第一話
スリン島内、帝国軍司令部。
民家の地下室に急遽設営された司令部にランド少将を始め参謀もそろっていた。急拵えの司令部だけに土っぽい。また、灯りも卓上の書類や地図を読み取るのに必要最低限の照量しかない。
そこへ通信兵が入室して、受信した命令文を手渡した。
命令文を通読したランド少将は、上の奴ら、やっと腹が決まったかと愁眉を開いた。
「諸君、撤退だ」
参謀も、揃って安堵の表情を見せた。全員、言葉には出さなかったものの、このままでは全滅か降伏は必至と覚悟していたから、尚一層である。
命令文は、要約すると以下のことが書かれていた。
帝国軍はスリン島を放棄、撤退する。帝国海軍は既にスリン島救援艦隊の出撃準備を整えており、到着まではおよそ二週間の予定。最後に、撤退に際して戦車、野砲等の重火器、資材は放棄して問題無い。
「どうなるかな」
少将は安堵に幾分心を安らげつつ、なおも険しい心境を崩さなかった。そしてそれは参謀連も変わらなかった。
というのも、国防軍の攻勢は二週間以内に開始される公算大なりと睨んでいたからだ。戦闘を繰り広げながらの撤退行など、練度的にも、飢餓に陥っている状況的にも可能だろうか?
不可能ではない。しかし限りなく困難だろうというのは論を俟たなかった。
戦いながらの後退というのは、言葉以上に難事である。規律を保ち、整然と退かなければ総崩れを起こし、算を乱して壊走する危険がある。そうした、後退戦闘中の、或いは誘因撃滅のために偽装撤退が敗走になってしまった事例は、戦史にいとまがない。練度が低ければ、尚更その危険がある。
また別の懸念もあった。島からの撤退である以上、船に乗らなければならない。ではどこから乗船するのか。現在、帝国軍の支配地域にある港は小規模で、大きさにも寄るが、帝国軍で一般的な輸送船は入港できない。港の水深が浅いのだ。
加えて、最後尾が、殿は乗船できるだろうか?
撤退は、離脱と離隔の二つの段階に分けられる。離脱は戦闘中の敵部隊との接触を絶ち、行動の自由を獲得するを意味し、離隔は、離脱した部隊が敵から更に遠ざかるを指して言う。
こうした任務に適するのは、戦車を戦力の基軸に据える戦車師団(国防軍だは装甲師団)である。強力な火力で敵に打撃を与え足止めし、爾後その快速を活かして離脱する。機動防御と呼ばれる。
しかしながら、スリン島の帝国軍にはそのための戦車師団がなかった。編制には組み込まれているものの、スリン島での相次ぐ激戦により、消耗著しく、戦車はその定数を大幅に割っていた。また弾薬、燃料の不足甚だしく、整備部品の供給も途絶えているために稼働率も低い。
このため、殿が機動防御で時間を稼ぎ、その隙に乗船するというのは実質的に不可能である。
補給科の将校もそう主張するに至り、少将は機動防御の案を捨てた。
「少将、戦車等は全て放棄してもよろしいのですよね?」
参謀の一人が確認する。その通りだ、と少将は首肯した。その参謀は、あまり推奨される方法ではないが、と苦々しく前置きした。それだけで少将を始め、全員が何を意図しているのかを察した。
「前線の兵に死守を命じましょう」
「つまり、兵士を死兵にして陣地防御を命じる、ということか」
少将は参謀の意図を汲み取った。少将は思考を巡らせる。確かに機動防御より成算は高いだろう。だからといって直ちに肯んぜる類いの作戦ではない。戦争で将兵が死ぬのは常であり、また将軍とは麾下将兵を死地に投じる立場にある。だからといって、将兵の戦死が前提の作戦など外道である。少将は忸怩たる思いだった。
とは言え、他に方策があるわけでもなし。
「それしかないか」
部隊の再配置に要する分の燃料はなんとか残っているという。
少将はその作戦を承認した。
作戦の基本方針が定まり、参謀連は直ちに仔細の策定にとりかかった。その最中、少将の脳裏にある考えが去来した。
前線の、特に敵攻勢開始後、すぐに撃破ないし戦闘力の喪失が予想されるだろう部隊に配分する弾薬は必要最低限、即ち極少量で良いのではないだろうか。
これは、補給の観点からは合理的である。しかしあくまで補給の観点からだけである。前線の将兵は、自分たちが早々に無力化される想定されていると知れば、どう思うだろうか。例えそれが客観的に正しくても、だ。士気は確実に落ちるであろう。補給と士気のせめぎ合う観点。
「それから、撤退の優先順位はどうする?」
要すれば、どの部隊、将兵を逃がし、或いは死守を命じるかの問題である。
参謀が応じる。
「やはり高級士官、それから経験豊富な兵士でしょう」
「うん、それが妥当だな」
別の参謀に懸念があった。
「賛成ですが、士官や経験豊富な兵を引き抜くと部隊が脆くなります。戦闘で時間を稼ぐにも最低限部隊を指揮できる人員が必要です」
「うん、うまく調整してくれ。さて、残置する部隊はどう決める?」
「志願がよろしいかと。命令されるより、士気の面で好ましいかと」
さらに、負傷兵を前線に送り返す案も出た。極端だが、銃さえ撃つことができるならば、戦闘に加入できる。
「結構だ。さて諸君。防御方法についてはどう考える」
少将は議論を誘導した。参謀全員が机上の地図に目を落とした。
現在帝国軍の支配地域は全て深い森林であり、幹線道路は少ない。特徴として、森林は平原より寡兵による防禦が可能である。深い森林は路外機動を著しく制限する。軍隊は、もちろん路外起動も可能だが、基本は街道によって戦闘を行う。進軍も補給も道がなければ行えないからだ。またコンクリートで整備された、四方八達した路はないため、戦車師団に代表される機甲戦力による縦横無尽な機動戦は不可能。
要約すれば、一ヵ所でも路を堰き止めてしまえば敵は前進停止を余儀なくされる。森林というのは、実に防禦に向いた地形なのだ。
ランド少将以下司令部が採択した防勢作戦は、トロン港につながる主要街道をいくつかの区間に分割し、各区間に防禦陣地を構築、各陣地に死守を命じることで救援到達までの時間を稼ぎ出す、というものだった。時間稼ぎを目標にしているため、厳密には『防禦』ではなく『遅滞』という軍事行動に分類される。遅滞は広義には防御行動ではあるもの、ランド少将が企図している作戦は遅滞である。
かくして基本方針は定まった。