第五十六話 救いの刃
三つ目の闇獣は、理解できずにいた。
今まで喰らってきた人間は、皆ただの「餌」だった。
反撃してくる者がいても、噛み砕く前の、わずかな“遊び”を彩る程度。
傷を負わされたことはあっても、命の危機を感じたことなど、一度もない。
だが、さきほどの一撃は違った。
全身がぶっ飛ばされ、地面に叩きつけられた。
三つの目は、初めて——目の前の人間を餌ではなく、“敵”と認識する。
アデルは、まだ起き上がりきれていない闇獣から目を逸らさない。
その背後の木々をちらりと確認すると、一気に駆け出し、幹を蹴って高く跳び上がる。
「——プラーガ・カルキス(踵落とし)」
空高く舞い上がったアデルは、そのまま真下へ向けて、振り下ろすように脚を叩きつけた。
ドゴンッ!!
踵が、闇獣の巨大な傘の頂点を正確に捉える。
衝撃が地面まで突き抜け、三つ目の闇獣の頭部は、そのまま地面へ深くめり込んだ。
「な……なんと……あの闇獣を……圧倒しておる……」
「アデルにいちゃん……すげえ……」
「ここまでの強さなのか……塔に挑む者の力というものは……」
少し離れた木陰から戦いを見ていたルーズは、言葉を失っていた。
この森の誰もが“絶望”と呼んだ闇獣が、若い少年に叩き伏せられている——その光景が信じられなかった。
震える膝を無理やり伸ばし、ルーズは立ち上がる。
隣で固まっているコルクの小さな手を、ぎゅっと握りしめた。
「……コルク」
「おじいちゃん?」
「逃げるぞ、コルク……」
ルーズは闇獣から目を離し、その場に背を向ける。
「え……おじいちゃん……まだアデルにいちゃんが……」
「今のワシらがここへおっても、邪魔になるだけじゃ……」
悔しそうに歯を食いしばりながら、ルーズは言葉を絞り出す。
「アデルには、闇獣に集中してもらわにゃならん……ワシらのような弱い者が近くにおったら、それだけで命取りじゃ……」
「そんな……ダメだよぉ!! アデルにいちゃんを置いていっちゃ!!」
コルクの必死の訴えに、ルーズは怒鳴るように叫び返した。
「ワシらがここへ残ってどうする!! 何も出来んじゃろ!! ワシはアデルよりも、ずっとずっと弱いんじゃ!!」
「おじいちゃん……」
「ワシらには、誰かを守る力はない……だから……」
ルーズは、コルクの手を強く握り直す。
「だからワシらは“助けを呼ぶ”……アデルだけじゃ危険じゃからの……」
「……おじいちゃん……うん……わかった!! アデルを助けてくれる人を探そう!!」
「なら行くぞ、コルク……」
ルーズは、心の中で自分の言葉を呪った。
——こんな森に、人なんて居らん。
——アルセディア森都までも、ここからはとんでもなく遠い。
今の言葉は、ただコルクを納得させて、その場から引き離す為の方便に過ぎない。
それでも、振り返れば足が止まりそうで——ルーズは一度も後ろを振り返らず、コルクを連れて森の中へ消えていく。
・
・
その背中など、アデルは一瞥もしなかった。
視界には、沈黙する闇獣の姿だけ。
地面に埋まった頭部が、わずかに痙攣している。
「立てよ……クソキノコ……」
吐き捨てるような、冷えた声が、闇獣の傘に向かって落ちる。
「ケッラララララッラッラ——」
三つ目闇獣が、ぶくりと身を震わせ、不快な笑い声を上げた。
左右に生えている太い触手を、狂ったように振り回し始める。
次の瞬間、触手の一本が、槍のように鋭く尖り、アデル目がけて一直線に伸びてきた。
続いて、そこから更に枝分かれするように、細い触手が無数に伸びる。
槍の穂先のような鋭い触手が、雨のようにアデルへ降り注ぐ。
「ちっ……」
アデルは前へ出る。
真横に跳んで避けるのではなく——あえて“正面から”突っ込む。
無数の触手を、すべて避けるのは不可能だ。
それでも、致命傷だけを避け、腕や肩、脇腹に浅い傷を刻まれながら、一歩、また一歩と闇獣へ迫る。
「プグヌス・ディレクトゥス(直進する拳)」
拳を構えた瞬間、三つ目闇獣の三つの目が大きく見開かれる。
その口が、裂けるように開いた。
ガブッ!!
振り出されたアデルの腕に、闇獣の牙が噛み付いた。
分厚い歯が肉を貫き、骨に食い込む。
闇獣は、そのままその腕ごと噛み千切ろうと、顎に力を込める——が。
「……カスが……」
アデルは微動だにしない。
噛み砕かれようとしている腕を、まるで他人事のように見下ろしながら、腰をぐっと落とす。
「ペガルイム・プルス(殴る衝撃)」
噛み付かれた“まま”、アデルは拳に宿した衝撃を闇獣へ叩き込んだ。
ドンッ!! という鈍い音とともに、闇獣の巨大な体が、再び横へ吹き飛ぶ。
顎の力が抜け、アデルの腕は引き抜かれる。
血がどくどくと流れ落ちる。
それでも、アデルは痛みなど感じていないかのように、そのまま間合いを詰めた。
パンチ、蹴り、肘打ち、体重を乗せた体当たり——
躊躇も容赦もない連撃が、闇獣の体を連続で打ち据える。
「ケララララ……ケララララ……!!」
三つ目闇獣は狂ったように触手を伸ばし、アデルを絡め取ろうとする。
だが、アデルの動きはギリギリのところでそれを捌き続ける。
完全には避けきれない。
それでも、致命傷だけは決して通させない——そんな、ギリギリの攻防。
やがて、アデルがわずかに距離を取った瞬間——
闇獣の周囲に、もやもやと紫色の煙が立ちこめ始めた。
「……!」
嫌な気配を感じた時には、もう遅い。
三つ目闇獣の口が、ぐわぁっと大きく開き——
そこから、大量の紫色の煙が噴き出した。
濃く、ねっとりとしたその煙は、一瞬で前方の空間を覆う。
「——っ」
アデルは腕で口元を覆うが、数口分の煙を吸い込んでしまう。
喉が焼けるように痛み、咳が込み上げる。
「ゴホッ……チッ……」
だが、足は止めない。
呼吸が苦しくても、視界が滲んでも、アデルは腰を落とし、再び闇獣目がけて突っ込んだ。
三つ目闇獣は、距離を詰めさせまいと、口から紫の煙の“塊”を次々と吐き出す。
それは弾丸のような速度でアデルへ襲いかかる。
アデルは、それら全てを土埃を巻き上げながら紙一重でかわしていく。
足元を滑らせるように、身を捻り、頭を下げて、煙弾を掠めていく。
闇獣の表情が、僅かに焦りを帯びた。
その瞬間、先ほど伸ばしていた触手の一本が、死角からアデルへ迫る。
避けたはずの方向——背後から、蛇のようにうねりながら突き出される。
アデルは、まるで最初から見えていたかのように、身を捻り、その軌道を読んで回転する。
「ヴェルソ・プグヌス(裏拳)!!」
回転の途中、アデルの裏拳が、闇獣の一本の目を正確に撃ち抜いた。
グシャッ!!
三つのうちのひとつの目が潰れ、黒い液体が飛び散る。
そのままの勢いで、今度は蹴りを叩き込もうと踏み込んだ、その瞬間——
全身に、ビリビリと走る激痛。
「ぐぅっ……!! ぐぁああああああ!! クッソ……痛え……!!」
膝がわずかに落ちる。
あまりの痛みに、歯を食いしばりながらも、体が思うように動かない。
いつの間にか、アデルの“ヴォイドセンス(虚無感覚)”は解除されていた。
痛覚も、恐怖も、毒も——
本来ならとっくに限界を迎えているはずの身体の悲鳴が、一気に押し寄せてくる。
三つ目闇獣は、潰れた目を押さえながらも、よろめきつつ立ち上がった。
その体から、先ほどとは比べものにならないほど冷たい殺気が滲み出る。
元は白い胴体。
頭部には白と赤の斑点模様があったはずなのに——
今、闇獣の全身は、漆黒一色に染まっていた。
「……か、からだが……思うように……動けん……」
アデルは舌を噛み、無理やり踏ん張るが、筋肉の反応が一瞬遅れる。
三つ目闇獣は、その様子をじっと見つめると、ゆっくりと——しかし確実に、アデルとの距離を詰め始めた。
左右の太い触手を、天へ掲げる。
その先端が、さらに細かく枝分かれし、槍のような触手が無数に生え広がる。
次の瞬間——
雨のような速度で、枝分かれした触手が一斉にアデル目がけて放たれた。
「マ……? マズイ……何とか……しねえと……でも、体が……」
足が縫い付けられたように重い。
腕も、さっきまでのようには上がらない。
そのままでは、蜂の巣だ——そう理解した瞬間、目の前の景色が“消えた”。
——無数の触手は、アデルへ到達する前に、一気に消し飛んでいた。
「……!! 一体、何が……」
黒い触手の雨は、まるで見えない刃でまとめて切り払われたかのように、空中で断ち切られ、地面へ落ちていく。
アデルが目を見開いた、その時。
「あの時以来だな……アデル、だったよな」
背中に聞き覚えのある声が刺さった。
「お、お前……!!」
振り向いた先に立っていたのは——
黒髪に、右頬へ斜めに刻まれた爪傷。
無造作に吊るされた四つ星のギルドプレート。その存在だけで周囲の空気を一段冷たくする男。
ジートの“アニキ”。
「グリム」だった。
本日も見てくださりありがとうございます!




