第五十二話 孤狼の夜
三つ目の“歩くキノコ”は、ぬちゃ、ぬちゃ、といやな音を立てながら川べりまでずり出てきた。
傘のような頭。ぶよぶよした軸。頭部には三つの目玉がぎょろりと並び、どれも違う方向を見ている。
その胴体の両側から、ぬるりと触手じみた腕が伸び、川面に突き刺さるように沈んだ。
――ゴボゴボゴボ……
水が吸い上げられていく。
単に「飲んでいる」なんて可愛いものじゃない。
川そのものを“奪い取っている”ような、不気味な光景だった。
(やべ……コイツ……)
茂みの影から見ているだけで、アデルの肌に鳥肌が立った。
背骨に氷の針を押し込まれるみたいな悪寒と、刃物を首筋に当てられたみたいな威圧感が、距離を無視して全身を締めつける。
(オレじゃ――勝てねえ)
己の直感に、アデルは素直に舌打ちした。
闘う前からわかる。“今の自分じゃ”絶対に死ぬ相手だ。
しばらくすると、キノコは十分に水を吸ったのか、触手をずるりと引き抜き、そのまま森の奥へぬらりと消えていった。
「……闇獣、か。クッソ……」
胸の奥がじりじりと焼けるように悔しい。
だが、あれに手を出せば、今ここで冒険は終わる。それだけは、わかる。
アデルは歯を食いしばり、再び川の水をがぶ飲みすると、顔をバシャッと洗ってから、ぐっと拳を握る。
「――よし」
自分に気合を入れ、森の中へ踏み込む。
鳥車の車輪跡は、もう見えなくなっていた。
それでも、アデルは構わず走る。進む方向が合っている確証なんか一つもない。
けれど、立ち止まるという選択肢もまた存在しなかった。
「クッソがあああああ!! あの女――絶っ対殺す……!!」
喉が枯れても怒鳴り続ける。
太陽は少しずつ傾き、やがて木々の隙間からの光は赤く、細くなる。
「クソッ! オレ、どこにいんだよ!!」
苛立ちと不安を押し殺して走っていると、遠くから“アウーーーッ”と、長く尾を引く遠吠えが聞こえた。
ガサガサガサッ!
茂みが揺れ、影が飛び出す。
赤と黒の毛並みをした狼が、唸り声とともにアデルの喉笛目掛けて飛びかかった。
「っ……!」
反射で身を捻り、ギリギリでその噛みつきを避ける。すれ違いざま、腹へ蹴りを叩き込むと、狼は「キャンッ」と情けない悲鳴を上げて転がり、そのまま動かなくなった。
「おいおい……こっちは疲れてんだぞぉお!!」
息を荒げながら悪態をつくアデルの前に、月明かりが差し込む。
夜が、森を支配し始めていた。
薄い光に照らし出されたのは――二十匹ほどの狼。
赤と黒の毛が揺れ、牙を剥き、低く唸りながらアデルを囲い込む。
一匹が吠えた瞬間、全員が一斉に飛びかかってきた。
「――だりいぞおおお!!」
アデルは走り込みながら、迫る顎を拳と足で叩き落す。
だが、数が多すぎた。躱したと思った瞬間、別の狼が足首に噛みつき、別の個体が腕に食らいつく。
「いっ……ぐ、クッソがぁあ!!」
噛みついてきた狼の首を掴んで地面に叩きつけ、まだ足に喰らいついている個体をぶら下げたまま蹴り上げる。
骨が砕ける嫌な感触とともに、狼は悲鳴を上げて飛んでいった。
「ルーナ・カルキブスッ(三日月蹴り)!!」
半月の軌跡を描いたアデルの蹴りが、数匹の狼をまとめて吹き飛ばす。
満身創痍の中、それでも動きを止めることはない。
血の臭いがどんどん濃くなる。
やがて、群れの奥で、一際大きな狼が「アオオオオオン」と長く遠吠えを上げた。
その声を合図にしたかのように、アデルを取り囲んでいた狼たちは、次々と距離を取り、森の闇に溶けるように姿を消していく。
残されたのは、十匹以上の狼の死骸と、荒い呼吸を繰り返すアデルだけだった。
「……クソが……」
あちこちから血が滲む身体を押さえながら、アデルはふらつく足取りでなおも進む。
――何処に向かっているか、わからなくても。
「クソ……地味にいてえな……。
リノアかゼーラがいればなぁ……。
ルインもいりゃ、どの辺に行けば森出られるって、なんとなくでもわかるのに……」
自嘲気味に笑いながら、木々の間をよろめくように進む。
そんな時、木々の隙間に、ぽっかりと黒い穴が口を開けているのが見えた。
人一人がしゃがんで入れるくらいの、小さな洞窟。
入り口の辺りには――何か細長いものが、ぺた、ぺた、と前後に動いている。
「……はあ? なんだこれ……」
月明かりが届かないせいで、はっきりとは見えない。
だが、アデルは近づいてしまった。
指先を伸ばし、その“舌のようなもの”を掴もうとした、その瞬間。
ズドンッ!!
「……っかっ――!」
洞窟の奥から、何かが弾丸のような速さで飛び出してきた。
まるで丸太を叩きつけられたような衝撃が腹部を襲い、アデルの身体は宙を舞って地面を転がる。
「か、っは……っは……なんだ……?」
腹を押さえながら顔を上げると――森の闇の中から、ゆらりと“それ”が姿を現した。
緑色の鱗に覆われた、太く長い胴。
体長は十メートルはありそうな巨大な大蛇が、ぬるりと地面を這い出てくる。
「おいおい……マジかよ……」
三つの光る目を思い出す。狼の群れを思い出す。
そして、今目の前にいるのは、また別の化物。
蛇は、アデルを獲物と認識したのか、口をあり得ないほど大きく開きながら、まっすぐに突っ込んできた。
「でけえ口閉じてろやぁあ!!」
迫りくる頭部を下からぶち上げるように蹴り上げる。
大蛇の顎がガクンと跳ね、蛇の身体が一瞬ひるむ。
「うらぁあああ!!」
アデルは一歩も引かない。
隙を与えたら、次で終わる。それがわかっているからこそ、攻める。
「プラーガ・カルキス(踵落とし)!!
まだまだいくぞぉお!!」
高く跳び、踵落としが大蛇の頭頂へ直撃する。
重い音を立てて、蛇の頭が地面へ叩き伏せられた。
地に這いつくばったその顔面へ、アデルは人差し指を突きつける。
「ぶっ飛べやぁ!!
ペガルイム・プルス(殴る衝撃)!!」
指先に込めたマナが爆ぜ、衝撃波が蛇の頭部で炸裂する。
――ドゴォッ!!
大蛇の頭は、内側から破裂したかのように吹き飛び、ぐったりとした巨体だけがそこに残った。
「はあ……はあ……余計な、体力使わせんな……ボケェ……」
肩で息をしながら、大蛇の死骸を眺める。
その時、空っぽの胃袋が大きな音を立てた。
「……グゥゥー……」
「はあ……水しか飲んでねえから……腹減ってんのか。
コイツ、生で食えんのか……?」
アデルは周囲を見回し、足元に落ちている石の中から、刃物のように尖った形のものを拾い上げた。
「よし……」
大蛇の鱗の上に石を押し当て、思い切り力を込めて引く。
――が。
「……っ、ああ!? くっそ!!」
石の先は、鱗に浅い傷をつけただけで止まった。
皮が硬すぎる。
アデルは舌打ちすると、視線を蛇の吹き飛んだ頭部へと移す。
あまり考えたくないが、そこなら骨も肉も露出している。
「……ったく、しゃあねえ……」
アデルは頭部の残骸へ歩み寄り、むき出しになった肉を、手で無理やりちぎる。
生温かい血が指をべっとりと汚した。
そして――口へ運ぶ。
「……うえ……血の味しかしねえ……」
鉄よりも生臭い味が口いっぱいに広がる。
噛めば噛むほど、ぬるりとした生の感触が喉を通っていく。
「生で食うのは良くねえって、リノア達が言ってたけどよ……
火の魔石がねえから仕方ねえ……食わんと、死ぬ……」
アデルは顔をしかめながらも、満腹になるまで、嫌々ながら大蛇の肉を食べ続けた。
「うう……気持ちわりぃ……もう無理だ……」
食感、匂い、味。どれも最悪で、胃が悲鳴を上げている。
それでも、体は少しだけ力を取り戻した気がした。
今度こそ、さっき蛇が潜んでいた穴――寝床へと歩いていき、中に腰を下ろす。
ひんやりとして、湿っていて、決して快適とは言えないが、雨風はしのげる。
「リノア、ゼーラ、ルイン……大丈夫か……。
オレは今んとこ……元気だぜ……」
洞窟の天井をぼんやりと見上げながら、誰もいない空間に向かって呟く。
目を閉じると、すぐさま後悔が押し寄せた。
――何故、もっと強く、あの女が怪しいと引き止めなかったのか。
――何故、眠くなった時に、あの違和感を無視したのか。
「クソッ……クソッ……クソぉおおお!!」
仰向けのまま、拳で床を何度も殴りつける。
乾いた音が洞窟に虚しく響き――そのうち、意識は闇に沈んでいった。
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「わーーーー!! すごい!! おじいちゃん!! おじいちゃん!!
見て見て!! 大きな蛇が死んでるよーーー!!」
甲高い子供の声が、アデルの眠りを乱暴に引き裂いた。
「コルク、そんなにはしゃぐでない。
もしかしたら、この魔物を殺した奴がおるかもしれん……」
「この魔物たおしたの、どんな魔物かな? 見てみたいなーー!!」
久しぶりに聞く“人の声”だった。
アデルは半覚醒のまま上体を起こし、洞窟の出口へと歩く。
「おい!! ジジイ!! ガキ!!」
呼びかけると、川辺にいた老人と少年がビクッと肩を震わせて振り向いた。アデルは老人達に近づく。
「ん?? ……おいちゃん、だれ? なんでそんなボロボロなの?」
少年――コルクと呼ばれた子が、純粋な目でアデルを見つめる。
その隣で、白髭の老人が、アデルの姿を上から下までまじまじと眺めて言った。
「坊主や……全身傷だらけじゃのう。どうしたんじゃね?」
「色々と襲われてたんだよ……。
それより、聞きてえことがある」
「なんじゃ?」
「オレ、仲間と来てたんだけどよ。
鳥車の中で眠って、目ぇ覚ましたら、この森に放り込まれてたんだ……」
「なんと……それはそれは……」
「オレは今、仲間の居場所を探してんだ。
ここらで村か町、ねえのか?」
アデルと老人が話している間も、コルクは大蛇の死骸を棒でつついて遊んでいた。
「坊主、この辺りはのう……森ばっかりで、町どころか村もないわい」
「……うそ、だろ。
オレの仲間は、ニヤニヤした女について行ったんだぞ!!
そこの村に地図職人がいるから、ってよ!!」
「そんな村、わしは聞いたことないぞ……。
坊主の仲間は何人じゃ?」
「三人だ……。鳥車も見てねえか?」
「なんも見とらんよ」
その言葉を聞いた瞬間、アデルは顔を歪め、拳を握りしめる。
そのまま走り出そうとしたところを、老人が慌てて腕を掴んだ。
「坊主! どこへ行くんじゃ!」
「連れてかれた仲間を探しに行くんだよぉ!!」
「どこへ行ったかわからんのに、一体どこを探すつもりなんじゃ?」
「うるせぇ!! なんとかなんだよ!!」
「何を言っとるんだ! この森は危険じゃ!!
坊主、自分の体がどれだけボロボロか、わかっとらんのか……」
「こんなもん!! もう治るわ!!」
再び駆けだそうとした、その時――
アデルの服の裾が、ぐい、と引っ張られる感触がした。
見下ろすと、コルクが小さな手で必死に掴んでいた。
「おにいちゃん、ぼくの家で休んでよ。
体ボロボロだよー」
「……はなせよ……っ」
口ではそう言いながら、不思議と強く振り払えない。
――背格好が、ジートに似ていた。
(……チビのくせに、似てんじゃねえよ……)
「おにいちゃん、休もうよー。ね?」
真っ直ぐな目で、何度もお願いされる。
老人も、諭すように近づいてきた。
「家で、とりあえず休もう。
まずは汚れた体と、傷を癒さねばのう……」
アデルは、そこでようやく一度深呼吸をした。
足は痛い。腕も痺れている。視界の端はまだ揺れている。
――このままじゃ、仲間を探し出す前に自分が倒れる。
「……チッ。わかったよ……。
少しだけだかんな」
アデルは顔をそむけながら、二人の後ろに立つ。
「よし、行くかの、コルク」
「うん!! おじいちゃん!!」
こうしてアデルは、老人と少年――
見知らぬ二人の後ろ姿を追いながら、森の奥にあるという家へと歩き始めた。
魔物図鑑
紅黒狼
グラマル大陸に多く生息する狼、弱いと思った敵のには容赦なく牙をむくが、勝てないとわかるとすぐに逃げる
エメルナ
緑色の鱗を持つ大蛇、自分のテリトリーに侵入した者は容赦なく襲う




