第五十七話 三つ目闇獣ドンテン
〜数分前〜
「おじいちゃん!! だいじょぶ?」
「ワシは大丈夫じゃ……コルク、早く遠くへ行くぞ……」
ルーズは荒い息を吐きながら、引きずる足に力を込めた。
闇獣に弾き飛ばされた脚は、とっくに限界を迎えている。それでも——この腕にしがみついている小さな命だけは、何としても守らなければならない。
森の中を、ただひたすら前へ。
背後から、ときおり木々がへし折れる鈍い音や、大地を殴りつけるような衝撃音が届くたびに、ルーズの胸の奥で恐怖が膨らむ。
——追ってきておる……。
「うう……足が……もう……」
とうとう、引きずっていた片足がもつれ、ルーズは膝をついた。
「おじいちゃん!! おじいちゃん!!」
コルクが必死に肩を揺さぶる。
「すまぬの……コルク……先に行っててもらえんかの……」
「いやだよぉ!! いやだよぉ!!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、コルクは首をぶんぶん横に振る。
ルーズはその頭に、震える手をそっと置いた。
「ワシも……後で追いつく。だから、先へ行くのじゃ……」
「いやだぁあ!! ぼく、おじいちゃんといる!!」
コルクはその場から動こうとしない。
そのとき——前方の茂みがガサリと揺れた。
「ん……なんじゃ……?」
一羽のドゥドゥが、森の影から飛び出してくる。
長い首を揺らしながら、まっすぐルーズたちのほうへ走ってきた。
それだけではない。その背に——人影。
ドゥドゥはルーズの目の前でキュッと急停止し、土煙を上げる。
背に跨る青年が、ゆっくりと顔を上げた。
「爺さん、ここらで“闇獣”を見なかったか?」
低く、よく通る声。
頬には大きな爪傷。首から下がる四つ星のギルドプレートが、カラン、と小さく鳴った。
「よ、四つ星プレート!! ワシらは、その闇獣から逃げて来たんじゃ!!」
ルーズが叫ぶよりも早く、コルクが青年の前へ飛び出す。
「おにいちゃん!! お願いします!!
アデルにいちゃんが“三つ目のある魔物”とたたかってるんだ!!
アデルにいちゃんを助けてほしいんだぁ!!」
泣きながら懇願するコルクの言葉に、青年の眉がぴくりと動く。
「アデル……っ!!」
グリムは瞬時に、カヒラパの光景を思い出した。
必死に仲間を守ろうと叫んでいた少年の姿。
青年——グリムは、そっとコルクの頭に手を添えた。
「ああ、任せろ」
短く。だが、揺るがない声で。
そのとき、少し離れた森の上空に、砂煙の柱が立ち上るのが見えた。
「……そこか」
グリムは目を細め、ドゥドゥの首を軽く叩く。
「爺さん、俺が乗ってきたドゥドゥ、使っていいぞ。足ぐらいにはなる」
それだけ言い残し、グリムはドゥドゥから軽やかに飛び降りた。
「お、おぉ……?」
ルーズが戸惑う間もなく、グリムは砂煙の方向へ駆け出す。
次の瞬間、その姿は音もなく、森の奥へと消えた。
「おじいちゃん……あのおにいちゃん、アデルにいちゃんを助けられるかな……?」
「大丈夫じゃ、コルク。あのおにいちゃんは、とても強いぞ……!」
ルーズは、自分に言い聞かせるように笑うと、ドゥドゥのたてがみを掴んだ。
ーーーーーー
三つ目闇獣の無数の触手が、槍の雨となってアデルを貫かんとした、その瞬間——
触手は、アデルの身体をかすめる寸前で、一斉に消し飛んだ。
「……ッ!?」
アデルが瞬きを一度したとき、すでに彼の目の前には、一人の青年が立っていた。
「あの時以来だな……アデル、だったよな」
「おまえ……グリム……!!」
振り向いた先にいるのは、紛れもなく“ジートのアニキ”だった。
グリムは軽く片手を上げると、アデルに小さなガラス瓶を放る。
「手ぐらいは動かせるだろ。これを飲んどけ」
アデルは反射的にポーションをキャッチし、歯で栓を引き抜くと、一気に飲み干す。
焼けるような液体が喉を通り、傷口からじんわりと熱が広がっていく。
「とりあえず休んどけ。俺はその間に——“闇獣ドンテン”を狩る」
そう言い終える前に、グリムの姿がふっと掻き消えた。
「——ッ!! どこへ!?」
次に見えたときには、グリムはすでにドンテンの真上にいた。
闇獣は尋常ならざる本能で危険を察知し、頭上へ触手を伸ばす。
先端が槍のように尖り、無数の黒い穂先が、空中のグリムへと殺到する。
「それしか……脳がねえのかよ」
グリムの手には、いつの間にか二本のシックルが握られていた。
「フラトゥス・ファルキス(風鎌の息吹)」
左右の鎌が一閃するたび、目に見えるほど鋭い風圧が生まれ、迫り来る触手を次々と叩き斬る。
黒い先端が宙に舞い、ズタズタに裂けた触手が地面へと降り注ぐ。
「ラーミナ・ファルキス(風刃斬)!!」
切り払いながら、グリムは続けざまに技を放った。
鎌から飛び出した風の刃が、残った二つの目めがけて弧を描く。
だが、ドンテンは咄嗟に傘を深く傾け、その厚い頭で風刃を受け止める。
「……硬い!!」
風刃は確かに表面をえぐったが、その奥にはまだ分厚い層が残っている。
グリムが舌打ちをした瞬間、反撃の衝撃が上から振り下ろされた。
ドンテンは巨大なキノコ傘を、まるで槌のように振り下ろし、空中のグリムを叩きつけようとする。
「アウラ・ファルキス(風気)」
グリムの周囲を、薄い風の膜が包み込んだ。
空気の流れの変化を、肌で感じ取る。
次の瞬間、グリムはわずかに体を捻り、傘の直撃を紙一重で躱した。
すぐそばで地面が陥没し、土煙が爆ぜる。
「……くそ。こいつ、笑ってるのか?」
見上げた先で、ドンテンの腹部にある大きな口が、だらしなく口角を上げていた。
ケラララ……ケラララ……と、三つの目を細めて嗤う様は、露骨な愉悦そのものだ。
グリムは、そのうちの一つ——潰れた目へ目線をやった。
「アデル……やるな。闇獣の目を潰すのは、そう簡単じゃねえのに」
残る二つの目へと照準を定め、グリムは鎌を構える。
「——行くぞ」
低く呟くと同時に、グリムの姿がかき消えた。
ドンテンへ向け、一直線に突っ込む。
闇獣は触手を蠢かせ、グリムの進行方向を読み、先回りするように攻撃を繰り出す。
だが、伸びてきた触手は、全てグリムの鎌の餌食となり、次々と根本から斬り落とされていく。
再び、懐まで潜り込んだその瞬間——
ドンテンが、腹の口を大きく歪ませて笑った。
直後——背後からアデルの叫びが飛ぶ。
「グリムぅうう!! さがれぇええ!!!」
「!?」
グリムが視線を落とすと、ドンテンの黒い表面から、無数の小さな胞子体が盛り上がり始めていた。
ブツブツ、ブツブツ——
それらがいっせいに開き、次の瞬間、黒紫色の胞子が轟音とともに噴射される。
「っ……!」
グリムは咄嗟に息を止めたが、それでも数粒の胞子を吸ってしまった。
同時に、凄まじい風圧が爆ぜ、グリムの体を空中で弾き飛ばす。
ドンテンを中心に、広い範囲に黒い胞子が散布される。
残っていた木々の幹や葉に胞子が付着するたび、そこがじわじわと黒く染まっていく。
「なんだ……これ……」
グリムは地面に着地しながら、その光景に息を呑む。
胞子はまるで腐食の毒のように、森そのものを侵していく。
「——ッ!! ああああああ!!」
次の瞬間、頭から爪先まで、全身に鋭い痛みが走った。
「グリム!! 大丈夫か!!」
少し離れた場所から、アデルの声が飛ぶ。
「この胞子を……吸ったからだ……くそ……このままだと、ろくに息もできねぇ……」
歯の隙間から漏れる声は苦しげだったが、それでもグリムは鎌を握る手を緩めない。
「ヴォクス・ファルキス(鎌鳴り)……!」
鎌同士を打ち鳴らすように、空を薙ぐ。
周囲の風が震え、衝撃波となって四方へ拡散した。
轟く風の唸りとともに、周囲に漂っていた胞子はまとめて吹き飛ばされる。
視界が、一気に開けた。
「……はあ……はあ……」
グリムは大きく息を吐き出し、肺の中の空気を入れ替える。
「すぅーーー……」
新鮮な空気を吸い込んだ、その瞬間——
向かい側で、ドンテンが同じ動作をしているのが目に入った。
「……あいつ、何してんだ……?」
闇獣も、大きな口を限界まで開き——
今度は、さきほどとは逆に、周囲の空気を猛烈な勢いで吸い込んでいた。
全身が風船のように膨れ上がり——
「……ッ!? マズい……」
次の瞬間、ドンテンは一気にその空気を吐き出した。
巨大な空気の塊が形成され、うねりを纏いながらグリムとアデルに向かって迫る。
「グリム!! おまえは下がってろ!! オレがあの塊ぶっ壊す!!」
ボロボロの体を無理やり起こしながら、アデルが前へ出る。
「アデル!! おまえが下がってろ!!」
グリムも痛みを押し殺し、アデルより早く空気の塊へ向かって駆け出す。
「グリム!! 下がってろよぉ!!」
「怪我人が、でしゃばんな!!」
叫び返しながら、グリムは鎌を高く掲げる。
「テンペスタス・ファルキス(嵐の刈り手)!!」
グリムを中心に、巨大な竜巻が巻き起こる。
うねる風の柱が、ドンテンが吐き出した空気の塊と正面から激突した。
ズガァァァァァンッ!!
衝突の瞬間、爆風が爆ぜ、森全体を揺らす。
アデルは吹き飛ばされまいと地面に低くかがみこみ、近くの木の根を掴む。
「うっ……あ……くっ……!」
目を開けていられないほどの風圧が、頬を切り裂く。
「うぉおおおおおらぁあああああ!!!」
グリムは叫びとともに鎌を振るい続けた。
竜巻は空気の塊を削り取り、やがて完全に掻き消し去る。
好機を逃さず、グリムは続けざまに技を叩き込んだ。
「ラーミナ・ファルキス(風刃斬)!!」
今度は、動く気配のないドンテンの目めがけて、風刃を集中させる。
だが——風が届く寸前、ドンテンの体がぬるりと動いた。
腹部の大きな口が、パカリと開く。
「——食いやがった……!?」
グリムの放った風刃は、ことごとくその口に吸い込まれていく。
ダメージを与えるどころか、まるで餌を頬張るように、ドンテンは嬉々として魔法を喰らっていた。
「なんだと……くそ!! まだ行くぞぉお!!」
グリムは攻撃の角度を変え、威力も変え、軌道も予想の逆を突いた。
それでも——すべての風属性の攻撃は、例外なくドンテンの口に吸い込まれていく。
そして今度は、ドンテンの口が、ふくらんだ。
——パスンッ!!
小さな空気砲が、弾丸のような速度で飛び出した。
あまりにも速く、グリムは避ける暇もなく、その衝撃をまともに受ける。
「かっ……は……げほっ……げほ……!」
肺の中の空気をかき乱され、咳が止まらなくなる。
ドンテンはなおもニヤニヤと口角を上げ、三つの目でグリムをじっと見下ろしていた。
「くそ……」
どうすれば、この異形を突破できるか——
グリムが歯を噛み締めていたとき、横からふらつきながらアデルが近づいてきた。
「グリム……オレに提案がある」
「アデル、お前、体は大丈夫か……?」
「なめんな! オレは余裕だ!!」
ぼろぼろの身体で言うセリフではないが、その目だけはまだ死んでいない。
「オレが、あいつの“口”を封じる」
「どうやって封じるんだよ!! アデル、お前の魔法だって食われるぞ!!」
「は? オレ、魔法撃てねえよ? 一回も発動したことねえ!!」
「はぁ!?」
「オレは拳一本でやってんだよ!!」
アデルはドンテンを睨みつけたまま、ぐっと拳を握る。
「グリムはオレを信じろ!! 絶対に、おまえの攻撃が通るようにしてやる!!」
グリムは、一瞬だけ目を見開く。
——魔法なしで、ここまでの戦いをしていた。
その事実も驚きだが、それ以上に、その目には揺るぎない覚悟が宿っている。
数秒の沈黙ののち、グリムはゆっくりと口角を上げた。
「……なら、信じるぞ、アデル」
まっすぐにアデルを見る。
「俺の“弟分”として、任せる!!」
「はあ? オレが弟分? ……まあいいぜ」
アデルもニヤリと笑った。
「どんと構えとけ、アニキ!!」
二人は並んで立ち、ドンテンを正面から見据える。
黒く染まった闇獣は、三つの目——そのうち一つは潰れている——で、ジロリと二人を見下ろし、腹の口をだらしなく歪めて笑った。
決着の刻は、もうすぐそこまで迫っていた。
本日も見てくださりありがとうございます!




