第七話
スリン島の帝国軍野戦病院の状況は凄惨の一言に尽きた。スリン島という魔女の鍋の底の底。
野戦病院の概況として、まず軍医も軍属の医者も払底していた。軍医を補助し、戦場においては負傷兵の救助、応急処置の任に当たる衛生兵と共に戦闘で容赦なく死傷したからだ。次に物資が無い。麻酔も鎮痛剤も、包帯も何も無い。極僅かの在庫は戦闘に備え前線部隊に配布されたか、将校のためだけに保管されている。兵隊や下士官に使用されることはなかった。必須の医療用品、器具が無いために医療行為は行えず、行われていない。医者も衛生兵もとうに失職し、精々が使い古しの包帯を川で洗って再使用するだけである。
このような惨状を呈しているために、負傷兵は言語を絶する悲惨な状況にあった。死んではいないが生きてもいない。まず彼らの大半が飢えていた。食料は戦える者に優先権がある。そのため前線の将兵より飢餓の度合は深刻だった。飢餓や脚部の切断などにより移動もままならず、つまり自給自足も望みえない。ろくに食べられないのだから継承の傷、病気ですら中々治らなし、体力は落ちる一方。飢餓と病気の組み合わせにより、毎日毎時負傷兵は死んでいく。
虫も酷い問題だった。室内かテントかただ露外か、どこに寝かされているかで程度は異なるが、無視できないのは一緒だった。負傷兵には虫を追い払う体力も気力もありやしない。病気を媒介し、感染源ともなっていた。酷いと傷口に蛆が湧き、そのままになっている。
この陰惨な状況下にあって、病室には「戦友、水をくれ」、「殺してくれ」といったボソボソした呻き声で満たされていた。大半の兵が、こんなんなら戦場で死んだ方がマシだったと航海にも似た思いを抱えていた。
総括すれば、野戦病院とは名ばかりで、実態は不運にも死ねなかった者が負傷、飢餓、病気、虫に苦しめられながら死を待つのみの、残忍極まる場所だった。
その野戦病院の中に左腕の二の腕から先を失ったスピネルという男がいた。一八五センチメートルの長身、茶髪に青い目の持ち主であり、階級は下士官である曹長。
彼の左腕に巻かれている血で薄汚れた包帯には花柄があしらわれていた。これは包帯が無いばかりにカーテンを裂いて使用しているからだ。こんなでも包帯もその代替品も無く、傷口がそのまま曝されている場合もあるから良いほうだった。
スピネルの日課はと言えば、医者や衛生兵が負傷兵を介護するのを眺めることである。包帯を洗い、水や食料代わりの雑草、木の皮に昆虫を採取しそれらを煮て与え、排泄物、最後には死体を処理する。ちなみに死者が運び出されるのは平均して死後二日。二日は横に死体がある。
死体処理とは言ってもただ死体から身元確認用のドッグタグを取り裏手に運んでいくだけ。埋葬する余力なんて無く、火葬するには燃料が無く、せめて消毒用の石灰も無い。腐った死体が放つ耐え難い悪臭が野戦病院全体を満たしていた。後年のある兵士の回想録に依れば、数キロメートル離れた場所からでも腐敗臭が臭ったという。
長いこと汚れたベッドに身を横たえているスピネルは、かつての中隊長の中尉の来訪を得た。手には拳銃を握っている。
一発の弾丸による安楽死。軍隊においてそれは生きる望みの無い重傷者に対する慈悲である。そしてスリン島という補給の途絶した島においては望外のものである。
何せ一発の弾丸でさえ惜しい状況下。青酸カリならもしかしたら医者が所持しているかもしれないが、兵隊が自決するには銃剣か剃刀の刃で首の頸動脈を切るか突くしかない。
スピネルの横に来た中尉は手近の椅子に腰かけるとスピネルに尋ねた。
「曹長、調子はどうだね?」
片腕無くしてベッドに臥せっている自分が良いなんて応えるはずもない。どうやら中尉は単なる挨拶に割く労力は失くしているようだと察した。
「良くないですね」
率直にありのままを応えた。
「うん、まあそうだろうな。今日来たのはな、戦線復帰ができるか聞くためだ。上は戦友を敵の攻勢から守る死兵を集めている。文字通り生還の望みは無い。だが君が戦友愛に溢れる兵士ならばぜひ戦友の盾となってほしい」
「その、中尉、私はもう右腕しかありません」
スピネルは死兵となり戦友の盾となるのは構わない。むしろそのような死に方は実に名誉あるものだと思っている。しかし現実的な問題として隻腕では小火器を扱うことはできない。拳銃ならばどうにかなるかも、と考えてスピネルはなぜ中尉が拳銃を持ってきたのか、理由を悟った。
「これなら扱えるだろう。それに君にもとめているのは頭としての役割だ。君が戦前から長いこと軍に奉職しているのは知っている。君のような経験豊富な兵隊を遊ばせておく余裕はない」
頭というのは現場での指揮官を指すのだろう。なるほどそれならば隻腕でも問題無いかもしれない。
「我々の前線指揮官は極度に不足している」
中尉は重苦しく述べた。
軍の脊柱は将校であると言われる。前線においては兵隊を指揮し、その威力を十全に発揮させる。だからこそ、前線指揮官、特に尉官階級の消耗は激しい。適切な指揮のためには絶えず敵情を把握しなければならない。そのためにも敵を方を注視し続ける必要があるが、それは同時に長時間自身を敵方に対し自らの身を曝す、撃たれる危険のより高い行為でもある。
積極的で熱意溢れる有能な前線指揮官は戦闘激烈の最中にあっても敵情把握のために頭を高くする。加えて指揮官先頭の精神もある。指揮官自らが突撃の最先鋒に立つからこそ指揮下の兵隊も奮い立つのだ。
ために前線指揮官の消耗は激甚で、スリン島では補充もままならない。
存在しない将校よりも、隻腕であっても存在する下士官。これが中尉の考えであった。
「やってくれるな?」
中尉はそい言いながら牛肉の缶詰を一つ、差し出した。缶詰、それも牛肉のなんて野戦病院中、それどころかスリン島中を探したってみつけられないものだ。スピネルは我知らず缶詰を凝視し、もうずっと出ていない涎が口内に溢れた。
「はい中尉」
スピネルはもう長い間肉なんて食べてない。この野戦病院で口にしてきたのは賞味期限をとうに過ぎているパン、塩と雑草、昆虫のスープだけ。それだけ惨めでみすぼらしい食事でも食べられるだけ良い方だった。
自分でも情けないことに、兵士としての義務感や戦友愛ではなく(もちろんそれらもあったが)、食欲からスピネルは首を縦に振った。死ぬのは構わない。どうせこの体だ。だがどうせ死ぬなら最後に肉ぐらいたべたかったのだ。
×××
スピネル曹長は他の兵と共にトラックに揺られながら前線へ向かっていた。腰にはあの日中尉に渡された拳銃がホルスターに収まっている。もっとも、使うことはないと思っている。戦場は木々の生い茂る足場の悪い場所だから、拳銃を手に持ちながらの移動には厳しいものがある。加えてスピネルに期待されているのは文体の掌握と指揮。使うことがあるとすれば最後の瞬間、自決する時だろう、と。
トラックで共に揺られている面々は、ほとんど全員が野戦病院から来た兵だった。全員が全員栄養失調で頬がこけ、顔色が優れなかった。それども四肢を欠損しているのはスピネルだけだった。
トラックから見える景色は映像として目に入っていても、脳がそれを情報として処理することはない。脳は無意識に情報処理に掛ける労力を削減していた。
景色を流し見しているとトラックが減速した。車体が前傾き、ガタンと大きく揺れた。どうやら道路に空いた大穴を超えたようだった。
道路の周囲に中尉を払ってみると、横転し道からどかされたトラックがあり、微かに腐臭も漂っていた。いや腐臭は自分達の体や衣服に染み付いてしまったものかもしれない。
再び大きくガタンと揺れた。路面状況は良くないらしい。
「うぐっ」
横に座っていた兵が唸り声を上げて足を抱えた。その顔には脂汗が浮いている。こいつは足に弾を受けて野戦病院にいた。戦場にはなんとか戻れるくらいには治癒したようだが、先ほど揺れた際の衝撃を受傷部にもろに受けてしまったらしい。
ガタガタと揺れるトラックに身を任せていると隊列後方の空に点があるのに気付いた。とうとう幻覚かと思ったが、どうにも違うらしい。その点は急速に形を逆ガル翼機へと変えていき、甲高いエンジン音を響かせる。両主翼下に無数のロケット弾を懸吊している国防軍の単発急降下爆撃機、シュトゥルムが迫っていた。
「敵機だ!」
スピネルが言い終わらない内から敵機は機銃掃射を加えながらロケット弾を撃ち込んできた。
スピネルが乗っていた二つ後ろのトラックが直撃弾を受けたのか、前転するように宙を舞うのが見えた。機銃掃射が一つ後ろのトラックを襲う。飢餓で痩せ細った帝国兵の体はさぞ易々と貫かれただろう。
そしてスピネルの乗るトラック前方に着弾があり、トラックは急制動を掛けられた。飢餓とそれから左腕の相当を失い軽くなった体とはいえ、成人であるスピネルの体が浮いた。そのまま思いっ切りトラックの進行方向に叩き付けられた。
「うわっ!」
「ぎゃあっ!」
何人もの悲鳴と苦痛の呻き声が重なった。
急いで起き上がったスピネルはトラックが火災を起こしていることに気付いた。おおかたエンジンにロケット弾の破片が飛び込んだのだろう。
「退避ーっ!」
言葉少なにそう叫ぶととにかく急いでトラックから脱出する。火の回りは早く、既に荷台の幌にまで火の手は及んでいた。
体が十全であった頃には何ともなかったというのに、今やトラックから飛び降りた着地の衝撃だけで体中が悲鳴を上げた。それでもそんな痛みは無視して一目散に路外に生え茂る木々の下へと駆ける。後ろで爆発があり、その背中全体を殴りつけるような威力の爆風がスピネルを茂みへと放り投げた。
前のめりの変な姿勢で着地したために痛めた左肩のあたりを抱きかかえながら隊列の方を見た。つい先ほど、僅か十数秒前まで乗っていたトラックは完全に炎に包まれ、荷台からはおぞましい悲鳴が聞こえる。一つ前を走っていたトラックは荷台のあたり直撃を受けたのか、車体後方は完全に消し飛び、わずか運的席前のエンジン部が残るだけだった。
木々の隙間から上空を我が物顔に飛ぶ忌々しいシュトゥルムの主翼が見えた。
機銃掃射を喰らわないように上空からの視界が遮られる木々の奥深くへと逃げる。敵機が機銃掃射を加えるとしたら、やはり標的となる人を見つけやすい道の近くだ。
案の定対地攻撃は終わっていなかったらしく、甲高いエンジン音に加え、鋭くまるでミシンのように連続する銃声が聞こえてきた。
スピネルはただじっと岩のように地面に伏せる。地上を走る人間は高速で飛ぶ航空機からでも目立つと教育を受けたからだ。
七.九二ミリ弾が葉を穿ち、枝を断ち切り木の幹にめり込み、着弾で土が人の背丈ほどの高さにまで跳ね上がる。
スピネルの視線の先で機銃掃射が一人の若い兵隊を薙ぎ倒した。頬にそばかすのある若い顔立ち。戦争勃発後に志願入隊した若造に思えた。
左から右に、カーテンが幕を引くかのような着弾の連続がその若い兵士を捉えた。右腕の肘から先が、まるでそうなるのが自然かのように外れて落ちた。胸部を撃ち抜かれたその兵士は、極々短い悲鳴を上げるとその場にバッタリと倒れて寸とも動かなくなった。
対地攻撃が終わって、スピネルはとうに事切れたその兵士を見た。銃弾が作った木漏れ日の中、うずくまるように死んでいた。機銃弾が引き裂いた胸部は黒く焦げ、腸やその他内臓が飛び出ている。胴体と首とは、字句通り首の皮一枚でつながっているようなありさまだった。
乗っていたトラックが破壊されたスピネルや隊列の大勢は、トボトボと徒歩で目的地を目指していた。最前線へ向かうというのにまるで敗残兵の列だった。兵隊だというのに基本中の基本の行進の足取りすらてんでバラバラ、まったく揃っていない。全員が全員俯いていて、兵隊らしく前を見据えている奴などいやしない。ヘルメットやベルトといった装具品を所持していない兵も珍しくもなんともない。
元より、戦闘中に負傷して野戦病院に運び込まれた者の場合、装具品は治療の邪魔だからと搬送される過程のどこかで捨てられてしまったものもある。
野戦服は破れ、擦り切れ、補修もままならない。ベルトの代わりに電信線やツタを巻いている兵、ブーツが無くて代わりに布を足に巻き付けている兵。
軍歴の長い曹長がほとほと呆れてしまったのは、飯盒まで持たない兵がいることだ。飯盒は兵士の最後の生命線である。飯盒さえあれば雑草なりを煮て腹に入れることができる。自然界には寄生虫や細菌のためにそのままでは食べられないものがある。飯盒を所持していない兵はいずれかの過程で不可抗力のために失くしたか、重いからと捨ててしまったか。
一般に、兵隊が持ち運び可能な装備品の重量は体重の三五パーセントから四十パーセントとされている。しかし栄養失調に陥っている兵士にその基準を適応できるはずもない。必要最低限と兵士が思う物以外は、兵士はどんどんと自身の装備品を道端に捨てていった。
隊列の後方には後尾収容班なる一隊がついていて、落伍兵を回収して回っていた。
小休止の最中、隊列前方で爆発が起きた。すわ浸透してきた敵レンジャー部隊か。スピネルはすばやく道端に伏せ、自身でも驚くほどの早さで拳銃をホルスターから抜いた。
しかし続く爆発も銃声もない。やがて隊列は隊伍を組み直していく。行進を再開するとやがて前方から自殺だよ、と誰ともなく逓伝されてきた。
手榴弾による自殺だろうとしたスピネルの予想は正しかったようで、しばらく進んだ地点で道端の木陰に死体が転がっていた。首の根本付近で炸裂させたと見える。頭部は首から上が丸ごと無くなり、右腕も根本から外れ草木の中に転がり、左腕は辛うじて繋がっている。胸は大きく抉れ、骨や内臓が飛び出ている。あたり一帯に血や細かい肉片が飛び散っている。手榴弾の炸裂時には血が霧の如く噴霧したことだろう。
帝国軍では一般に自殺は降伏や自傷と同じく卑怯な行いと考えられている。総統と祖国への殉死を最大の名誉としている帝国軍だからこそ、戦死とそれ以外の死では扱いが大きく変わった。
それでも、この場で、スリン島で自殺を選んだ兵を責める者はいない。いったい誰がこの過酷で悲惨な状況下で自殺を選んだ者を責められるというのか。命令に従いこの島に赴任してきた兵士に責任などあるものか。
隊列は目的地に達するまでにさらに二人の自殺者を出した。
×××
スピネルは部下の分隊員十五名を伴ってようやくの思いで目的地に到着した。彼の分隊の中には銃傷を負って、本来なら本国送還になるほどの兵もいたが、小火器の取り扱いに事情のある兵は皆無だった。隻腕のスピネルだけが例外だった。重傷者であっても銃さえ撃てるなら志願を募るつもりだったがランド少将以下司令部だったが、結局移動にも戦闘にも耐え得る健康状態ではないとして取り止めになった。
ともかく、スピネルは国防軍の攻勢が開始されるまで分隊の練度向上及び若干の陣地構築、補強に努めることになる。スピネルが部下とともに配備されたのは最前線からおよそ十五キロメートル離れた第二防衛線。トロン港につながる街道の途上に設けられた主要防御線の一つである。
帝国軍の採択した防勢作戦は、トロン港につながる主要街道をいくつかの区間に分割し、各区間に防禦陣地を構築、各陣地に死守を命じることで救援到達までの時間を稼ぎ出す、というものだった。そのため厳密には『防禦』ではなく『遅滞』という軍事行動に分類される。遅滞は広義には防御行動ではあるもの、ランド少将が企図している作戦は遅滞である。
この陣地の中でスピネルが配置されたのは主陣地線。いざ戦闘が生起すればまず真っ先に敵の攻撃を受け止める陣地である。