第五十四話 逃げる者、戦う者
境風の森は、昼だというのに薄暗かった。
高く伸びた木々が陽光をさえぎり、湿った土の匂いと、遠くの鳥の鳴き声だけが満ちている。
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「ここじゃよ。よくドゥドゥはこの辺に集まる」
ルーズに案内されて辿り着いたのは、木々に囲まれた静かな池だった。
水面には木の枝と枯れ葉が浮かび、時折、泡がぷくりと弾ける。
「おじいちゃん見て見て!! ハサガニがいっぱいいるよ!」
池の縁にしゃがみこんだコルクが、目をキラキラさせながら叫ぶ。
確かに、岩陰をよく見ると、小さな細長いカニが何匹もせわしなく動いていた。
「おお〜、コルク、そうかそうか〜!」
ルーズは目尻を下げて孫の頭を撫でる。その仕草は、ここが“闇獣が現れ森”だということを、一瞬だけ忘れさせるほど穏やかだ。
「で? ルーズ爺さん、ドゥドゥが現れたら、どうやってとっ捕まえるんだよ?」
アデルが腕を組みながら問いかける。
ルーズは「ふぉっふぉ」と笑い、腰に巻いていた紐をほどいて見せた。
「これを使うんじゃよ」
「なんだこの紐? これをどうすんだよ?」
「アデル、この紐の先端、輪っかになっとるじゃろ?」
たしかに、片方の端は器用に結って輪になっている。
「おう? それがどうしたんだ?」
「こうするんじゃ」
ルーズは何の躊躇いもなく、その輪をアデルの胴体に引っかけた。
「はあ? なんだこれ!! おい!! ジジイ!! てめえ!! 早くほどけぇ!!」
紐がぐいっと締まり、アデルは慌てて縄をつかんでじたばたともがく。
「あははは! アデルにいちゃんおっかしい!! あはははっ!」
コルクは腹を抱えて笑い転げた。
ルーズはようやく満足したのか、ゆっくりと紐を緩める。
「どうじゃ? これでドゥドゥを捕まえるんじゃ!」
「クッソ! わざわざオレにやんなくてもいいだろぉ!」
「自ら食らった方がわかりやすいじゃろ。ここにおってはドゥドゥが現れんからの、物陰に隠れるぞ」
ルーズの言葉に、アデルとコルクも渋々頷き、池から少し離れた茂みに身を潜めた。
「なあ、ルーズ爺さん、本当に現れるのか? 全く魔物の気配ねえけど」
アデルは苛立ちを隠さず、小声で吐き捨てる。
「まあ落ちつくのじゃアデル。まずは待とう。急いだってどうしようもない」
「オレは急いでんだよ!! リノア達を探さねえと!!」
噛みつくような声。
本当は、自分だけ離れたことへの焦りと、どうしようもない不安をぶつけているのだと、アデル自身も薄々気づいていた。
「わかった、わかった。落ち着くのじゃ。ちゃんとドゥドゥはここに現れる。ワシはなんどもここに現れるのを見たんじゃ!」
ルーズの言葉に、アデルは舌打ちしつつも、それ以上は何も言わなかった。
時間がゆっくりと過ぎていく。
風が枝葉を揺らし、池の表面に細かな波紋を作る。
やがて――
「……すぅ……すぅ……」
コルクがアデルの袖を掴んだまま、こてんと眠り込んだ。
続いてルーズも、木にもたれかかりながら、「ふご……」と小さないびきをかきはじめる。
「クッソジジイ……マジ現れたら叩き起こしてやるぅ……」
毒づきながらも、疲れの残る体は正直で――
アデルのまぶたも、いつの間にか重く閉じていった。
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「おい!! アデルゥ!! 起きるんじゃ!! ドゥドゥが現れたぞぉ!!」
「ッ!?」
ルーズの叫びが耳を突き、アデルは飛び起きる。
「ど、どこだ!!」
池の方へ目を向けると、丸っこい体にふさふさの尻尾を揺らした二羽のドゥドゥが、水面に首を伸ばしていた。
青緑の羽毛が陽光を反射し、のんきそうに水を啜っている。
「わぁあ!! アデルにいちゃん!! ドゥドゥだよ!!」
コルクが目を輝かせて袖を引っ張る。
「コルク、静かにするんじゃ。驚かせたら逃げてしまう」
ルーズは手に握った縄を持ち上げ、輪の部分を手際よく整える。
そして、そろりそろりと池の縁へ近づいていく。
距離を測り――息を止め――
「ていやぁ!!」
全力でブン投げた。
縄はきれいな弧を描いて――ドゥドゥの真横をすっぽ抜け、地面に突き刺さる。
「ちくしょ〜、ダメじゃった」
「ダメだったじゃねえよ!」
アデルが怒鳴るより早く、ドゥドゥ達は「クエッ!?」と鳴きながら一斉に駆け出した。
「まてぇ!! クソどりぃ!!」
アデルは反射的に茂みから飛び出した。
その脚は、疲れなど感じていないかのように速い。
「アデル待つのじゃ!!」
「アデルにいちゃん!!」
ルーズとコルクも慌てて追いかけるが、すぐに息が上がった。
「はあ……はあ……あぁ〜、年寄りにはつらいわい……」
「おじいちゃん……はあ……はあ……アデルにいちゃん、は、はやすぎだよ……」
二人はすぐに立ち止まり、肩で息をしながら、アデルの影を必死に目で追い続けるしかなかった。
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「クソどりがぁあ!! とまりやがれ!!!」
境風の森を、ドゥドゥと少年が全力で駆け抜ける。
鳥の甲高い鳴き声と、アデルの怒鳴り声が、木々の間にこだまする。
やがてアデルは、跳びかかるようにしてドゥドゥの尻尾に片手でしがみついた。
「捕まえたぁ!!」
しかし――
「クエエエエエッ!!!」
捕まったドゥドゥは、驚いたように奇声を上げると、突然ジグザグに走り出した。
左右に大きく振られ、木を避け、石を跳び越え、アデルの体は地面すれすれを引きずられる。
「このアホどりぃい!! 変な移動の仕方すんじゃねええ!!」
腕はきしみ、握力は限界に近い。
それでもアデルは尻尾を離さない――が。
ドゥドゥが、ふいにぴたりと立ち止まった。
「マジ……かよぉおおお!!」
止まることなど想定していなかったアデルの体は、慣性のまま前方へ吹き飛んだ。
地面をゴロゴロと転がり、草と土と落ち葉にまみれながら、なんとか受け身をとる。
「いってぇ……」
痛む肩を押さえながら起き上がると、そこにはもうドゥドゥの姿はなかった。
「ああ? ……クソ、見失なったし、後ここどこだぁ!!」
あたりは見覚えのない木々ばかり。
池も、ルーズの家も、どちらの方向か分からない。
アデルが舌打ちしたそのとき――
ガサガサ、と枯葉を踏む音が、すぐ近くから聞こえてきた。
反射的に音のする方へ顔を向ける。
そこには、髪の毛がボサボサで、白髪混じり。
首元まで伸びた無精髭を生やした老人が立っていた。
「おい小僧、おまえ何してるんだ?」
「おい! またジジイかよ!! この森はジジイしかいねえのかよ!!」
アデルの第一声に、老人は眉間にしわを寄せる。
「小僧!! ジジイしかいねえとはどういうことだ!? 他にも誰かいたのか!!」
髭面の老人が、ずいっと顔を近づけてくる。
「ジジイ! ちけえよ!!」
「これはすまん! ……後、俺はジジイって名前じゃねえ!! シャールドって名前だ!!」
妙に元気のある老人だった。
「で、おまえ、ドゥドゥを捕まえてどうするつもりだったんだよ」
「ドゥドゥに乗って、アルセディア森都へ行こうとしてたんだよ!!」
「アルセディア森都にだと? 何しに行くんだ?」
「ジジイには関係ねえだろ。気にすんな!」
「気にすんなって……聞かせてくれよー」
ぐいっと近寄ってくるシャールドを、アデルは鬱陶しそうに押し返す。
「うるせぇ!! オレはルーズ爺さんの所へ今から向かうんだよ!!」
踵を返した瞬間、シャールドの手がアデルの腕をがしっと掴んだ。
「おい、小僧。今なんて言った……?」
「は? ルーズって言ったけど、なんかあんのか?」
その名前を聞いた途端――シャールドの目が大きく見開かれた。
「ルーズ……? ルーズって、あの……」
唇が震え、喉の奥から、押し殺していた感情があふれ出る。
「お、お、おおうううう……生きてたんだな……ルーズ……」
シャールドはその場に膝をつき、大粒の涙をぼろぼろとこぼした。
「ちょ、おい……」
アデルは戸惑いながらも、その姿から目を逸らせなかった。
“闇獣に村を滅ぼされた人間”――その言葉が脳裏をよぎる。
しばらく泣き続けたあと、シャールドは袖で乱暴に涙を拭い、アデルに頭を下げる。
「なあ、坊主……」
「なんだ?」
「俺をルーズの所まで、連れてってくれねえか?」
額が地面につくほど深々と、シャールドは頭を下げた。
その背中には、長い孤独と諦めと、それでも残っていた一筋の希望がにじんでいた。
アデルは小さく舌打ちし――ため息をつく。
「……しゃーねえな。ついてこいよジジイ」
「だからジジイじゃねえって言ってんだろうが!! シャールドだ!!」
そんなやりとりをしつつも、アデルはシャールドを連れて歩き出す。
ドゥドゥが走り抜けた方向と、うろ覚えの景色を頼りに、森の中を戻っていく。
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やがて、懐かしい声が風に乗って聞こえてきた。
「コルク、疲れたらいつでも言うんじゃぞ」
「だいじょうぶ!! ぼく、アデルにいちゃん見つけるまでがんばる!!」
「おい! コルク!! ルーズ爺さん!!」
アデルは二人の名を大声で叫ぶ。
振り向いたルーズとコルクの顔に、ぱっと安堵の色が広がった。
「アデルにいちゃん! ぼく心配したんだよ!!」
「心配だと? 舐めんな!! 心配しなくても平気だ!!」
そう言いながらも、アデルはコルクの頭をくしゃりと撫でる。
コルクは嬉しそうに目を細めた。
「なあアデルよ、お主の隣にいるのは誰じゃ?」
ルーズは、アデルの後ろに立つ髭面をじっと見つめる。
「おい! ルーズ!! 俺の事忘れたのか? シャールドだ!!」
シャールドは両腕を大きく広げ、いつものように豪快に笑ってみせる。
その名前を聞いた瞬間、ルーズの唇がわなないた。
「嘘じゃろ……い、生きておったのか……」
「ああ、俺生きてる。
……逆に、この森に今でも人がいる事と、ルーズが生きてる事にも俺は驚いてるがな」
シャールドの冗談をかき消すように、ルーズは駆け寄り、その胸に飛び込んだ。
「シャールド……シャールドォ……!」
「おいおい、苦しいっての……ルーズ……」
背中を叩き合い、しわくちゃの顔をくしゃくしゃにして笑いあう二人。
長い時間と喪失を越えて、ようやく辿り着いた再会だった。
「なあ、シャールド。積もる話しもあるようだからの、ワシの家でゆっくりせんか?」
「行っていいのか? 迷惑にならんか?」
「客人が一人か二人増えた所で大して変わらんわい」
コルクはアデルの服をちょんちょんと摘まむ。
「アデルにいちゃん、おじいちゃん達なんか嬉しそうだね!!」
「そうか? まあ、久しぶりに会えるなら……嬉しいかもな」
そう口にしながら、アデルはふとリノア達を思い出す。
無意識に、右手の拳に力がこもっていた。
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ルーズの家に戻ると、四人は簡素なテーブルを囲むようにして腰を下ろした。
木造の小さな家で、窓から差し込む光が、埃をきらきらと浮かび上がらせている。
「アデルや、シャールドとは何処で出会ったんじゃ?」
湯気の立つ茶をアデルの前に置きながら、ルーズが尋ねる。
「は? 確か……ドゥドゥ乗ろうとして失敗して、振り落とされた場所で会ったんだ」
「なんと!! そんな所でか!!」
「俺はなんか叫び声が聞こえたからな。近づいて見に行ったら、派手に転がってる坊主がいたわけよ」
「そうだったんじゃな……。アデル、コルク、この爺さんはワシの友達じゃ……」
「ええ!! おじいちゃん友達いたの?! もういないって言ってたじゃん!!」
コルクはぱっと笑顔になり、シャールドの方に身を乗り出す。
「ああ……闇獣に襲われ、もう全員いなくなったと思ってたんじゃが……」
ルーズは小さく笑い、目元を指で押さえた。
「俺はあの時、村を滅ぼした闇獣を狩る為、この森で一人でいたんだ……」
「シャールド……」
「ルーズ……」
短い呼び合いだけで、互いの心情は痛いほど伝わってくる。
シャールドは、茶を一口すすってから、窓の外を睨むように見つめた。
「ルーズ。この森周辺で闇獣が現れたの、知ってるか?」
「なんじゃと……」
ルーズの表情が強張る。
その言葉は、ずっと封じ込めてきた恐怖の蓋を、無造作にこじ開ける音のようだった。
ルーズの村を滅ぼし、コルクの両親を目の前で喰らったあの闇獣。
“もう来ない”と信じたかった。だからこそ、この場所を選んで生き延びてきたのだ。
ルーズは立ち上がり、奥から古びたカバンを引っ張り出すと、棚からあれこれと荷物を詰め込みはじめた。
「おじいちゃん!! 急にどうしたの!!」
「コルク、逃げるぞ!! ここは危険じゃ!! 他の場所に移動する!!」
ルーズの声は震えている。
あの日――闇獣が村に現れた日の光景が、まざまざと蘇っているのだろう。
「おいルーズ!! 何処へ逃げても一緒だ……あいつは必ずまた現れる」
シャールドは低い声で言う。
「黙るんじゃシャールド!! ワシは絶対逃げる!! コルクを守らねばならんのじゃ!!」
焦りと恐怖に染まった顔。
ルーズにとって、世界はすでに「コルクを守るか/守れないか」だけでできていた。
「アデル!! シャールド!! お主らも一緒に逃げるんじゃ!!」
シャールドは、一歩前に出てルーズの前に立ちはだかる。
「なんじゃ!! シャールド!!」
「俺は逃げん。俺は闇獣と戦う」
「何言っとるんじゃ!!」
その一言に込められた決意の重さに、コルクでさえ息を呑む。
「村が滅ぼされた後、ずっと考えてた。
あいつは絶対、人の味を忘れねぇ。いつかまた、どこかの村を喰い荒らす。……もしかしたら、この森の外の誰かをな」
シャールドの拳が震える。
「だから俺の住処の周りには、罠を大量に作った。穴、杭、毒、落石……確実に殺す為に、な」
「ほ、本気か!! シャールド!!! そんな無茶な事!!」
「俺はあのキノコみたいな化け物に、家族を全員殺されたんだぞぉお!!」
怒鳴り声というより、叫びだった。
喉の奥が潰れるほどの怒りと悲しみが混ざり合い、空気が震える。
「俺は……あの時から今に至るまで、一日たりとも、あいつを忘れた事なんざない!!」
「シャールド! ならなぜワシと会ったんじゃ!! 一緒に逃げる為じゃないのか!!」
「違う!!」
即答だった。
シャールドは深く息を吸い、声のトーンを落とす。
「俺はあいつと戦う前に、最後に友達と会いたかっただけだ……。
アデル……感謝してる。おまえがたまたま転がってきてくれたおかげで、ルーズと会えた。
もう俺の友人とは、一生会えないと思ってたからな……」
アデルは何も言わず、ただ二人のやりとりを聞いていた。
隣では、コルクが不安そうにアデルの服をぎゅっと握りしめている。
「ルーズ!! ありがとうな!!」
シャールドは、ルーズの肩をどん、と叩く。
「コルク!! 俺の友達をよろしくな!!」
「え……う、うん!!」
戸惑いながらも、コルクは力いっぱい頷いた。
「じゃあな」
そう言って――シャールドは迷いなく背を向け、家の扉を開ける。
冷たい外気が入り込み、木造の家の空気を揺らした。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
ルーズは、その背中を追いかけることもせず、ただ立ち尽くした。
そして、無言のまま――再びカバンに荷物を詰め込みはじめるのだった。
魔物図鑑
ハサガニ
ザリガニ見たいな見た目、顎にハサミがついている
警戒心は不思議となく誰でも捕まえられる、中身がカスカスの為なんにも美味しくない
本日も見てくださりありがとうございます!




