第十七話
同日夜、スピネルの現在地は予備陣地。一度は守り切った主陣地は攻撃を再興した国防軍により奪取された。
スピネル曹長は木に背を預け空を、月を仰ぎ見ていた。月はしずしずとお淑やかに光を放っていた。夜の帳が曹長という階級を隠し、スピネルを今は一人の人間にしていた。
一人の人間となった時、月はスピネルにとって非常に人生に密接に関わる、感慨深いものだった。
スピネルには妻がいる。彼女、マリアと出会ったのはスピネルがまだ伍長の時分、訓練後に海岸を一人で散策している時だった。その時、太陽は水平線に限りなく近く、夕日は黄金と見紛うほどに輝いていた。その太陽の中、マリアは足首まで海に浸かっていて、ブロンドの巻紙は夕日に映えて輝いていた。スピネルは一目惚れした。
スピネルの行動は早く、訓練で使う暇がなくて金はあるからと必死に彼女をディナーの席に誘った。幸い海辺のレストランには空席があった。そのテラス席から見た月も今見上げているのと同じ形をしていた。
一九三九年四月。世界情勢はいよいよきな臭くなりつつあり、郡内でも開戦間近の雰囲気が濃密に漂っていた。この時期、スピネルは軍曹に昇任していた。順調に交際を重ねていた二人は再びあの日の海岸に来ていた。
スピネルは彼女の前に跪くと指輪が収まっている箱を差し出した。プロポーズの言葉はよく覚えている。今振り返ってもあまりに青臭かったからだ。
『俺の人生はこの場所で君と出会って変わった。今日、また俺の人生を変えてほしい』
彼女は少し恥ずかしそうに微笑むとコクリと頷いてくれた。その時のスピネルの喜びはこれ以上なく、彼女が苦しいからやめてと言うまで抱きしめ続けた。
両家親戚、小隊や新兵教育隊の同期、上官出席の元盛大に挙行された結婚式の後、スピネルは一週間の特別休暇を貰いハネムーンへ出かけた。
旅程の最後はあの海岸だった。夕方の少し前に海岸に着き、二人で夕日を来た。マリアは輝く夕日より遥かに綺麗だった。
二か月後の一九三九年六月二二日。帝国は連邦に宣戦布告。スピネルも参戦、最先鋒の中にいた。
ある日激戦の末に連邦の名もない小さな集落を占領した。まだ木造の家が燃え、死体が散らばっていた。けれど沈み行く夕日を見て初めて会った日のマリアの姿を鮮明に思い出した。夜、見上げた空にも同じ月があった。
スピネルは自身の死後、マリアが困らないように遺族年金や賞恤金を受け取れるように手配してある。スピネルにとって幸いなことに、二人には子供がいなかった。死後、マリアの再出発の邪魔にはならない。遺書にも自分のことは忘れて新しい伴侶を見つけるよう書いてある。
それでもしばらくは忘れないでいてほしかった。具体的には五年くらい。ウジウジと男らしくない惨めな感情だというのは彼自身自覚するところ。もっとも彼の現在置かれた状況を考えればこれ以上惨めになどなりようがなかった。
左胸のポケットから二葉の写真を取り出した。一葉は出征時に渡されたマリアだけが写っているもの、もう一葉は結婚時の写真。どちらも経年のために四隅がよれてしまっている。出征時に渡された写真の裏には『私に人生を変えられた人へ』と記されていた。
この『人生を変えた』というのは彼女のお気に入りの言葉だった。彼女はこのプロポーズの言葉を気に入り、手紙にはしばしば「『私が人生を変えた人へ』、『人生を変えた人より』と書かれていた。スピネルとしては気恥ずかしいばかりである。
きれいだ。口の中で呟いた。対して俺ときたら。スピネルは悲嘆に暮れた。もう骨と皮だけ。帰ってもマリアは俺と気付いてくれないに違いない。
再び月を見上げた。そういえば夕日を見れていない。森林の中では落ち行く日は木々に遮られてしまう。また見たい。けれどそれは叶わぬ願いだろう。
今晩、第二防衛線を預かるスピネル所属の連隊は主陣地を奪回すべく逆襲を発動する。スピネルはその最先鋒を努める。
さよならだ。言葉にするとボロボロと涙を流してしまいそうで、心の中でそう呟くと丁寧に丁寧に写真をポケットに戻した。




