第七十六話 闇人
アデルが瞬きをするたびに――それは、確実に近づいていた。
さっきまで、裂けた空間の向こう側に“いる”だけだった“それ”が、
一歩、また一歩と、距離を詰めてくる。
空気が、重い。
肺が縮み、喉が閉じる。
呼吸という行為そのものが、自分とは無関係なものになっていく感覚。
そのとき。
「クエッ!? クエエエエ!!」
「ク、クエェェェ!!」
鳥車の前で草をついばんでいたモリハクとモリクロが、突然、頭を激しく振り始めた。
黒い“何か”に気づいたのだろう。
全身の羽を逆立て、白目を剥くようにして絶叫する。
次の瞬間、二羽は完全にパニックに陥り――
繋いでいた綱を強引に引きちぎり、そのまま走り出した。
「お、おい……!」
アデルが手を伸ばすが、声にならない。
モリハクとモリクロは、狂ったように亀裂の方向へ一直線に駆けていき――
「やめ――!」
叫びも虚しく、二羽のドゥドゥはそのまま深い亀裂へと飛び込み、
悲鳴のような鳴き声を残して、暗闇の底へ消えた。
その場に、ただ一人。
アデルだけが残される。
「ハア〜……ニンゲンのいる場所まで行くのに、ワタシの体が引きちぎれるくらいの痛みがくるんですよね〜」
黒い“それ”が、肩をぐるぐると回しながら、ぼそりと呟く。
「まだまだ光のマナが濃いですね〜。ほんと、いやですね〜」
アデルは、うまく呼吸ができない。
酸素が存在していることはわかるのに、肺がそれを受け入れてくれない。
心臓だけが、やたらとうるさく鳴っている。
五つの口が、同時にニィと横に裂けた。
「アノ〜、喋ってくれませんかね〜?」
“それ”は、冷めた目でアデルを見下ろす。
「ワタシは体の痛みを我慢して、こうやってコッチに来たんですよ? ん〜、やっぱり改めて近くで顔見ると、気色悪い顔してますね〜」
淡々と告げる声に、嘲りが混ざる。
アデルは、震える唇から、無理やり言葉を絞り出した。
「ふ、ふふふ……ざけんな……。お、おまえの方が……気持ち悪い……か、顔してるだろ……」
歯がカチカチと鳴る。
それでも、アデルは視線だけは逸らさなかった。
「アッハハハハッハハハッハッハ!!」
五つの口が、ずれたタイミングで笑い声を上げる。
それは、耳だけでなく、頭蓋の中、骨の髄に響くような不快な笑いだった。
「アナタ〜、面白いこと言いますね〜。このワタシに、顔が気持ち悪いって〜。そんな顔で、よく言えますね〜」
黒い“それ”は、アデルの顔を覗き込む。
「なんで目がそんなに離れてるんですか? アナタから見える景色はどんな感じなんですか? アト!! その口!! なーんで一個しかないんですか?? 不便すぎでしょ!! アッハハハハッハハハッハッハ!!」
「な、何が……お、おかしい……。人間だから……だ。オレは……おまえと、違って……」
アデルの返しに、“それ”はふと首を傾げた。
「ニンゲン?」
少しだけ間を置いてから、黒い目が細められる。
「ワタシは確かにそう言いましたけど、以前アナタ方がそう呼んでいたので、真似してるだけですよ?」
右半分の目と、その下にあるもう一つの目が、同時に瞬きをする。
「人間は、ワタシ達のことを言うんですよ?」
「……は?」
「アナタ達は、光のマナに穢された者……穢者です」
五つの口が、今度は揃って、くつりと笑った。
「そんな醜姿が、ニンゲンなわけないじゃないですか。アッハハハハッハハハッハッハ!」
「お、おまえ……さっきから何言ってんだ……」
アデルの頭の中で、世界の輪郭がぐにゃりと歪む。
“人間”が自分たちじゃないと言われることが、こんなにも理解不能な不快感を伴うとは思わなかった。
「アト〜」
闇人は、左右に揺れるように歩きながら、続ける。
「同じ言語喋るのも気に食わないですね〜。穢者と一緒だなんて、とっても落ち込みます……」
五つの口が、一斉にへの字になる芝居がかった動き。
「……あああ!! そうでした!! 思い出しました!!」
突然、声のテンションが跳ね上がる。
「アナタ達穢者は確か――闇のマナに触れると、本来の姿に変わるんですよね!」
左顔面の五つの口が、一つずつずれるように動きながら、言葉を紡ぐ。
「屍鬼に!!」
ぞわり、と背骨を何かが撫でた。
「エルフ共は、闇のマナに適応して、ワタシ達の味方になりましたけど」
“それ”の視線が、どこか遠くを見た。
過去を思い出しているような、乾いた目。
「穢者は、本来の姿を見せる」
ゆっくりと、アデルの方へ戻ってくる。
「アナタも、本当の姿をワタシに見せていただけませんか?」
黒い指が伸びる。
「確か、ワタシ達が“触れただけ”でも、屍鬼に変わりますよね??」
アデルは、体を動かそうとする。
だが、筋肉が言うことを聞かない。
恐怖で固まった身体は、鎖で縛られているのと変わらない。
黒い手が、アデルの腕を掴んだ。
ぞりッ。
皮膚の下を、何かドス黒い液体が一気に流れ込んでくるような感覚。
掴まれた腕が、みるみるうちに黒ずんでいく。
焼かれている。
中から、骨ごと、炙られているような痛みが走る。
「ぁ、あ゛あああああああああああああああああ!!」
喉から勝手に悲鳴が飛び出した。
「アッハハハハッハハハッハッハ!!」
五つの口が、嬉々として歪む。
「穢者の泣き声は、五月蝿いですね〜」
黒い目が、わずらわしそうに細められる。
「さあ〜、本来の姿に戻りなさい」
指先に、さらに闇のマナが集中していくのがわかる。
「アッハハハハッハハハッハッハ!!」
腕の黒ずみは、肘から肩へと侵食していく――はずだった。
だが。
「……おや?」
黒い目が細くなった。
アデルの腕を侵していた闇色が、徐々に薄れていく。
黒く染まった皮膚が、今度は逆に、元の肌色へと戻り始めていた。
「おや? おや? 不思議ですね……」
闇人の声に、初めて“驚き”の色が混じる。
「穢者の分際で、闇のマナを“吸収”してるんですか?」
五つの口が、同時にぴたりと閉じた。
「アナタ、ナニモノなんですか?」
その問いが空気に溶け込んだ、その時――
「アデルゥウウウ!!」
地面を蹴る音と共に、裂けるような声が響いた。
「ラーミナ・ファルキス!!(風刃斬)」
風が、唸る。
鋭く圧縮された風の刃が、一直線に闇人へと飛ぶ。
「おや?」
闇人が、ゆっくりと顔を上げた。
「何か飛んで来ますね??」
五つの口が、少しだけ退屈そうに動く。
掴んでいたアデルの腕はそのままに、片方の腕を軽く上げ――
風の刃を、まるで紙切れでも払うように、ひょいと弾き飛ばした。
「アデルを、離せやぁあああ!!」
今度は、怒号と共に、さらに強い風が渦巻く。
「コロナ・ファルキス!!(風輪鎌)!!」
円形の風刃が、真横から闇人の首を薙ぐように飛ぶ。
しかし――その攻撃も、同じように片手で弾かれた。
次の瞬間には、もうグリムが、その懐に入り込んでいた。
二本のシックルが、稲妻じみた速さで斬りかかる。
「ラ――」
「遅すぎなんですよ〜」
カキィン、カキン、キンッ!
金属同士がぶつかり合う音――ではない。
グリムのシックルの刃は、闇人の“手”や“腕”、あるいは空間そのものに触れた瞬間、何か硬いものに阻まれるように軌道を弾かれていた。
右からの斬撃。
左からの切り上げ。
連続の突き。
斜めに切り払う一撃。
そのすべてを、闇人は片手だけでいなしてしまう。
「俺の攻撃を、全部……片手で……?」
グリムの額に、汗が滲む。
距離を取ろうと、一歩退いた、その瞬間。
「じゃ、次、こっちの番ですね〜」
闇人が、楽しそうに言った。
伸ばした指先が、グリムの額の手前――ほんの数センチで止まる。
「“デコピン”って、言いましたっけ?」
「――っ」
拒否する暇はなかった。
軽く、指が弾かれた。
それは、ただのデコピンのはずだった。
だが――
ドゴッ!!
グリムの体が、爆風に殴られたように吹っ飛ぶ。
背中から地面に叩きつけられ、転がった先でようやく止まった。
右肩に、妙な“熱さ”がある。
視線を落とす。
服ごと、肩に小さな穴が空いていた。
そこから、じわじわと血が滲み出している。
遅れて、焼けるような痛みが襲う。
「おまえ……なんなんだ……!!」
歯を食いしばりながら、グリムが問う。
闇人は、その問いをどこか嬉しそうに受けとめた。
「“ナンナンダ、お前”ですか?」
五つの口が、ゆっくりと笑む。
「そうですね〜。確かアナタ達穢者は、ワタシ達のことを――」
一拍、間を置いて。
「“闇人”と言ってましたね!」
「やみ……びと……」
グリムの脳裏で、聞き覚えのない言葉が鈍く響く。
「なので、ワタシのことは闇人と呼んでください」
黒い目が、細められる。
グリムの穴の開いた肩から、黒ずみが広がっていくのが見えた。
「くっそ……なんだこれ……。焼けるような……」
右肩から腕にかけて、肌がじわじわと黒く変色し始める。
触れたところから、闇のマナが侵食している。
「穢者」
闇人が、軽い調子で言う。
「早くワタシに攻撃してくれませんか? ワタシは動きたくないのでっ」
「……」
歯を噛み締めながら、グリムは立ち上がる。
右肩の痛みを無視して、両手でシックルの柄を握り直した。
――その時だった。
「アデルゥウウウ!! グリ兄!!!」
リノアの声が、谷に響く。
ゼーラとルインの足音も一緒に近づいてくる。
グリムは、血の気が引くのを感じた。
「お前らぁああ!! 来るなぁあああ!!!」
叫ぶ。
だが、もう遅い。
リノア、ゼーラ、ルイン。
三人が同時に駆け込んできて――そして、見てしまった。
闇人の姿を。
「あ……え……。なんですか……あの黒い人……」
ゼーラの顔から血の気が引く。
「なんだよ……こいつの顔……」
ルインの声が掠れる。
「ひッ――――!!」
リノアの膝が、その場で崩れ落ちた。
全身を包む“オーラ”が違った。
恐怖という言葉では足りない。
存在そのものが、拒絶反応を引き起こす。
三人はアデルと同じように、その場に尻もちをつき、体の震えが止まらなくなる。
闇人はふと、リノアとゼーラへと視線を移す。
その目が、わずかに見開かれた。
「……なぜ、まだいるんですか……?」
五つの口が、ぴたりと閉じる。
「……あの時、皆殺しにしたはずですよ……」
闇人の声から、先ほどまでの軽さが完全に消えていた。
目の奥から、どす黒い感情がこみ上げてくる。
「禍いをもたらす女――」
五つの口が、ゆっくりと笑みを作る。
「禍女が……!!」
ボォッ。
目には見えない“何か”が、一気に周囲へ放出された。
空気が、重力を増したように沈み込む。
グリムでさえ、肺が押し潰されるような圧を感じるほどの、途方もないマナの奔流。
それが、まっすぐにリノアとゼーラへと向けられていた。
「ワタシ」
闇人が、ゆっくりと手を伸ばす。
「アまり動きたくないんですよね」
ひび割れた空間の向こうを、ちらりと見る。
「体、動かすタビニ引き裂かれるような痛みが出ますので……」
その声音には、苛立ちが混ざっていた。
「ですけド――」
五つの口が、歪んだ笑みを浮かべる。
「コロシマスね」
その言葉に、絶対の決定が込められていた。
「禍女は、皆殺しト決まってますので」
「リノアァアア!! ゼーラァアア!! 逃げろぉおお!!」
アデルが喉を裂くような声で叫ぶ。
だが。
「足が……動かない……」
リノアの足は、地面に根を張ったように動かなかった。
「震えが……止まりません……」
ゼーラの手は、魔法を構えるどころか、自分の体を支えることもできないでいた。
ルインもまた、同じだった。
武器を生成しようとしても――その手が、震えたまま空中で止まる。
全身が、凍りついたように重い。
頭では「動け」と命じているのに、体のどこも応えてくれない。
闇人は、アデルの腕を無造作に放し――
禍女と呼んだ二人へ向けて、ゆっくりと歩き出した。
「アッハハハハッハハハッハッハ!!」
五つの口が、同時に笑う。
「なんとも醜い顔なんですか! まさに“禍女”ですねぇ〜。アッハハハハッハハハッハッハ!!」
リノアとゼーラの顔を、順に覗き込む。
「さあ〜」
細長い指が、リノアの顔へ伸びる。
「その醜い顔を、ワタシの手で、潰しますね」
「こ……こないで……」
リノアの声が震える。
「こ、こないで……ください……」
ゼーラの懇願も、かすれて消える。
「アッハハハハッハハハッハッハ!!」
闇人は楽しげに笑った、その時――
「俺の家族に、手を出してんじゃねぇえええ!!!」
獣の咆哮のような叫びが谷に響き渡る。
「ヴォクス・ファルキス!!(鎌鳴り)!!」
グリムの足元から、爆発的な風が巻き上がった。
風の振動が圧縮され、衝撃波となって一直線に闇人へと叩きつけられる。
ドゴォオン!!
衝撃が闇人を直撃し、その黒い体が一瞬、空気に滲んで揺らいだ。
動きが、止まる。
「アナタ……穢者の癖に、まだ動けるんですね〜」
闇人が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その目は、さっきよりもわずかに楽しそうだ。
「ですが、右肩……大丈夫ですか?」
視線が、グリムの肩へと下りる。
「徐々に爛れてますけど……?」
グリムの右肩から腕にかけて、黒い痕がさらに広がっていた。
焼ける痛みは、先ほどとは比較にならない。
神経一本一本が、炙られているようだった。
「……うるせぇよ」
グリムは、歯を食いしばった。
「喋んな……気持ち悪い……」
「それは、こっちのセリフです……」
闇人の声色が、わずかに低くなる。
「それと、その腕」
黒い指が、グリムの右腕を指し示す。
「“ジンジン”して痛いと思いますので――」
ふっと、口角を上げる。
「今、痛みを消しますね」
グリムが瞬きをした、その一瞬。
視界から、闇人の姿が消えた。
――そして、次の瞬間には、目の前にいた。
冷たい感触。
何かが、肩に触れる。
「――ッ!?」
衝撃そのものは、ほとんどなかった。
だが、視界の端で何かがくるくると飛んでいるのが見えた
それが、自分の右腕だと気づくのに、数拍かかった。
「――――ッ!! あああああああああああああああああああああ!!」
遅れて、遅すぎるほどの激痛が、全身を焼き尽くす。
噴き出した血が、地面を赤く染める。
右肩から先が、きれいさっぱり消えていた。
断面からはまだ黒い煙のようなものが立ち上っている。
「いい音色ですね〜」
闇人が、うっとりとしたような声で言う。
「これだけは、穢者でも褒めるに値します」
「アニキィイイ!!!」
アデルが、喉を裂くような声で叫ぶ。
「テメェええええ!! 殺すぞぉおおおお!!!」
心の中に、何かがぶちっと切れた。
「ルーナ・カルキブス!!(三日月蹴り)!!」
アデルの体が、地面を蹴って跳ぶ。
半月を描くような軌道で、渾身の蹴りが闇人の側頭部を捉えた。
スネと足の甲に、確かな手応えが走る。
だが――
「……」
闇人は、まるで虫でも払われたかのように、ゆっくりと顔を戻す。
五つの口が、ニィ、と歪んだ。
くっきりと蹴りの入った場所に、傷一つついていない。
「なかなか、元気ですね〜」
闇人は、心底楽しそうにアデルを見つめた。
その目は――ようやく“遊び相手”を見つけた子供のように、暗い喜びで満ちていた。
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