第八十三話 託された願い
一瞬、音が消えた。
床に散った血と、砕けた岩の欠片が、ゆっくりと転がる。
白い石の広間に残っているのは――
割れてなお黒く脈動している魔石の欠片と、
ゼーラがいたはずの場所一面に広がる、赤黒い染みだけ。
誰も、すぐには動けなかった。
「……ゼーラ……?」
ルインの声は、乾いて掠れていた。
返事は、どこからも返ってこない。
アデルは拳を握り締めたまま、ただそこに立ち尽くしていた。
喉の奥で、言葉にならない声が渦巻く。
――ウソだろ。
――ウソ、だよな。
ゼーラが命を賭けて放った最後の一撃で、
キメラは確かに倒れた――そう思った、その時だった。
ずるり。
湿った、嫌な音が、背後から広間に落ちた。
アデルとルインは、ほとんど同時に振り返る。
裂けたはずの獅子の腹が、ぴくりと動いた。
黒い血をぼたぼたと垂らしながら、
四本の脚がぎこちなく床を掻き、蛇の尾がずぶずぶと中から這い出してくる。
金色の双眸が、まだ光を失っていなかった。
「……生きてる」
アデルの喉から、低く唸るような声が零れる。
獅子は、もはや咆哮しなかった。
頭を壊れた人形のようにカクカクと傾けながら、
ガラス玉のような目だけをぎょろりと動かし、
次の獲物を探すように視線を彷徨わせる。
「……なんで……まだ、生きてんだよ……」
ルインは歯噛みしながら、掌に岩のマナを集める。
魔石は、砕けかけている。
だが完全には壊れていない今のキメラは――
もう理性も形も関係なく、
ただ「殺す」という衝動だけで動く、塊だった。
「オキデレ!!(斬撃)!」
ルインの手に、細長い岩の刃が生まれる。
それを振り抜き、獅子の頭目掛けて不可視の斬撃を飛ばす。
だが、獅子は一歩も退かず、そのまま頭部で斬撃を受け止めた。
毛と皮膚が切り裂かれる感触はある。だが、止まらない。
「さっさとくたばれよ!!
ゲネシス・グラディウス(剣)
コンパンクション!!(刺す)!」
ルインはもう片方の手に岩の剣を生成し、獅子の片目に向けて突き立てる。
ぶちり、と嫌な音がして、剣は眼窩を深々と貫いた。
「グロォオオオオオオ!!」
初めて、獅子が「痛み」による咆哮をあげる。
「プグヌス・ディレクトゥス!!(直進拳)!」
遅れず飛び込んだアデルの拳が、横腹にめり込む。
骨が軋む手応え。
獅子の巨体が横に弾かれ、壁へと叩きつけられる。
「ゼーラを……よくも、よくもぉ……!」
アデルがさらに追撃に移ろうとした、その腕を――
「アデル……待て」
ルインが掴んだ。
「は? ルイン、離せって――っ!」
振り返ったアデルは、一瞬言葉を失う。
ルインの眼が、見たこともない色をしていたからだ。
普段のへらっとした笑みも、軽口もない。
ただ、燃え盛るような、殺意と覚悟だけが宿っていた。
「アデル……」
ルインは低く、しかしはっきりと言う。
「おまえは“魔石だけ”を狙え。そこに全部叩き込め。
いいな」
「ルインは……どうすんだよ」
「俺は、全力で“隙”を作る」
ルインの視線が、けして弾かれないようにと獅子を捉え続ける。
「ゼーラが命を賭けて、キメラの魔石を“破壊寸前”まで追い込んだからな。
今度は、俺の番だ」
「ルイン……」
アデルは、それ以上ルインに何も言えなくなった。
自分さえ、ゼーラが死んだことから目を逸らしている。
今、それを真正面から見ているルインに、何を言える。
感情に飲み込まれたら――本当に折れてしまうのは、誰より自分だと分かっていた。
「一撃でアイツを仕留める」
アデルは、拳を握り直して言う。
「……後、ルイン。蛇が消えた。どこかに潜ってやがる」
「ああ。分かってる」
「グロォオオオオオオ!!!」
キメラの身体が、ぎしぎしと不気味な音を立てながら起き上がる。
裂けた腹から臓腑がこぼれそうになりながらも、
獅子は両足で床を掴み、再び二人に向き直った。
「行くぞ、アデル」
ルインが言う。
「俺達の“最後の攻撃”だ」
「ああ……!」
二人は同時に地を蹴った。
ルインは正面から真正面へ。
アデルはその影から、側面へ回り込み、一気に距離を詰める。
「ゲネシス・マレウス!! ヒット!!」
ルインの全力の槌が、獅子の正面へ叩き込まれる。
だが、獅子は左前脚でその一撃を受け止めた。
「ちっ!」
ほんの一瞬足が止まる。
その刹那を逃さず――
「プグヌス・ディレクトゥス!!(直進拳)!」
アデルの渾身の一撃が、横腹へ突き刺さる。
内側で何かが潰れる感触とともに、獅子の身体が大きく傾き――
そのまま、アデルめがけて体ごとぶつかってきた。
「ぐふっ……!!」
壁に叩きつけられ、アデルは床を転がる。
肺の空気が全部搾り出されたみたいに、呼吸が苦しい。
「モロには、入った……!」
歯を食いしばりながら、アデルはなんとか片膝を立てる。
「アデル!!! テメェ!!」
ルインが叫んだ。
「ゲネシス・ハスタ!!(槍)!」
今度、ルインが生成したのは槍だ。
「ウェッレンス!!(薙ぎ払い)!!」
横薙ぎに払われた槍の一撃が、獅子の首を切り飛ばさんと迫る――
だが、獅子はぎりぎりでその場から跳躍した。
「なっ……!」
獅子はそのまま、跳躍の勢いを殺さず、口を大きく開けた。
狙いは、そのままルインの胴体。
噛み千切るつもりだ。
ルインは槍を逆手に持ち替え、勢いのまま獅子の口腔内へと突き刺そうとした――その瞬間。
「――っ!?」
獅子の喉奥から、黒い影が飛び出した。
さっきまで姿を消していた“蛇”が、口の中から不意打ちのように現れ、その牙をルインの顔目掛けて突き立てる。
完全に避け切るには、あまりにも近かった。
「……ッ、くそっ!!」
右頬を、何か熱いものがえぐり取っていく感触。
皮膚と肉が裂け、骨に当たる鈍い痛み。
頬から大量の血が飛沫になって吹き出し、床に点々と赤を撒き散らす。
「まだだぁああ!!!」
痛みを押し殺し、ルインは槍をさらに伸ばした。
獅子の口の中――
蛇ごと貫くつもりで、突き上げる。
蛇はぎりぎりのところで身をくねらせ、その一撃を避けたが、
獅子の喉肉は逃げ切れない。
槍は上顎をぶち抜き、獅子の頭蓋を内側から串刺しにする。
獅子の巨体が、宙でちゅうぶらりんになった。
前足と後ろ足が空中でバタバタと暴れる。
蛇だけが、その中でなおも自由に動き、今度はルインの肩や腕、胸元へと何度も牙を突き立てた。
肉が裂けるたび、赤が飛ぶ。
それでもルインは――倒れない。
槍が折れないように。
獅子が落ちないように。
そして、アデルが“狙えるように”。
全身の筋肉が悲鳴をあげる中、ルインはただ一心に槍を支え続けた。
「アデルゥウウウ!!! やれぇえええ!!!!!」
怒号というより、魂そのものを吐き出すような叫び。
「くたばれやぁあ!!
プグヌス・ディレクトゥス!!!」
アデルが地面を蹴り、獅子の腹――
ゼーラが穿ち、ヒビだらけになった魔石めがけて、一直線に拳を叩き込む。
バキィン――ッ!!
乾いた破砕音が広間に響いた。
魔石が、粉々に砕け散る。
その瞬間、槍にかかっていた重みが消えた。
槍の軸が悲鳴を上げるように折れ、ルインの身体もまた、糸が切れた人形みたいにその場へ崩れ落ちる。
キメラは、口からどろりと血を吐き――
それきり、ぴくりとも動かなくなった。
「ルイン!!」
アデルは、慌ててルインの元へ駆け寄る。
「ア……アデル……」
ルインはかすれ声で笑った。
「ナイス、だ……」
顔は血でぐちゃぐちゃだった。
右頬は抉れ、肩や胸、腕も蛇に噛み千切られて穴だらけだ。
それでも、目だけは、まだちゃんとアデルを見ていた。
「ルイン!! ルイン!! しっかりしろぉ!! ルイン!!」
アデルはその身体を抱き起こし、必死に呼びかける。
「アデル……」
ルインは、ゆっくりと口を開く。
「おまえは……ゼーラも……生き返らせるのか……?」
「あ、あたりまえだろぉ!!」
アデルは、喉が痛くなるほどに叫ぶ。
「絶対、生き返らせる!! 絶対だ!!
だから、安心しろ……!」
「アデル……」
ルインは、苦しそうに笑う。
「もう……“人を生き返らせるために”……塔に挑むの、やめないか……?」
「なに……言ってんだよ、ルイン……」
アデルの声が、揺れる。
「アデルは……この先、まだまだ、いろんな奴らと出会う」
ルインの言葉は、ところどころ途切れながらも、確かに紡がれていく。
「旅をして……笑って……喧嘩して……
そんで、旅の途中で死んだり……魔物にやられたりする奴も、きっと出てくる……」
「……だから、何だよ……」
「アデルは……そいつらを、生き返らせるため“だけ”に……塔を攻略するようになるだろ……?」
「あ、あたり……まえだろ……」
「もう……そんな、ためだけに……塔に挑むな……」
「は?……ふざけんなよ……!」
アデルは、首を振る。
「オレは絶対、生き返らせる! 絶対だ!!」
「仮に……全部の塔を……攻略しても……」
ルインは、薄く目を閉じかけながら続けた。
「願いが……“一人”しか、生き返らせられないって、言われたら……どうする……?」
「んなこと……決まってるだろ……!」
アデルは叫ぶ。
「何度でも、何度でも、オレは塔へ挑んでやるだけだよぉ!!」
「……はっはっ……アデルらしいな……」
ルインの口元が、少しだけ笑った。
「でもな……俺は、そんなこと……望まない……
ゼーラも……グリムも……きっとだ……」
ゼーラは、俺達を生かすために。
グリムは、俺達を守るために。
自分の命を賭けた。
「俺も……だがな……」
「ルイン……なに、言ってんだよ……ルイン……」
「だからよ……アデル……」
ルインの視線が、真っ直ぐにアデルを捉える。
「おまえが死んだらよ……俺達は、きっと辛い。
自分を犠牲にしてまで、生き返らせて欲しくねぇ……」
血まみれの指が、アデルの胸ぐらを軽く掴む。
「だからもっと、大事にしろ……自分を……そして、リノアも……」
「おい……ルイン……」
「おまえが……そんな急いで……塔の攻略に走ると……」
言葉が、ところどころ途切れていく。
「アデルの近くにいる奴らまで……危険が迫るぞ……
リノアを……失うかもしれねぇんだぞ……」
「オレは……いやなんだよ……」
アデルは、唇を噛み切りそうな勢いで言う。
「みんなが……オレの周りからいなくなるのが……
オレはもっと、ルインやゼーラ、グリム、ルナ達と……一緒にいたいんだよ……!」
「……おまえ……口は悪ぃけどよ……やっぱ、いい奴だな……」
ルインの声が、少しだけ軽くなった。
「ならさ……俺の願い……おまえに託しても、いいか……?」
「ルインの……願い……」
「俺は……塔を全部攻略したら……」
ルインの目が、ほんの少しだけ遠くを見た。
「“みんなが幸せに暮らせる世界を作ってくれ”って……言うつもりだった……」
「みんなが……幸せに暮らせる世界……」
「そうすりゃさ……貧困もなくなるし……殺しもなくなる……
戦争も、ない……」
ルインの声が、かすかに弾む。
「みんなが……笑って暮らせる世界……
最高だろ……?」
「めっちゃくちゃ……いいな、それ……」
アデルは、鼻をすすりながら笑った。
「なら……ルインは、それを叶えねぇとな!」
「悪ぃ……アデル……俺には……もう無理だ……」
ルインの指から、少しずつ力が抜けていく。
「だから……アデル……俺の願いを……叶えてくれねぇか……?」
「ルイン!! ふざけんじゃねえよ!!」
アデルは叫ぶ。
「もうちょいしたら……雨が降るって!
それまで耐えろよ!! なあ!!」
「アデル……」
ルインは、腕を伸ばした。
震える腕が、アデルの胸元に届く。
「託しても……いいか……?」
アデルは、その腕を両手で掴んだ。
「わ、分かった……!」
声が裏返る。
「オレが……ルインの願い、引き継ぐからよ……
だから……だから、ルイン……!」
視界が滲んで、ルインの顔がよく見えない。
「オレは……おまえ達と出会えて……
オレは……最高に楽しかったぜぇ……!」
「アデル……」
ルインの口元が、最後にもう一度だけ笑った。
「今まで……あ……り……が……と……な……」
その手から、完全に力が抜けた。
「……あ……」
腕が、ずるりと落ちる。
呼吸の音が、消える。
「くぅ……」
アデルの喉の奥から、何かがせり上がる。
「うぁああああああああああああああああああああああ!!!!」
亀裂の入った白い石の広間に、アデルの泣き叫ぶ声が響き渡る。
ゼーラも。
ルインも。
塔の中で失われた命が、静かに、しかし確かにそこに刻まれていく。




