前は──「ゲンバタロウ」。


白くて、フワフワで、立ち耳で、

キツネみたいな見た目。

尻尾をぶんぶん振る元気な犬だった。

父が現場仕事をしていたときに

拾ってきた犬で

「現場で拾ったからゲンバタロウ」と

そう呼ばれていた。

名前は変だったけど、大好きだった。


ベランダに出ると、ゲンバタロウがいた。

私がしゃがむと、ぺたんと座って、

私のほっぺをペロペロとなめてくれた。

おばあちゃんの育てたサボテンをかじって

トゲが刺さり「きゅうきゅう」鳴いてた事も

あったな。刺さったトゲを抜いてあげたり

おやつをあげたり、

一緒にあさがおの鉢を見たり、

猫を眺めたりした。


ゲンバタロウといると、

心がふわふわして、嬉しくなった。

言葉がなくても、

そばにいてくれるだけで安心した。


でも、ある日突然、ゲンバタロウはいなくなった。


「ゲンバタロウは?」と聞いても、

誰も何も言わなかった。

そのうち、おじいちゃんがポツリと言った。


「捨てたよ。うるさいから」


私は言葉の意味がすぐにはわからなかった。

だけど、ゲンバタロウが

もう帰ってこないとわかると、

涙が止まらなかった。

声も出せないほど泣いた。

胸の奥がキリキリして、

体が小さくなったような気がした。


その日から、ベランダはただの場所になった。

猫はいても、風が吹いても、

私はそこに座らなくなった。


そして気づいたときには、母もいなかった。

いつ、どんなふうにいなくなったのかは

思い出せない。

でも、ある朝、いつも通りに起きたら、

母の気配だけが消えていた。

声も、においも、笑い方も、

何も残っていなかった。


それから私は、祖母の家でひとりになった。

周りには誰かがいたけれど、私の中には、

ぽっかりと穴があいていた。


私は「寂しい」とか「悲しい」とか

そういう気持ちがあったのかは

覚えていない。


3歳から9歳までのあいだ、

ずっとそんな感じだった。

声も音もあるのに、

どこか遠くの景色みたいだった。


テレビの中の人たちが笑っていても、

私はただ見ているだけ。

「楽しい」とか「嬉しい」とか、

そういう感情が、自分の中にちゃんとあるのか、

よくわからなかった。


まるで、誰かの人生を横から見ているようだった。

そうやって過ごすのが、

私にとっての“普通”になっていた。


そう──私は、そういう世界しか知らなかった。




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