第九十二話 闇に染まる聖女
祈り子の平原は、今日も風に満ちていた。
どこまでも広がる草原。
その草はただ揺れているのではない。
左右、まるで申し合わせたかのように、正反対の方向から風が吹き続けるせいで、草の一本一本が中央へ向かって身を寄せるように傾き、遠目には無数の人影が祈るように手を合わせているように見える。
空は高く、雲は薄い。
けれど、その美しさに心を奪われるには、吹き抜ける風が少し冷たすぎた。
「本っ当に不思議な場所ですよね〜。風に挟まれるって、わたし初めてです〜」
明るく弾む声とともに、白髪がふわりと揺れる。
左のこめかみあたりに刻まれた龍の翼の刻印が、日の光を受けて一瞬だけ浮かび上がった。
その少女――サリンドルは、足取りまで軽い。
まるで散歩にでも来たかのように、草を踏みながら先へ進んでいく。
「ウリンドラさんも初めてですよね〜?」
「サリンドル、うるさい! ちょっとは落ち着きなさい!!」
ぴしゃり、と飛んだ叱責。
サリンドルの隣を歩く少女――ウリンドラは、眉間に皺を寄せたまま前だけを見据えていた。
彼女の刻印は、右顎の下。
そこに刻まれた龍翼は、長い髪に隠れながらも、風に煽られるたびにちらりと覗く。
「え〜、それは無理ですよ〜。おしゃべりしてないと、なんかソワソワしちゃいます〜」
「もう! 集中しなさい! そろそろ着くんですよ!!」
その言葉に、サリンドルもようやく口を閉じた。
――次の一歩で、草原の気配が変わった。
さっきまで祈るように揺れていた草が、そこから先だけ不自然に枯れ果てている。
風は吹いているのに、枯草はぴくりとも動かない。
その先には――
所々に、神影隊の死体が転がっていた。
白い外套は裂け、血はもう乾ききっている。
だが、その死に様の無惨さだけは、時間が経っても薄れていなかった。
サリンドルの笑みが、そこでようやく消える。
「……やっぱり……本当に、私達を裏切ったんですね……」
声の温度が、すとんと落ちた。
ウリンドラは視線を逸らさない。
死体を一つ一つ確認するように見ながら、低く言う。
「行きますよ。……もうすぐ会えますから」
二人は速度を落とさず進んだ。
そして、平原の中心とも呼べるその場所で、ようやく“それ”を見つける。
白い石の上に、ひとりの少女が腰掛けていた。
足をぶらぶらと揺らし、まるで退屈そうに空でも眺めていたかのような気安さで。
その周囲には、神影隊の死体がいくつも転がっている。
無残に切り裂かれたもの。
首がねじ切れたもの。
身体ごと凍りついたまま砕けたもの。
血の匂いすら、風に紛れて薄れていた。
「やっと見つけました〜……ルシヴァラさん」
サリンドルがそう呼ぶと、石に腰掛けていた少女が、くるりと振り向いた。
白い髪。
色白の肌。
黒い瞳。
そして、場違いなほど屈託のない笑顔。
「あ!! サリちゃんだぁ!! 久しぶりだね!!」
その声だけ聞けば、旧友との再会そのものだった。
――だが、その瞬間。
空気が裂けた。
ウリンドラのチャクラム(円月輪)が、首を刈り取る軌道で一直線に走る。
ガキンッ!!
甲高い金属音が、平原に爆ぜた。
ルシヴァラの手には、いつの間にか巨大な大鎌が握られていた。
その柄で、チャクラムをぴたりと受け止めている。
「もう〜、ウリちゃん! 久しぶりなんだから、お話しようよ〜」
「あなたと会話する事なんてありません!!
ルクス・セカーレ(光炎斬撃)!!」
ウリンドラの腕が閃き、受け止められたチャクラムが今度は炎と光を纏って弧を描く。
灼熱の軌道が空を切り、ルシヴァラの胴を両断する勢いで走った。
「もう〜、会話しようよ〜!」
ルシヴァラは大鎌をくるりと回し、軽く弾く。
火花が散り、炎の軌跡が霧散した。
その背後には、既にサリンドルが回り込んでいた。
「フルメン・セカーレ(雷斬撃)!!」
雷を纏った斧が、空気ごと断ち割る勢いで振り下ろされる。
だが、ルシヴァラは身体を紙一重で捻った。
雷光の刃は頬を掠めるだけで空を裂き、そのまま地面を焼く。
「もー、二人とも気性が荒いよー」
「なんで避けるんですか〜?」
「サリンドル! 私に合わせてください!!」
「ウリンドラさん、分かりました〜!」
そこから先は、ほとんど嵐だった。
ウリンドラのチャクラムが幾重もの弧を描き、サリンドルの斧が雷を引きながら迫る。
上下左右、死角という死角を潰すような連撃。
呼吸を許さず、間合いを詰めさせず、休む暇すら与えない。
だが――
ルシヴァラは笑っていた。
「もうー! 二人ともー! 話そーよ!!
ノクス・フリグス(闇・冷気)」
大鎌が軽く振られた、その一動作だけだった。
ルシヴァラの周囲に、黒い冷気が渦を巻くように発生する。
触れた草が一瞬で凍り、祈るように揺れていた草原が、そこだけ死んだように静まった。
「なんですか!! これは……っ!! からだが……重い……!」
「もう〜!! 重い〜!!」
サリンドルもウリンドラも、目に見えて動きが鈍る。
筋肉が凍りつくような圧迫感。
骨の芯に直接霜が張るような冷たさ。
「ごめんねー。だってわたしの話、聞いてくれないからー」
「レナウス様を裏切った人と話す事なんてありません!!
フランマ・プルガ(炎浄化)!!」
ウリンドラがチャクラムを横薙ぎに放つ。
その軌道に沿って炎が輪を作り、黒い冷気を焼き払っていく。
「ウリンドラさん、ありがと〜!!」
冷気が晴れた瞬間、サリンドルが地を蹴った。
「ルシヴァラさん! 話す事なんてないから、やられてね〜!!
フルメン・ロターレ(回転雷)!!」
雷を纏った斧が、螺旋を描きながらルシヴァラへ襲いかかる。
ルシヴァラは大鎌でそれを受けるが、衝撃で石の足場が砕け、細かな破片が飛び散った。
「えー! 寂しーー!!」
「裏切りものがぁああ!!
セクティオ・ディヴィナ(神聖切断)!!」
ウリンドラのチャクラムが縦一直線に走る。
今度の一撃は、ついにルシヴァラの肩を浅く裂いた。
白い肌に、鮮やかな赤が滲む。
「もうー!! 痛いよー。わたしもやり返すー!!」
その瞬間から、空気が変わった。
今まで受けに徹していたルシヴァラが、初めて自分から距離を詰める。
大鎌の刃が低く唸り、サリンドルの攻撃を流しながら、そのままウリンドラへ踏み込んだ。
「ウリンドラさん!!」
「大丈夫です!!」
「余裕だねー、ウリちゃん!!」
声が耳元に落ちたと思った時には、もう遅い。
ルシヴァラは、いつの間にかウリンドラの背後にいた。
「フリグス・ロターレ(冷気回転)」
冷気を纏った鎌が、背中を大きく抉る。
「うぅっ!! このぉ!!
ロタ・ムルティプレクス(多重円)!!」
血を散らしながらも、ウリンドラは振り向きざまに複数の炎のチャクラムを放つ。
円、円、円――灼熱の輪が重なりながら殺到する。
ルシヴァラはそれを大鎌で一つずつ弾く。
火花が乱舞し、炎が草を焼き、風が熱を巻き上げる。
「私も忘れないでよ〜!
ルクス・ペルクテレ(光打撃)」
サリンドルが高速で踏み込み、斧を叩き込む。
光を帯びたその一撃は、まともに入れば骨ごと砕く威力だった。
だが。
「ルクス・ウンブラ・イアクトゥス」
ルシヴァラの鎌が一閃する。
光と闇、相反する二つの斬撃が同時に放たれ、二人へ襲いかかった。
「闇のマナ!!!」
「ルシヴァラさん!! 光も使えるだ〜!」
「サリンドル!! 耐えてください!!」
「うん〜……でも……ちょっとキツいかも〜」
二人は互いを庇うように位置を変えながら、その斬撃を受け流し、防ぎ、逸らしていく。
だが完全には防ぎきれず、衣が裂け、腕や頬に浅い傷が増えていく。
やがて斬撃が止み、辺りに砂煙が立ち込めた。
「二人ともやるねー……」
煙の向こうから、ルシヴァラの暢気な声だけが響く。
ウリンドラが傷を押さえながら、一歩前へ出た。
「ルシヴァラ!! なぜ貴方は!!
闇のマナに手を出したんですか!! どうしてぇ!!」
「おー、やっとお話ししてくれるのー?」
「ルシヴァラちゃん〜、教えてください〜。
そんな穢れた力を使うなんて、頭おかしいんじゃないですか〜?」
ルシヴァラは大鎌を地面に立て、くすくすと笑う。
「サリちゃんー。闇のマナ使うとねー、なんかグワァーってなるんだよー」
「ルシヴァラ!! 貴方はどこでその力を得たんですか!!」
「えー? この闇のマナ?
そうだねー、黒雪水を飲んだら使えるようになったー」
「黒雪水を飲んだ……ですって……」
「ルシヴァラさん……やばくないですか〜……」
「なんでそんな驚くのー? 少し興味あったから飲んでみただけだよー」
「そ、そんな!! 興味ってなんですか!!」
「えー? だってさー、黒雪はわたし達には効かないからさー。黒雪が溶けた水でも大丈夫かなってー」
そして、無邪気に続ける。
「前にねー、黒雪水飲んでた人いたよー」
ウリンドラとサリンドルの表情が凍る。
「そんな人、いるわけ……」
「ルシヴァラさん〜、そんな人いるわけないよ〜」
「えー、確か名前は“ルシュア”って言ってたようなー。
まあ変な人だったけど、割とわたしと話が合ってねー」
その名前が出た瞬間、二人の目の色が変わった。
「……ルシヴァラ。今、ルシュアと言いましたか」
「うんー! 言ったよー? なんで二人ともまたそんな怖い顔するのー?」
サリンドルの笑みが完全に消える。
「ルシヴァラさん……ルシュアは、最優先排除対象なんですよ」
「この人が、どれだけの聖女を今まで殺してきたか……」
「へー、そうなんだー。あんま総司令の話とか聞いてなかったから分かんないやー」
その言葉で、もう十分だった。
ウリンドラとサリンドルは、同時に武器を構える。
眼差しに、もはや一片の迷いもない。
「聖女殺しと意見が合い、闇のマナを持つ聖女……。
貴方は我々の敵です……!」
「今ここで、貴方を殺します!!
ルシヴァラ・ノクティラ!!」
「ウリンドラさん〜、龍翼の力を解放しますね〜」
「そうですね。一気に片をつけましょう……!」
二人が同時に詠唱する。
「「アセンシオ(龍翼顕現)」」
光が爆ぜた。
二人の背から、眩い光のマナが噴き上がる。
その光が形を成し、やがてそれぞれの背中に――片翼の龍翼が顕現した。
平原を吹く風が、一層強くなる。
祈るように傾いていた草が、一斉にざわめいた。
対するルシヴァラは、ただ嬉しそうに目を細める。
「わあ……。
やっと本気で遊んでくれるんだねー」
その笑顔だけが、やけに子どもらしくて。
だからこそ、余計に不気味だった。




