第八十二話 血の岩花
羊は、ただ、メエーと鳴いただけだった。
それだけなのに。
リノアの背中を、冷たい汗が一筋、ぞくりと伝う。
「……笑ってる」
誰に向けるでもなく漏れた声は、自分でも驚くほど震えていた。
羊の顔は、鼻先も口元もほとんど動いていない。
それでも、瞳の奥が、はっきりと愉悦に歪んでいた。
リノアの風の鞭を、奴はじっと見ている。
獲物ではなく、「同じ遊び道具」を持った相手を見るように。
次の一手を、楽しみに「待っている」みたいに。
次の瞬間だった。
羊の腕が、ほんのわずかに動く。
ぱしん――。
音より先に、空気が裂けた。
「っ!」
反射的に、リノアも風の鞭を振る。
「フラッゲルム!!」
風が唸り、鋭くしなった風鞭が、黒い鞭に向かって弾丸のように走る。
二本の鞭が、空中で交差した。
風と黒。
触れた瞬間、空間が白く弾けたような衝撃が走る。
リノアの腕に、ビリビリと痺れが走り、指先が一瞬開きかける。
「な……っ」
羊は、もう一度メエーと鳴いた。
さっきより、少し高い声で。
それは、間違いなく――喜びの声だった。
「はああ!!」
羊が鞭を再び振り抜く。
リノアも負けじと風鞭を振るい、二本の鞭が、再び空中でぶつかり合う。
パアンッ! パアンッ!
爆ぜるような音が広間に響き、二人の足元から砂埃が舞い上がる。
「つ、強い……!」
リノアは歯を食いしばる。
「今はなんとか対応できてるけど……鞭が当たるたびに、手が痺れる……!」
羊は、今度は腕を大きく振りかぶった。
黒い鞭が、先ほどまでの比ではない速度と重さで叩きつけられる。
その一撃で、リノアの風鞭は弾かれ、軌道を乱されて宙に跳ね上がった。
同時に、羊は躊躇なく獅子の背から地面を蹴る。
角が前方に突き出され、弾丸のような勢いでリノアとの距離を詰めてくる。
「アネマ!!!」
リノアは咄嗟に風の塊を放つ。
パシッ!!
黒鞭が一閃し、風の弾はあっさりと打ち消された。
「くっ!! まだよ!! アネマ!! アネマ!!」
続けざまに風弾を撃ち出すが――
パシッ! パシッ!!
すべて、鞭の一薙ぎで霧散させられる。
それでもリノアは後退の足を止めず、バックステップで距離を取る。
だが、羊はそれを追い詰めるようにさらに加速し、角を構えたまま突進してくる。
(くる……!)
リノアは両手を合わせるように前へ突き出し、掌に風のマナを叩き込む。
「アネマ・イクトゥス(風の打撃)!!」
圧縮された風の塊が、羊の顔面に向かって飛び出す。
それは確かに命中し、羊の頭部を揺らした――だが。
勢いは、止まらなかった。
「――っ!!」
ゴンッ、と鈍い音が腹部で鳴る。
次の瞬間、視界がぐるりと回転した。
羊の角が、真正面からリノアの腹に突き刺さっていた。
そのまま、突進の勢いごと吹き飛ばされ、リノアは地面を何度も転がる。
「ぐほっ!!」
肺の空気が一気に押し出され、呼吸が苦しくなる。
「ッケホッ……ッケホ……ヒール……!」
呻きながら、自分自身に回復魔法をかける。
全快には程遠い。けれど、何もしないよりはマシだ。
緑の光が、かすかに傷の痛みを和らげる。
「メエー! メエー!」
羊は、口を大きく開いて鳴き、楽しそうにこちらを見下ろしていた。
「……はら、たつな……」
リノアは荒い息の合間に唇を歪める。
「リノアァアアア!!! このクソ羊がぁ!!」
アデルが割り込むように前に立った。
「アデルゥウ!!」
リノアが叫ぶ。
「このクソ羊は、わたしに任せて!! アデルはゼーラをお願い!!」
「リノアてめぇ!! ボロボロだろうがぁ!!」
「こんな雑魚野郎、わたし一人で十分だから!!
だから行ってぇ!!」
リノアは顔を上げ、怒りと意地と決意の入り混じった表情でアデルを睨む。
羊も、アデルを一瞬だけ横目で見たが――
すぐに興味を失ったように、再びリノアだけを見据える。
完全に「標的」を決めていた。
「リノア!! てめぇも、早くこい!!」
「すぐ行くよ!!」
アデルは舌打ちを一つ残し、獅子の方へと駆けていく。
リノアは腹部の痛みを押し殺し、震える手で再び風の鞭を構える。
(あの鞭を――わたしの魔法で、斬る)
(グリ兄……見てて)
羊が再び角を構えた。
蹄が床を蹴る。
「メエェエエエエ!!」
獣じみた咆哮とともに、再び突進。
「メエメエメエ!! うるさい!!
ラミーナ!!」
リノアの風刃が矢のように何本も放たれ、羊へ向かって飛ぶ。
羊は、その鋭い角で一つ一つを弾き、斬り裂き、風を掻き消していく。
風の刃が砕けるたびに、羊の顔にはまた薄い笑みが浮かんだ。
(違う……)
(ただ撃ってるだけじゃダメ……)
グリムの声が、頭の中で蘇る。
――マナを出し続けるんじゃなくて、
一瞬、一瞬を区切って圧縮して、
「塊」として前に送り出してみろ。
息を吐き続けるだけの魔法じゃない。
息を「刻んで」撃ち出す魔法。
(マナを出し続けるんじゃなくて。
マナを区切って、圧縮して、
“塊”として前に――!!)
「ラミーナ!! ラミーナ!! ラミーナ!!」
リノアは後退しながら、連続で風刃を撃つ。
さっきまでの風とは違う。
一発一発に、ぎゅっと圧縮された重さが乗り始める。
羊は変わらず角でそれを打ち消していくが――
次第に、その表情から余裕の笑みが少しずつ剥がれていった。
「ラミーナ……ラミーナ……ラミーナ……!」
風刃の軌道が鋭くなり、音が変わる。
ぶつかった瞬間、キン、と金属同士がぶつかるような音が広間に響き、
羊の角に、小さなヒビが走った。
「……ッ!」
羊の瞳が、初めて大きく見開かれた。
その一瞬を、リノアは見逃さない。
「グリ兄!!」
リノアは叫ぶ。
「力を貸してぇ!!
ラミーナ・マグナァア!!
(大風刃)!!」
空気が震えた。
リノアの前に、今までの数倍はあろうかという「分厚い」風刃が生成される。
それはまるで透明な大剣のように形を変え――羊めがけて一直線に飛ぶ。
「メ――」
最後の鳴き声は、途中で途切れた。
風剣は、ヒビの入った角を容易く貫通し、そのまま羊の身体ごと縦に引き裂く。
羊の体が、綺麗に真っ二つに割れた。
遅れて、獅子の足がふらつく。
羊の断面から黒い血が吹き出し、床へと飛び散っていく中――
リノアはその場に、膝から崩れ落ちた。
「はあ……はあ……」
喉が焼けるほど息が荒い。
「やった……よ……グリ兄……」
腹部の傷と、限界まで絞り出したマナに、もう立ち上がる力は残っていなかった。
それでも、リノアの顔には、確かな達成の色が浮かんでいた。
ーーーーーー
「おい!! いい加減、俺に目ぇ向けろ!!」
ルインの怒号が響く。
「ゲネシス・ノワークラ!!(岩短剣)
コンパンクション!!(刺す)」
ルインの手の平に連続で展開される。
そこから生まれた岩の短剣が獅子を斬る折れても生成し、そのたびに獅子の脇腹や首元へと突き立てられる。
だが――。
「っ……!」
亀裂は入る。
短剣も、深く刺さっている。
それでも、獅子の毛皮と筋肉は異様なほど硬く、短剣はすぐに軋み、砕け散っていく。
生成しては砕け、生成しては砕け――。
「どけぇ!! ルイン!!」
頭上から声が降ってきた。
「――ッ!?」
ルインが反射的に横へ跳ぶと、獅子の頭上から落ちてくる影。
アデルだ。
「脳天カチ割れろやぁ!!
プラーガ・カルキス!!(踵落とし)」
アデルの踵が、高所から獅子の頭頂めがけて落ちる。
鈍い「ボンッ」という音が、骨の奥まで響くように広間を振動させた。
獅子の頭部がぐらりと揺れ――しかし、その金色の双眸は、相変わらずゼーラだけを映していた。
ゼーラの作った岩壁へと向かう爪の嵐は止まらない。
むしろ、さっきよりも速度と破壊力を増している。
岩壁には、蜘蛛の巣状にヒビが広がり始めていた。
「ゼーラ!! 遠くへ逃げろ!!」
ルインが叫ぶ。
「まだです!!」
ゼーラの声は震えているのに、不思議と濁りはなかった。
「まだ……ダメなんです!!」
獅子の爪が、岩壁を一枚、また一枚と抉り取っていく。
そのとき――蛇が動き出した。
「おい、蛇が――」
アデルが顔をしかめる。
「クソッ!!」
「アデル!! 絶対噛まれるなよ!!」
ルインが叫びながら岩短剣を生み出し、獅子への攻撃を続ける。
蛇は頭をもたげ、シャアア、と湿った音を立てて舌を伸ばす。
毒で濡れた牙が、アデルの喉元や腕を狙って何度も襲いかかるが、アデルも必死に身を翻し、拳や蹴りでその頭部を弾き返す。
だが――獅子の毛と同じく、蛇の鱗もまた、異様なほど固かった。
攻撃は通っている感触はある。
だが、決定打には届かない。
「ゼーラ!! 早く!! 早く遠くへ!!」
ルインの声は焦りで掠れていた。
獅子の攻撃がさらに激しくなり――ついに。
ゼーラの作り出していた岩壁が、悲鳴を上げながら崩れ始める。
最後の一枚が砕け散り、ゼーラの姿がむき出しになった。
「ゼーラ!!」
ルインが叫ぶ。
ゼーラは、獅子と正面から目を合わせていた。
その目は、恐怖に揺れていないわけではない。
それでも、その奥底に宿る決意は揺るがなかった。
「ルイン……アデルくん……」
ゼーラは振り返らずに、静かに言う。
「リノアさんを……頼んでも、いいですか?」
「は?……何、言ってるんだ……ゼーラ!!」
ルインの喉が凍りつく。
「キメラは、私を殺すまで狙い続けます!!」
ゼーラは一歩、前へ踏み出した。
「だから……ただでは死にません!!」
「何、言ってんだよ!! ゼーラ!!」
ルインは叫びながら岩槌を生成する。
「ゲネシス・マレウス!!
くたばれよ!! キメラが!! ヒットォオオ!!」
再び槌の衝撃が獅子の体を揺らす。
だが、獅子はたしかに怯んだものの、あくまで「ゼーラ」だけを標的に爪を振り下ろし続ける。
「グリムさん……」
ゼーラは、小さく呟いた。
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「よし、ゼーラは魔法を撃つ時、マナを出し続けてないんだ」
グリムの声が蘇る。
「ソルマとかならそれでもいいけどな。だけど、岩壁だったり、岩針は、マナを注げば注ぐほど、威力も上がるし耐久値も上がる。
だから――“マナを出し続ける”訓練だ!!」
「はい! グリムさん!!」
汗だくのゼーラが、何度も岩を作っては維持しようとしていた。
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「グリムさん! 他にも魔法を教えて欲しいです!!」
ゼーラは目を輝かせていた。
「たとえばですね……体の周りに尖った岩が生成されて、相手が攻撃してきても傷を負わせることができる魔法とか……ですかね?」
「あるぞー!」
グリムが即答する。
「あるんですか!! ぜひ教えて欲しいです!!」
「ちゃんと“段階を踏んで”覚えることを約束できたら、教えてあげるわ」
「グリムさん……なんでですか?」
「失敗するとな」
グリムは、少しだけ真顔になった。
「体から岩が生えて飛び出すからな。ハッハッハ!」
「え……そうなんですか……?」
「おう。マルタが失敗して、体から尖った岩が飛び出して、死にかけた。
まあ、ハイポーションのおかげで助かったけどな。
怖くなって、それ以来やめた魔法だ」
「私!! 覚えます!!」
ゼーラは一歩前へ出た。
「守られるだけじゃなくて、ちゃんと“守れる”ようになりたいです!! 堂々と援護したいので!!」
「よしっ!! なら、教えるぞ!!」
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「グリムさん……」
崩れかけた岩壁の隙間から覗いていた過去の光景が、音を立てて崩れ去っていく。
ゼーラは、自分の身体の内側から走る激痛を感じていた。
「すみません……段階、踏まずに使い……ますね……」
「おい! ゼーラ!!」
ルインが叫ぶ。
「ゼーラ!! ……ゼーラ、その体……!」
壊れかけた岩壁の隙間から覗いたゼーラの身体――。
そこには、信じがたい光景があった。
ゼーラの体の内側から、いくつもの尖った岩が突き出していた。
肩、脇腹、太腿、背中。
皮膚と服を突き破って突き出た岩は血に濡れ、服は真っ赤に染まっている。
「ルイン……」
ゼーラは微笑もうとして、まともに顔を上げられなかった。
「私を……守ってくれて……ありがとう……」
「は…だから.....何言ってんだよぉお!!」
ルインは叫んだ。
槌を再び生み出し、狂ったようにキメラの頭部や肩や脚へ叩きつける。
それでも獅子は怯まず、ただひたすらゼーラだけを狙い続けている。
ゼーラを守るための岩壁も、ルインの槌も――
すべてが時間稼ぎ以上の意味を持てなくなっていた。
最後の岩槌が砕け散るのと同時に――
ゼーラを囲っていた岩壁が、完全に崩れ落ちた。
「ゼーラ!!!」
獅子の視界に、守るもののなくなったゼーラの姿が晒される。
だが、その瞬間。
ゼーラの足が、ふらつきながらも一歩、前へ出た。
崩れ落ちる岩片をすり抜けるようにして、彼女はキメラの腹部――魔石のある場所へと、全身を預けるように抱きつく
「ルイン……」
ゼーラは、彼の方だけを一瞬だけ振り返った。
「じゃあね……ルイン……」
「ゼーラァアア!!!」
叫びは、獅子の咆哮にかき消されそうになりながらも、確かに届いていた。
次の瞬間――
ゼーラの体内で形作られていた全ての岩が、一斉に外へと“爆ぜた”。
ズドン――!!
血とともに飛び出した尖った岩が、キメラの腹部を内側からも外側からも串刺しにする。
そのうちの一本が、魔石を正確に打ち抜いた。
キメラ全体が、ビクリと痙攣した。
獅子の咆哮と蛇のうなり声と、羊の断末魔にも似た声が、全部一緒になって響く。
その中心で――ゼーラの身体は形を保てずに、四方へと飛び散った。
床や壁に、赤黒いものが点々と降り注ぎ、広間を染めていく。
そこにあったはずの「人の形」は、もうどこにも残っていなかった。




