第五十八話 追えない勝利
「アデル!! 準備はいいか?」
「アニキ、任せろ!! オレはいつでも行けるぜぇ!!」
ドンテンの黒い三つ目がぎょろりと動いた。
次の瞬間、左右の触手が一斉にしなり、地をえぐる勢いでアデルたちへと伸びてくる。
二人は同時に、前へ踏み出した。
アデルへ向かう触手——しかし、アデルは一切避けない。
視線の先には、ドンテンの“顔”しかない。躊躇も、迷いもない。
「アデル!!思う存分突っ込め!!」
アデルの目前へたどり着く前に、触手の列へ横合いから風の刃が差し込んだ。
グリムの両手のシックルが閃き、迫る触手を一本、また一本と根本から叩き斬っていく。
黒い肉片が飛び散り、地面に雨のように落ちる。
それでもアデルは減速しない。斬撃を信じ、ただ前だけを見て走り続ける。
全ての触手を捌き切ったグリムは、その勢いのままアデルを追い越し、先にドンテンの懐へ滑り込んだ。
「さあ——喰ってみろよ……!」
鎌を構え、魔法の詠唱に入る。
ドンテンは、これまでと同じように腹の口をぐわっと開いた。
魔法を“餌”だと理解しているのだろう。
喰らってやろうと、三つ目を爛々と輝かせる——そのとき。
「汚ねえ口閉じろぉ!! クソキノコ!!」
地面を蹴った重い足音。
次の瞬間、アデルの足がドンテンの下顎を下から強烈に蹴り上げた。
ガキィンッ!!
骨と骨とがぶつかるような音を立て、無理やり閉じられた口から、苦鳴とも笑いともつかない声が漏れる。
「いけえ!! グリム!!」
アデルの強引な一撃に、グリムは一瞬だけ吹き出しそうになる。
「よくやった!! アデル!!
——コロナ・ファルキス(風輪鎌)!!」
振り抜かれた鎌の軌道に沿って、円状の風刃が生まれる。
それはまるで刃を持つ輪のように回転しながら、ドンテンの胴体へ食い込んだ。
ズバァァァッ!!
分厚い菌糸の肉が裂け、黒い体液が飛び散る。
ドンテンはたまらず口を再びこじ開け、今度はグリムごと丸呑みにしようと巨口を突き出した——
「させるかよぉお!!」
アデルの影が、再び目の前を駆け抜ける。
もう一度、下顎を蹴り上げる。二度目の強制クローズ。
だが、ドンテンも黙ってやられっぱなしではない。
傘をぐわりと持ち上げ、今度はハンマーのようにアデルへ振り下ろしてきた。
「コイツ、マジかよ!!!」
逃げる暇はない。アデルは咄嗟に両腕をクロスさせ、頭部を庇った。
ドゴォォン!!
巨大な傘が直撃し、アデルの身体が地面ごと押しつぶされる。
足元の土が陥没し、衝撃が骨まで響く。
「ドンテン!! 相手は俺だろぉ!!
コロナ・ファルキス!!」
追撃を許さぬよう、グリムが連続で風輪鎌を叩き込む。
円状の刃が怒涛のようにドンテンの体表を削り、闇獣の体をさらにズタズタへと切り刻む。
「キャララララララ!!」
ドンテンは耳障りな奇声を上げた。
怒りに任せて暴れ出し、無数の触手を伸ばして四方八方を無差別に薙ぎ払う。
「アデルゥウウ!! 今、アイツは怒りで暴れてる!!
残り二つの目玉を潰すぞ!!!」
「ふん!! 余裕だぜぇ!! あの触手の処理、任せるぞ! アニキ!!」
「安心しろ!! アデル、気にせず突っ込めぇ!!」
アデルの体は、すでにとっくに限界を超えていた。
〈ヴォイドセンス〉が解除された瞬間から、全身の神経が一斉に悲鳴を上げている。
ポーションで無理やり動けるようにはなったが、腕も脚も、鈍く痺れて自分のものではないようだ。
(クッソ……オレは、まだ行ける……まだ終われねえ……)
アデルは奥歯を噛み締め、雑音を無理やり遮断した。
意識を、自分の内側へと沈める。
——そのとき。
体内を巡る“何か”の流れを感じた。
熱く、重く、どろりとした力。
久しく忘れていた、あの感覚——
「……久しぶりの、感覚だ……」
それがマナだと、今ならはっきりわかる。
アデルは最後の力を振り絞り、地面を蹴った。
右手へ、マナを全てかき集めるように意識を集中させる。
ドンテンの触手が迫る。
一本、二本、十本、二十本——
だが、そのすべてがアデルに届く前に、グリムの鎌に切り落とされていく。
黒い腕が、まるで刈り取られる草のように次々と地へ落ちる。
(アニキは絶対に斬ってくれる。ならオレは——前だけ見てりゃいい)
アデルはグリムを信じ、顔を上げたまま速度を上げる。
「おいクソキノコぉお!! くたばれやぁああ!!
——ウルト・ペガル(超殴)!!」
右拳に集めたマナが、轟くような圧力となって溢れ出す。
拳が空気を裂き、ドンテンの潰れていない目の一つへと一直線に飛んでいく——
その瞬間、ドンテンが咄嗟に頭部の傘を振り上げ、アデルを叩き潰そうとする動きに入った。
(マジかよ……! このままだと、オレの拳が届か——)
「届かせろぉおお!! アデルゥウウウ!!!」
グリムが一歩、いや半歩だけ前へ出る。
ドンテンの傘とアデルの拳の間——その、ごく狭い位置に身体をねじ込むと、両手のシックルで傘の縁を下からすくい上げた。
ガギンッ!!
重量の塊のような傘が、ほんのわずか、しかし致命的なほどに浮き上がる。
「つぶれろやぁあああああ!!!」
グリムがこじ開けたその隙間へ、アデルの拳がねじ込まれた。
マナを纏った拳が、ドンテンの目へ深々とめり込む。
ドゴォォォォォンッ!!
目玉が破裂し、濁った液体が飛び散る。
ドンテンは天を仰ぎ、三つ目のうち二つめを潰された痛みに、凄まじい絶叫を上げた。
「キィイラララララァアアアア!!」
巨大な体をのたうたせ、残った触手を振り回す。
木々が薙ぎ倒され、地面が抉れ、周囲はまるで暴風の中心のようになる。
アデルは渾身の一撃の反動で、膝から崩れ落ちかけた。
倒れ込む寸前、グリムが肩を抱き止める。
「……っはぁ……はぁ……」
アデルの視界が、ゆらゆらと揺れた。
ただ——ドンテンの顔を見上げると、三つの目のうち、まだ一つが残っているのがわかる。
「わりぃ……グリム……オレの力が……足りん……かった……
クソが……体に、力が入らねぇ……」
悔しさに歯を食いしばるアデルの隣で、グリムが短く息を吐いた。
「気にすんな……アデル……俺は、まだいける……」
そう言いながらも、アデルの目にはグリムの状態がはっきり映っていた。
全身に走る無数の刺し傷。
破れた服から覗く皮膚には、黒く焼けたような痕と紫色の斑点——胞子の毒の影響だろう。
右手に握られたシックルは、震えている。
ドンテンは相変わらず暴れ続けていた。
その周囲には、新たに生えた触手がうねうねと蠢いており、まるで近づく者を拒む檻のように揺れている。
「……近づけねえ……」
グリムも、限界が近いのは明らかだった。
未だに体内を走る胞子の痛みが、筋肉を焼くように蝕んでいる。
「ケララララァアアアアア!!!」
ドンテンが、ひときわ大きな雄叫びを上げた。
そして——くるりと背を向けると、森の奥へと走り出した。
「……急に、アイツどうした……」
逃げた、のか。
それとも、どこかへ向かっているのか——判断する余裕はない。
「グリム……オレを置いて、アイツを追え……」
アデルは自分の足がもうまともに動かないことを理解していた。
だからこそ、少しでも動けるグリムに託そうとする。
グリムはアデルをそっと地面に座らせると、一歩踏み出そうとした——が。
「……っ——」
ずしり、と全身に鉛を流し込まれたように、重さがのしかかった。
足が、前へ出ない。
「……わるい……アイツを、追いかけれねえ……」
悔しさを噛みしめながら、グリムはかすれた声でそれだけ言うと、その場に崩れ落ちた。
地面に倒れ込む直前まで、鎌だけは離さなかった。
「グリ……ム……? おい……グリム……起きろよぉ……!!
グリ……ム……お……い……っ……」
アデルは必死に腕を伸ばし、倒れたグリムに手を伸ばす。
しかし、視界はどんどん暗くなっていく。
指先から、体から、力が抜けていく。
そのまま——アデルの意識も闇に呑まれた。
二人の体は、静まり返った境風の森の中に並んで倒れたまま。
朽ちかけた木々がざわりと揺れ、遠くで、まだドンテンの笑うような声が微かに響いていた。
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