第七十七話 英雄の断絶
闇人は、アデルの蹴りを受けた顔を、指先でなぞるように撫でた。
「アナタ〜、元気ですね〜」
五つも並んだ口が、ずるりと持ち上がる。
その笑みは、感情というより“構造物”のようで、冷たい目だけが一切笑っていなかった。
「……殺す」
アデルの喉の奥から、掠れた声が漏れる。
腕の焼ける様な痛みはまだ残っていたが、
拳に、ありったけのマナを込める。
骨が軋むのも構わず、右腕に力を込めて飛び込んだ。
「うおおおおおらああああ!!」
闇人の目の前まで踏み込んだ瞬間――
「邪魔なので〜」
黒い指先が、ひょいっと持ち上がった。
「禍女と一緒の場所に行ってもらえますか〜?」
軽く弾いた、それだけだった。
ただの“デコピン”に見えた。
「――かっは」
次の瞬間、アデルの体は折れ曲がる。
内臓を内側から叩きつけられたような衝撃が駆け抜け、肺から勝手に空気が吐き出される。
「ケホッ……っ、く……てめぇ……!」
膝をつき、腹に手を当てた瞬間――
指先が、“空中”を掴んだ。
お腹の一部が、抜け落ちたように空洞になっていた。
服が破け、そこから覗く肌の中央に、ぽっかりと“穴”が開いている。
血がべったりと手を濡らした。
「アッハハハハッハハハッハッハ!!」
五つの口が、ぴたりと揃って笑い出す。
「お腹に穴が空いてますよ〜。穢者には相応しい姿ですね〜」
冷めた目だけは、まるでゴミでも見るようにアデルを見下ろしていた。
闇人は、ゆっくりとアデルたちの方へ歩き出す。
一歩、踏み出すたびに、周囲の空気が軋む。
五つの口はニヤニヤと緩みきっているのに、その眼差しには一片の熱もない。
「とりあえず、皆さんまとまってますので〜」
黒い指先が、ゼーラ、リノア、ルインを纏めて指し示す。
「禍女共々、消えてください〜」
軽く、愉快そうに言う。
「あ、さっきワタシが吹っ飛ばした穢者は生かしておきます〜」
アデルの方を、ちらりと見る。
「アナタは特別扱いですよ〜」
闇人の手がルインへと伸びかけた、その瞬間。
ヒュン、と風を裂く音が走る。
「っ!」
黒い頬を、細い線がかすめた。
肌が一枚、紙のように切れた。
「お、俺……の」
地面に倒れていたグリムが、ふらふらと上半身を起こしていた。
「家族に……手を出すな……って……はあ、はあ……言ったろ……」
片腕しかない体で、なおもシックルを構えようとしている。
闇人は、頬を指でなぞり、その血を見て、少しだけ目を丸くした。
「オヤ? まだ元気なんですね〜。片腕なのに〜」
グリムの全身から、マナが吹き上がるように溢れ出す。
周囲の空気がざわめき、足元の砂が浮き上がる。
「グリ兄……逃げ……て……」
リノアが、震える喉から絞り出すように言う。
「グ、グリム……さん……」
ゼーラの目にはもう涙が滲んでいる。
「グリムゥ……」
ルインの声も震えていた。
グリムは、みんなの方を見回して、口元だけをぐいと吊り上げた。
「おまえら……心配すんな……」
片腕しかない身体で、それでも堂々と立つ。
「俺が命……かけてでも、おまえらを守るからよ……」
「アナタ?」
闇人が、興味深そうに首を傾げる。
「今から、何するんですかね〜?」
「テメェを……」
グリムの声が、低く、重くなる。
「確実に殺す為の……準備だ……」
「穢者が、この人間であるワタシを殺す?」
五つの口が、一斉に大きく開いた。
「アッハハハハッハハハッハッハ!! オモシロイ! オモシロイ!」
笑い声が亀裂の谷に反響する。
「では、その準備の前に殺しますね〜」
闇人は、ゆっくりとグリムの方へ歩き始めた。
その動きに、アデルが反応する。
腹の穴からまだ血が溢れているのに、歯を食いしばり、地面を掴んで無理やり立ち上がる。
「アニキを……殺させて……たまるかぁああ!!」
全身の力を振り絞り、闇人に向かって走り出す。
「穢者はテメェだろうがぁああ!!」
右腕に、さらにマナを凝縮させる。
筋肉が悲鳴を上げ、皮膚が裂けそうになる感覚。
「ウルト・ペガルァアアアアアアア!!(超殴)!!」
喉が裂けるほどの叫びと共に、拳を叩き込んだ。
闇人の顔面に、拳がめり込む。
骨が砕けるような手応えが、アデルの腕を通じて伝わった。
「アッハハハハッハハハッハッハ!!」
だが、闇人は笑っていた。
一歩も退かず、五つの口をすべて歪めて。
「ハハハハッッハハッハッッハッ!! それが、穢者の“全力”ですか??」
アデルの拳を受けた箇所には、傷一つない。
「アッハハハハッハハハッハッハ!!」
楽しそうに嗤う。
「アナタは殺しません〜。ワタシと一緒に来てもらいたいので〜」
闇人の腕が、軽く振られた。
それだけで、アデルの体は横薙ぎに十数メートル吹き飛ぶ。
「ぐっは……!」
勢いそのままに地面を転がり、亀裂の縁ギリギリまで滑る。
砂利が崩れ落ち、その下は真っ暗な谷底だ。
「ア、アニキ……」
指を伸ばそうとしても、力が入らない。
闇人はもうアデルを見ていなかった。
黒い目が、再びグリムへと向けられる。
「さて〜」
五つの口がゆっくりと歪む。
「片腕を失った穢者から――」
その瞬間、闇人の表情が一瞬だけ固まった。
「……オヤオヤ」
グリムの周りに渦巻いているマナは、もはや常識外れだった。
風の線が幾重にも重なり、砂を巻き上げ、亀裂の壁を削る。
「凄いマナですね〜」
五つの口が、面白そうに釣り上がる。
「アデル……」
グリムは、視線を谷の縁の少年に向ける。
「時間稼ぎ、ありがとうな……」
血まみれの顔で、それでも笑ってみせる。
「おかげで、コイツを殺す準備が整った……」
渦巻く風が、さらに勢いを増す。
「穢者の分際で、よくもまあ……ここまでのマナ量を……」
闇人はくつくつと笑いながら、右手を握りしめる。
「アッハハハハッハハハッハッハ!! いいでしょう!!」
五つの口が、一斉に開く。
「せっかくなので、ワタシも技を使うとします〜」
闇のマナが右手に集中していく。
「ワタシの体も、これ以上こっちの世界にいると崩壊しちゃいますので〜」
グリムは、静かに目を閉じた。
心の中で、いくつもの顔が浮かぶ。
ジート。
ドラン。
スーニャ。
タタン。
サミン。
マルタ。
カミル。
みんなの笑顔。
叫び声。
泣き顔。
共に戦った日々。
(……なあ、みんな)
心の中で、静かに呼びかける。
(俺に――アデル達を守れる力を、貸してくれ)
「グリム……ダメだ……」
ルインが、唇を噛みしめながら呟く。
あのマナの集まり方を見て、何をしようとしているか悟っていた。
「グリ兄!! お願い!! やめてぇ!!」
リノアの涙が頬を伝って落ちる。
「グリ兄のマナが、もう……!」
グリムの体から流れ出るマナは、普通の人間が扱える量を遥かに超えていた。
「グリムさん……お願いです……」
ゼーラも必死に声を振り絞る。
「死んじゃ……ダメです……」
アデルは、血だまりの中で、なおも立ち上がろうとする。
足が震え、何度も崩れ、それでも――
「アニキィイイ!!」
喉が潰れそうなほどの声で叫ぶ。
「ふざけんじゃねえよぉおお!!」
地面を引きずりながら、一歩、また一歩、闇人の方へとにじり寄る。
「絶対死なせねえ!!」
痛みで視界が白く霞んでいても、拳だけは握ったまま。
「オレが……コイツをぶっ飛ばし――」
その言葉は、最後まで続かなかった。
アデルの身体は、限界をとうに超えていた。
意識がそこでプツンと切れ、その場に崩れ落ちる。
「アッハハハハッハハハッハッハ!!」
闇人は、楽しげに笑った。
「穢者共、ダイジョウブです〜」
五つの口が、ぞっとするほど優しい声音で言う。
「すぐに、同じ場所に連れて行きますから〜」
グリムは、闇人を睨みつける。
「“あの世”に行くのは……てめぇだよ……」
片腕でシックルを握りしめ――ゆっくりと、それを地面へ突き立てた。
「――カエスラ・ウィタイ(生命断絶)」
低く、魂を削るような声で。
その瞬間、グリムの体が、風そのものに変わった。
輪郭がほどけ、筋肉や骨の形を失い、純粋な“風の塊”となる。
風が、咆哮する。
地面を抉り、砂と岩を巻き込みながら、一直線に闇人へ突っ込んでいく。
「うせろやぁあああああ!!」
風の塊の中心で、グリムの叫びが響いた。
「アッハハハハッハハハッハッハ!!」
闇人は、右手に集めた闇のマナをさらに濃くし、掌を開く。
「はあ〜……やはり、その程度の魔法なんですね〜」
黒いマナが、刃のような線を形作る。
「――黒影断」
世界が、一瞬、無音になった。
風が、ぴたりと止まる。
渦を巻いていた空気が、そこで断ち切られたように消えた。
「……グ、リにい……?」
リノアが、小さく呟く。
風が消えた場所に――
そこには、二つの“塊”があった。
上半身と、下半身。
まだ、血が噴き出していた。
「ア、アニキ……」
アデルの声が、震えながら漏れる。
「あ、ああ……」
理解した瞬間、喉から声にならない叫びが迸った。
「ぁあああああああああああああああああああ!!」
「グリ……兄……」
リノアの膝が崩れ、その場に座り込む。
視界が滲んで、うまく焦点が合わない。
「うそ……です……」
ゼーラの唇が震える。
「そんな……」
「グリム……」
ルインの拳が、震えたまま固まる。
噛み締めた歯の隙間から、血の味がした。
闇人は、二つに分かれたグリムの体を、冷えた目で見下ろす。
「全く……少し遊びすぎました〜」
右手を軽く振り、付着した風の残滓を振り払うような仕草をする。
「ワタシの体が、もう限界みたいです」
指先や腕の輪郭が、少しずつノイズのように揺れ始めていた。
「はぁ〜……皆さんを殺してから帰りたかったんですが〜」
五つの口が、同時にため息をつく。
「まあ、いいです〜。一人だけ、殺せたので〜」
闇人は、最後にもう一度だけ、禍女たちを見た。
「それでは皆さん――近々、お会いしましょう〜」
何もない空間に、黒い指先が触れる。
そこに、ひび割れのような線が走り――黒い裂け目が開いた。
闇人は、その裂け目の中へ、するりと消えていく。
境界が閉じた瞬間。
――圧が、消えた。
さっきまで肺を押し潰していた重圧が、一気に消え去る。
空気が軽くなる。
呼吸が戻る。
ルインたちは、崩れた体を無理矢理起こし、ふらつきながらも駆け出した。
向かう先は、ただひとつ。
「グリム!!」
ルインが叫びながら、グリムの上半身の方へすがりつく。
「おい!! グリム!!」
「グリ兄!! 起きてぇよ!!」
リノアは涙だらけの顔で、震える手を伸ばす。
「今、回復してあげるからね……!」
「グリムさん!! 私も……回復魔法を……!」
ゼーラも必死に杖を握りしめる。
グリムの唇が、かすかに動いた。
「おまえら……全員……無事か……?」
か細い声だった。
それでも、いつもの、仲間を気遣う声だった。
「うん!!」
リノアは何度も頷く。
「わ、わたし達……無事だから……グリ兄も……もうすぐ治すからね!!」
必死に笑おうとするが、うまくいかない。
「ヒール!!」
リノアの手から、緑色の光が溢れ出す。
ゼーラの手からも、同じ色の光が生まれ、グリムの体を包む。
だが――
離れた上半身と下半身は、くっつかない。
切断面は血を流し続け、マナの光をただむなしく浴びているだけだった。
「な、なんで……」
リノアの声が、震えた。
「なんでよぉお!!」
光の量を増やそうと、さらにマナを注ぎ込む。
頭がくらくらしても構わず、何度も何度も回復魔法を重ねる。
「お願いだから……お願いだからぁあ!!」
叫びに近い声で、リノアは泣きながら魔法を続けた。
グリムの視界が、少しずつ暗くなっていく。
亀裂の谷の荒涼とした風景が、ぼやけて遠ざかる。
「俺は……」
途切れ途切れに、グリムは呟く。
「全員……守れたんだな……」
「アニキィイイ!!」
アデルが腹の穴を押さえたまま、引きずるようにして近づく。
顔中が涙と血でぐちゃぐちゃだった。
「何してんだよ!!」
肩を掴もうとして、その肩が片方しかないことを再認識する。
「早く立てよ……」
声が震える。
「塔行くぞ! アニキ……」
掠れた笑い声が喉から漏れる。
「アニ……キ……」
最後はもう、声にもならない。
「アデル……」
グリムが、その名を呼ぶ。
「リノア……ルイン……ゼーラ……」
一人一人の名前を、噛み締めるように。
「楽しかっ……た……」
血の味が口の中に広がる。
「みんな……待たせた……な……」
視界の隅に、ずっと置いてきた顔が浮かぶ。
ジート。
ドラン。
スーニャ。
タタン。
サミン。
マルタ。
カミル。
――そして、今、横で泣いている四人の顔も、一緒に浮かぶ。
「俺も今から……そっちに……行くからな……」
最後の言葉を残し――
グリムは、静かに目を閉じた。
胸の上下が、止まる。
彼の体から、マナの気配が完全に消えた。
赤茶けた岩の谷に、いつもなら風の音しか響かない場所に。
今日は、風の音に混じって――
聖女と少年たちの、押し殺せない泣き声が、いつまでも、いつまでも鳴り響いていた。
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