第八話
一般に特定の地点で戦闘を行うかどうかは防御側指揮官に選択権がある。その地点で交戦するのか、せずに後退するのか、そもそもどこを戦場に選ぶのか。戦場の選択権は防御側指揮官が握っている。
防御側指揮官が戦場を決定する時に最初に考慮するのは戦場の地形である。攻撃部隊の戦力発揮に不利で、逆に防御部隊の戦力発揮に有利な地形を選択する。攻撃部隊の火力と機動を制限できる地形である。攻撃側部隊の機動を制限するというのは大事な要素である。なぜなら、攻撃側はわざわざ防御側に有利な地形で戦いたくないために迂回を追及するからだ。但し、スリン島では攻撃側部隊、国防陸軍の迂回を考慮する必要は大してなかった。なぜならば街道以外は森林に覆われているため、そもそも迂回機動の余地がないのだ。深い森林は、精々歩兵小隊が何とか行軍可能なぐらいで、戦闘など生い茂る草木のために論外である。
スピネル曹長は受け持ち区画の陣地を見て回った。以外にも基本的な塹壕、交通壕、個人用掩体は完成していた。また陣地全体の特徴として火力の発揮よりも火力(特に機関銃)点の隠蔽に重きを置いている。一般に、草木等によるカモフラージュが濃ければ濃いほど、射界は制限を受ける。陣地の構造にも依るが、結果として敵に指向可能な火力は減少してしまうことが多い。帝国軍は火力の減少を嫌い、火力か隠蔽かの選択肢では火力を選ぶ。
帝国軍のセオリーには反するが、スピネルはこれで良いと思っているし、現状を考えれば最適解であると思う。第一に、火力を発揮するための弾薬に乏しい。第二に地形である。防御陣地は大森林の中に位置しているから、敵は一見しただけでは陣地の構造を把握できない。ならば十分発揮できない火力のために無闇矢鱈に火力点が目立つことを避けるのが賢明だろう。
一方で問題点もいくつか存在した。その最たるものが、陣地に十分な強度がないことである。塹壕も個人用掩体も浅く、壁面は補強されておらず、また掩蓋も無い。ただし補強も掩蓋の構築も無理だろうことをスピネルは承知していた。
補強には主として木材を使用するが、そのための木材は無く、木々を切り倒す工兵資材も余力もない。痩せ細った兵士の体が伐採、加工作業に堪えられないのは一目瞭然。掩蓋も同じ理由で不可能だ。
掩蓋とは簡単に言えば陣地にする蓋である。敵からの陣地の露見を避け、また上空からの砲弾片を防ぐ。帝国軍では土と木材を組み合わせ、最低でも厚さ四十センチメートルは必要としていた。
陣地の隠蔽という目的に限れば偽装網、草や枝で代用することができるだろう。
塹壕や掩体が浅いという問題は前述の二つに比べれば簡単な問題だった。深く掘るだけで解決できる。現状、体育座りした個人がなんとか納まる深さしかない。目標は立った状態の個人が完全に納まる深さである。今後の作業は専ら掘削に限られるだろう。但しこれも問題まるで存在しないわけではない。塹壕や交通壕は時に木の根っこが邪魔するのだ。例により木の根を切断もしくは除去可能な資材はない。そのため陣地全体は所々歪に折れ曲がっていた。
最後の問題は射界清掃がほとんどなされていないことだ。射界清掃というのは友軍の射撃を妨害し、敵にとっての遮蔽物となる障害物を除去する作業を指して言う。森林内の陣地だからこそ、射界には木や倒木、茂み、岩などがあり、これを除去する必要がある。
スピネルは第一に塹壕を深くし、第二に射界清掃を行うに決めた。
「クソッ!」
スピネルの横で部下が悪態を吐きながら地面に円匙を突き立てた。
「そう愚痴るな。汗の一滴、血の一滴だ」
そうは言われても、と部下の表情には不満の色が見える。それはそうだろう。数日前まで野戦病院で餓死の縁にいた兵士達である。前線勤務に復帰して、ために多少食料事情が改善されたところで、ここは元々飢餓の蔓延するスリン島。塹壕掘りは元より体力消費の多い作業。衰弱している体にはとんでもない重労働だった。
それでも遅々とした進捗ながら個人用掩体は及第点レベルには深くなり、機関銃陣地には草木による偽装が施されている。
嬉しいことに、三両の中戦車がトーチカとして陣地にやってきた。攻撃に防禦に、戦車は歩兵の頼もしい矛であり盾である。
トーチカとして運用されるため、所定の位置まで移動が完了すると戦車からガソリンが抜かれた。車体の乗員である操縦手と無線手は歩兵に職種変更になった。エンジンなどの部品は解体され予備部品となるはずだったが、帝国軍に余力のある野戦整備隊がいなかったためそのままである。
トーチカとして防御力を最大限発揮するためには地面を掘りそこへ車体を入れ、砲塔だけ出すダックインの状態が好ましい。ところが個人用掩体で音を上げるほどの体力しかない兵に戦車の車体部分が隠れるのに十分な深さの穴を掘るのは不可能だった。せめて車体上部の途中程度の深さだった。
車体機銃や砲塔天板に装備されていた一二.七ミリ機銃は取り外され、歩兵火力増強のために塹壕に備え付けられた。
スピネルの配備された第二防衛線には前哨陣地や敵の火力を誘導し無駄撃ちさせる欺騙陣地は存在しない。主抵抗線と貧弱な予備陣地、その後方に指揮所という構成をしている。どれも塹壕と個人用掩体だけの簡易な作りだった。