第五十五話 守れなかった日の続き
目を瞑ると、あの光景が、嫌でも蘇る。
逃げまどう人。
その場で血を流し倒れていく人。
目の前で、化け物に喰われる人。
破壊されていく家々。
そして、絶対に思い出したくない——三つ目の闇獣の姿。
忘れたくても忘れられない、昔の光景が、鮮明すぎるほどに浮かび上がる。
「うぁあああああ!!」
ルーズは喉を裂くような叫び声をあげ、跳ね起きた。
息は荒く、胸は激しく上下している。額には冷や汗がびっしりと浮かび、全身が震えていた。
薄暗い住処。
簡素なベッドの隣では、コルクが無邪気な寝顔のまま、小さな寝息を立てている。
反対側の寝床には、アデルが大の字で眠りこけていた。少年らしからぬ傷の跡だらけの身体なのに、その寝顔だけはどこか年相応だ。
「……はぁ、はぁ……」
シャールドから闇獣の話を聞いてからというもの、ルーズの胸の中では、ずっとソワソワと落ち着かない何かが暴れ続けていた。
さっき見た夢は、その不安がそのまま形になっただけだろう。
目を閉じれば、喰われる村人の顔。
耳を塞いでも、肉を噛み千切る音がよみがえる。
「……寝れん……」
ルーズはベッドから静かに抜け出し、足音を殺して台所へ向かう。
棚をごそごそと探り、手触りで目的のものを探り当てる。
「あ、あったわい……安眠草……」
皺だらけの指先が掴んだのは、乾燥させた薄緑色の草束だった。
ルーズは火の魔石を取り出し、安眠草に近づける。淡い火花が散り、じわり、と煙が立ち上る。
安眠草特有の、甘ったるくて、どこかとろけるような香りが、ゆっくりと部屋に広がっていく。
「こ、これで……寝れるわい……」
ルーズはその安眠草を泥で作られた瓶の中に押し込み、瓶の口を軽くふさぐ。煙は瓶にこもり、部屋の空気には既に十分な香りが漂っていた。
ふらふらとベッドに戻り、シーツをかぶる。
確かに、瞼が重くなっていく。意識も、ふわりと霞んでいった。
——だが。
しばらくすると、再び目が覚めた。
「……はぁ、はぁ……」
胸のざわめきは、まるで収まってくれない。
闇獣に襲撃されたあの日の光景が、目を閉じるたびにまぶたの裏を焼く。
喰われた声。折れた骨。
家が砕ける音。
コルクの両親の、最後の表情。
「……いかん……ここにおっては……いかん……」
ルーズは決意したように息を吸い込み、ゆっくりと服を着替え始めた。
棚から丈夫そうな袋を取り出し、食糧や予備の服、最低限の道具を素早く詰めていく。
そして、コルクのベッドに近づき、その体をそっと抱き上げた。
コルクは、先ほど焚いた安眠草の香りのおかげで、深い眠りに落ちている。
少し揺らしたくらいでは、まったく目を覚ます気配がない。
アデルも同じだ。
多少の物音など、まるで気にならないように、ぐっすりと寝込んでいる。
ルーズは眠る少年の顔を、しばし見つめた。
「アデル……すまないの……」
震える声が、夜の静けさに溶ける。
「本当に……すまない……すまない……」
小さく何度も呟きながら、ルーズは家の扉へ向かう。
コルクを抱きしめたまま、そっと外へ出ていった。
・
・
・
「ん……? こ、この匂い……」
アデルは寝返りを打ちながら、鼻をひくつかせた。
「嗅いだ事あるぞ……なんだっけ、これ……」
まだ意識はぼんやりしている。
しかし、甘ったるい空気が鼻腔を刺激し、脳裏に嫌な記憶が浮かび上がる。
——鳥車の中。
わけもなく眠気に襲われた、あの瞬間。
「……思い出したぁあ!!」
ガバッと跳ね起きたアデルは、半分寝癖のついた髪をかきむしりながら部屋を見回した。
「……ん?」
視界に入ったのは、小さなテーブルの上に転がる泥の瓶。
アデルは近づき、瓶の蓋を開ける。
「……草の灰?」
中には、既に燃え尽きた草の灰が残っているだけだった。
瓶の縁には、まだほのかに、甘い匂いがまとわりついていた。
「この……草……コイツが、この匂いを出してたのか?!」
アデルはまだある安眠草ポッケに入れる、
そして、アデルは舌打ちし、部屋を見渡す。
——ルーズはいない。
——コルクもいない。
嫌な予感が、背中を走った。
外へ駆け出す。
家の周囲は静まり返り、誰の声もしない。
「ルーズ爺さん!!! コルクぅう!!!」
アデルの叫びは、森に吸い込まれていくだけだった。
返事はない。
「おい……どこいきやがった……」
焦燥を押し殺しながらも、まず前を見る。
湿った土に、くっきりと足跡が残っていた。
「……一人分……だけか?」
その足跡は大人のもの。
コルクの小さな足跡は、見当たらない。
「——抱えて、行ったってことかよ……」
舌打ち一つ。
アデルは、、足跡の痕を追い始めた。
ひたすら、真っすぐ。
曲がりもせず、迷いもない足取り。
「なんでオレ、こんなことしてんだよ……」
ぼやきが口をつく。
「早くリノア達探さねえといけねえのによぉ!!」
心の中では確かにそう思っている。
それでも、足は止まらない。
それが、今のアデルの答えだった。
ルーズの家を出てから、どれくらい歩いたのか。
太陽の位置も、時間の感覚も、どうでもよくなっていた。
ただ、ルーズとコルクが、どこへ向かったのか。
それだけが気がかりで、足を前へ前へと運ぶ。
「おい……どれくらい歩いたんだよ、オレわぁああ!!」
鬱蒼とした同じような景色が続く中、不満混じりの声だけが響く。
——だが、やがて。
目の前の風景に、僅かな異変が現れた。
「……ん?」
数本の木が、根元から折れている。
近づいてみると、その先にも、複数の木々が薙ぎ倒されていた。
ただの老木の倒木ではない。
“何かが通った”痕跡だ。
「どう……なってやがる……」
折れた木々の並びは、まるで巨大な獣が突進していった軌跡のようだ。
アデルは走り出す。木々の裂け目を縫うようにして、その痕跡を追っていく。
程なくして、木で作られた、小さな小屋が見えてきた。
「……あそこか……」
近づいてみれば、その小屋の壁や屋根には、大きな穴がいくつも開いている。
まるで巨人の拳で殴りつけられたみたいだ。
そして小屋の周囲には、いくつもの落とし穴が口を開けていた。
どれも人一人なら余裕で飲み込める深さだ。
アデルは一つの穴の縁にしゃがみ込み、中を覗き込む。
「……杭か」
底には、鋭く削られた木の杭が多数突き立っている。
——だが、その多くが、折れていた。あるいは、何か重いものを受け止めて砕けたかのように、根元からねじ曲がっている。
「これは……魔物がやったのか……? いつやられた……」
胸にざわり、と嫌な感覚が走る。
アデルは小屋の扉に向かって、一歩踏み出した。
その途中で——足が止まる。
視線が、右側の地面に吸い寄せられた。
「……っ」
そこには、“人の頭”が転がっていた。
アデルは、信じたくないと心の底で叫びながら、ゆっくりと近づく。
間違いであれ、と願うように。
しかし、近くで見た瞬間、その願いは無惨に砕かれた。
「……シャールド……」
皺だらけの顔。
首元まで伸びた無精髭。
昨日まで、森の中で騒がしく笑っていた顔。
「てめえ……なんで……」
昨日会ったばかりの男だ。
それでも、この世から消えたとわかってしまえば、胸の奥が重く沈む。
シャールドは、闇獣を狩ると言っていた。
罠を張り巡らせ、全てを仕留めるつもりでいた。
その結果が——これ。
「闇獣と……戦ったのか……? キノコの闇獣と……」
アデルの脳裏に、川で見た三つ目の闇獣が蘇る。
巨大なキノコのような体。
頭部辺りに並ぶ三つの目。
水を吸い上げていた、気配だけで肌が粟立つ怪物。
「あのクソキノコが……コルク達の村を滅したのか……!!」
奥歯を噛みしめる。
拳が震える。
周囲を見渡しても、今は闇獣の姿も、気配も感じない。
それが逆に、不気味さを増していた。
「ルーズ爺さん……コルク……」
最悪の光景が頭をよぎる。
喰われ、踏みにじられ、血に染まる二人の姿。
「ざ……ざけんなぁ……」
アデルは無理やりその想像を振り払うように、首を振る。
「ルーズ爺さん、コルクはまだ生きてる……大丈夫だ……大丈夫だ……」
自分に言い聞かせるように、何度も呟く。
闇獣が通ったであろう痕跡を、再び追おうとした、その時。
北の方角で、木々の上から一斉に鳥が飛び立った。
「急に……!?」
ざわめく羽音。
その下で、何か巨大なものが動いている。
アデルは目を閉じ、深く息を吸い込む。
耳に集中する。
森のざわめきを突き抜けるように、“足音”が聞こえた気がした。
「——あっちだな」
瞼を開き、アデルは走り出す。
地面を蹴るたびに、肺が焼けるように痛むが構っていられない。
・
・
・
「やめろぉお!! やめてぇ……くれ……コルクを放して、くれええ!!」
悲鳴混じりの叫びが、森を裂く。
そこには、地面に這いつくばるルーズの姿があった。
膝と手を擦りむき、土まみれになりながら、必死に何かに手を伸ばしている。
ルーズの視線の先——
三つ目の巨大なキノコの闇獣がいた。
太い茎のような本体から、無数の触手じみた腕が伸びている。
その一本が、コルクの小さな体を絡めとり、ずるずると持ち上げていた。
「おじいちゃん!! たすけてぇええ!! たすけてぇええ!!」
宙吊りにされたコルクは、必死に足をバタバタとさせる。
だが、細い腕では触手を引き剥がすことなど到底できない。
三つの目は、冷たい光で少年を見つめていた。
巨大な傘の下——闇獣の口が、ぐわぁ、と不気味な音を立てて開く。
触手が、ふっと緩んだ。
捕らえていたコルクの体を、あえて放す。
「あっ——」
コルクの体が、闇獣の大きく開いた口の中へ、真っ直ぐ落ちていく。
「おじいちゃん!! アデルにいちゃん!! たすけてえええ!!」
泣き叫ぶ声が、森に響き渡る。
ルーズは爪が剥がれそうになるほど地面を掻きむしりながら、前へ進もうとする。
だが、老いた足では、間に合わない。
——その光景を、少し離れた木陰からアデルが見ていた。
頭の中で、何かが爆ぜる。
(間に合わねぇ……)
胸が凍りつく感覚。
塔に挑み、多少は強くなっても、闇獣に挑めば、逆に殺されるかもしれないという現実。
——「アデルにいちゃん」。
コルクが呼ぶ声が、ジートの声と重なって聞こえた。
血に染まった家。
血に染まった地面。
守れなかった、友達の顔。
間に合わなかった。
届かなかった。
——また、同じ事を繰り返すのか?
何度も、何度も、目の前で誰かを喪うのか。
(……ふざけんな)
頭の中で、何かが音を立てて切り替わる。
「今度は——」
視界から色が消えていくような感覚。
世界の音が遠くに追いやられていく。
「今度は、助ける……」
喉の奥から漏れた声は、驚くほど冷たかった。
「オレの命なんざ……どうでもいい……」
次の瞬間、三つ目の闇獣の口が、パクッと閉じられた。
肉を噛み砕く音が、森に響く——はずだった。
だが、闇獣は何も噛んでいないことにすぐ気づいた。
口の中に広がるのは、空虚な感触。
三つの目が一斉に正面を捉える。
そこには——
コルクをしっかりと抱きしめたアデルが、無言で立っていた。
「ア、アデルにいちゃん……! アデルにいちゃん!!」
コルクは涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、アデルの胸にしがみつく。
助かった安堵と恐怖で、全身が震えている。
だが、アデルは一言も返さない。
その背中から、普段とはまるで違う“何か”が溢れていた。
「アデル……にいちゃん……?」
コルクが怯えたように呟く。
アデルはコルクを抱えたまま、ゆっくりとルーズの方へ歩いていく。
「アデル……お主……」
ルーズは言葉を失った。
アデルの体から噴き出している殺気に、喉がひゅっと締め付けられていく感覚を覚えたからだ。
森の空気自体が、重く沈み込んでいく。
アデルは無言のまま、コルクをルーズの元へと預ける。
ルーズがその小さな体を抱きしめた瞬間——
闇獣の太い触手が、アデルの背後から一気に伸びた。
「アデル! 後ろじゃぁ!!」
ルーズの叫びが飛ぶ。
触手がアデルの背を叩き潰そうと迫る——が、その瞬間。
バチッ、と耳鳴りのような音が走り、触手が弾かれた。
まるで見えない壁にぶつかったかのように、ねじれながら横に逸れる。
「……殺す」
アデルは、ただ一言だけ呟いた。
その声は低く、冷え切っているのに、背筋に電撃が走るほどの“圧”があった。
次の瞬間、アデルの姿が掻き消える。
闇獣の三つの目が追いつく前に——アデルは既にその懐へ入り込んでいた。
傘の巨大な外殻。
脈打つ茎。
腹にある大きな口。
その間近に立つアデルは、そっと右手を伸ばし、人差し指を闇獣の体に触れさせた。
「ペガルイム・プルス」
静かに放たれた言葉と同時に、空気が一瞬、粘つくように重くなる。
次の瞬間——
ドッッッッ!!
鈍い衝撃音と共に、闇獣の巨大な体が、軽々と弾き飛ばされた。
三つの目を見開いたまま、キノコの頭が地面を擦り、木々をなぎ倒しながら遠くへ転がっていく。
「アデルにいちゃん!!」
「アデル!!!」
コルクとルーズの叫びが重なる。
アデルはいつの間にか——
“ヴォイドセンス(虚無感覚)”を発動していた。
世界の色は薄れ、音は遠ざかり、肌に感じる気配だけが、凄まじく鮮明になる。
アデルの周囲からは、凍てついた殺意が、もはや目に見えるほどの濃度で溢れ出していた。
本日も見てくださりありがとうございます!




