第三十話 守れなかった約束
草を揺らす夕風の中、まだ小さな二人の声が響いていた。
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「ラセルってなんで毎回泣くの〜?」
村はずれの草原。木剣を握った少年が、鼻をぐずぐずさせながら立っている。
頬にはうっすら泥がつき、目元は真っ赤だ。
「だって、だってやりかえしたら、もっと酷い事されちゃうと思うと……」
声も情けなく震えていた。
すぐ目の前で、同じくらいの背丈の少女が手をかざす。指先に、ほんのかすかな光の粒が灯った。
「――ヒール」
淡い光がラセルの擦り傷に染み込んでいく。ひりついていた痛みがするすると抜け落ちて、代わりにじんわりとした温もりが宿った。
「にゃはは〜、もう。それならルナのお父さんに、剣の修行つけてもらうしかないね〜、にゃはは〜」
猫みたいに笑いながら、少女――ルナは腰に手を当てる。
「ルナちゃんは十三歳になったら、聖女の試練のため旅に出るんだよね!! ぼ、僕も連れてってよ!!」
慌てて言いながら、ラセルは木剣をぎゅっと握りしめた。
「にゃはは〜、今のラセルじゃダメダメだよ〜。ルナが“強くなったなぁ”って思ったら考える〜」
「僕は強くなって……ルナちゃんの剣として、守るからなぁ!!」
ありったけの勇気を振り絞った言葉だった。自分でも頬が熱くなる。
ルナはぱちくりと瞬きし、次の瞬間、破顔した。
「にゃはは〜、ラセルかっこいい事言うじゃん!! じゃ、もう修行始めないとね!!」
「え? ええ!! もう……え!! 今!?」
「時は金なりって言うし〜。ほら、いくよ〜!」
ルナはくるりと背を向けて駆け出す。ラセルは慌ててその背中を追った。
夕焼けに染まる空の下、二人の影が長く伸びていく。
――その未来に、今日みたいな平穏が続くと、信じて疑いもせずに。
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「……う、ううぅ……」
硬い石床の冷たさが背中から刺さる。鼻をつく鉄錆と焦げの匂い。
どこか遠くで、獣の唸りと、金属がぶつかり合う激しい音が木霊していた。
「ラセル!! 起きた!?……」
ぼやけた視界の端に、白い髪の少女の顔が飛び込んできた。
涙の痕を残しながらも、必死に笑おうとしている――ルナだ。
「ルナ……ちゃん……? あれ……僕は……」
「ミノタウロスの攻撃で気絶してたの!! 思い出した?」
胸の奥がざわりと揺れる。
焼け付くような痛みと共に、さっきまでの地獄が脳裏に蘇ってきた。
「あ!! そうだ、ミノタウロス!!」
ラセルは跳ね起きるように上体を起こし、周囲を見渡した。
白塔の広間。崩れた石柱、砕けた床、赤黒く染まった石畳。
そこかしこに血の飛沫が散り、焦げた臭いが漂っている。
アーク、レリアナ、ゼーラ、ルインは少し離れたところでリノアの側に倒れており、
リノアが震える手で回復魔法をかけていた。だがレリアナとゼーラの傷は深く、
光に包まれても、血がじわじわと床に滴り続けている。
反対側では、セレスティアが顔を蒼白にしながら、カンとコンに必死でヒールをかけていた。
二人の体は不自然な方向に曲がり、見る者の胸を冷たくさせる。
「アデルさんは……?」
かすれた声で問うと、ルナがふらつきながら指を伸ばす。
「アデル少年は……あそこ……」
指し示した先。
黒い巨体の前に、一人の少年が、膝を折りかけながらも立っていた。
ミノタウロスの全身を覆う黒い毛は、先程よりもさらに濃く、どす黒い赤を帯びている。
肌の下で炎が渦巻いているかのように、熱気が広間に吹き出していた。
「アデル少年は今、一人で戦っているの……」
「え……一人で……なんで……」
「“みんなの回復を優先しろ”って……。ラセル、ポーションまだ持ってる? ゼーラ少年とレリアナ少年にあげて欲しい。聖女同士の回復は効きづらいって聞いた事あるけど、本当だったみたい……」
ルナの額には汗がにじみ、その声も限界に近い。
「わかった!! 今すぐ行く!! ルナちゃんは!?」
「ルナは……アデル少年のフォローに入る……」
ルナは無理やり笑顔を作ってみせた。
「大丈夫だよね……?」
「にゃはは……ルナは聖女だよ〜。だから大丈夫! ほら! 早く行って……」
その笑顔が、どこか不吉に見えてしまう自分を、ラセルは振り払うように首を振った。
「……うん!!」
ラセルはふらつく脚に力を込め、リノアの元へ駆け出した。
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戦場の中心。
ミノタウロスは、四肢で地面を何度も掻き、石床を抉っていた。
巨体がわずかに沈み込むたび、床にヒビが走り、砂煙が舞い上がる。
アデルはその正面で、血に濡れた口元を拭いもせず、面倒そうに顔をしかめた。
「おい、クソ牛野郎……オレに唾かけただろ……クッセェんだよ、ボケ!!」
喉の奥から絞り出すような声。それでも口調だけはいつもの不遜さを崩さない。
ミノタウロスは、逆立った鼻息を荒く噴き出す。
地面を抉っていた蹄が、今度はぐっと前に向き――。
「前戦ったはぐれオークみたいな色しやがって……こいよ、雑魚!!」
次の瞬間、黒い巨体が弾丸のように弾け飛んだ。
僅か三歩。
それだけで、アデルの視界は鋭い角で埋め尽くされる。
心臓を狙った一直線の殺意――。
アデルは反射で左側へ身をひねり、紙一重で回避する。
「っ……!」
だが回避の軌道を読んでいたかのように、ミノタウロスの左腕が膨れ上がり、
岩を砕くようなパンチが横薙ぎに飛んできた。
咄嗟に両腕でガードするが――。
「ぐっ……!!」
先程までとはまるで違う。
重さも速さも、衝突の瞬間に骨が軋むほど、桁違いの威力だった。
ガードごと弾き飛ばされ、そのまま巨手に掴まれる。
ミノタウロスは、アデルの体を片腕で軽々と持ち上げると、
壁に向かって、投げ捨てるように叩きつけた。
「ぐっは……っ! な……なんだ……こいつ……」
鈍い衝撃音とともに、石壁にヒビが走る。
アデルの体は、壁から剥がれ落ちるように床へ崩れた。
それでも、歯を食いしばって上体を起こす。
「アデル少年!!」
ルナの悲鳴に近い声が響く。
「アクア・オルビス(水球)!!」
彼女が放った三つの水球が、弾丸のようにミノタウロスへ飛ぶ。
しかし巨牛はナタの一閃でそれらを全て叩き割った。
砕けた水が飛沫となって広間に散る。
殺意を宿した瞳が、ルナを捉える。
「ルナ.....逃げろ.......」
遠くから、よろよろと立ち上がりながらアデルが小さな叫びをあげる。
叫びと同時に、口から大量の血がこぼれ落ちた。
「アデル少年……ルナは聖女だよ!! ここでルナは逃げない!!」
ルナは自分に言い聞かせるように叫ぶと、
血に濡れた手のひらを床に押し当てる。
「――アクア・ウンダ(水小波)!!」
石床の隙間から、水がぶくぶくと溢れ出す。
細かな水流がミノタウロスの足元をすくい、小さな波が一気に襲いかかった。
ミノタウロスの巨体が、わずかによろめく。
「今……!」
ルナは立ち上がり、震える腕を前に突き出した。
「アクア・テラ(水矢)!! これで、とどめぇえ!!」
空中に、水の矢が無数に形成されていく。
青白い光を帯びた矢が円を描くようにミノタウロスを囲み――一斉に放たれた。
無数の矢が、雨あられとミノタウロスに降り注ぐ。
水飛沫と衝撃音が広間に鳴り響き、視界を白くかき乱した。
「これで……倒れて……はぁ……はぁ……」
肩で息をしながら、ルナは結果を見届けようと目を凝らす。
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「リノアさん!! ポーションをゼーラさんとレリアナさんに!!」
駆け寄ってきたラセルが声を張る。
「あ、ありがとう……」
リノアは汗で乱れた髪をかき上げながら、震える手でポーションを受け取った。
「リノアさん……!! 大丈夫か!? もうマナが……」
「大丈夫……だから……。アークとルインがあと少しで治るから……。大丈夫……はぁ……はぁ……。ラセル……ルナとアデルも援護を……」
「わかった……!!」
ラセルは勢いよく頷く。
その瞬間――。
爆音とともに、何かが吹っ飛んできた。
「アデルさぁああん!!」
床を転がったのはアデルの体だ。血を撒き散らしながら、何度も床を跳ねる。
慌てて視線を向けると、そこにはルナとミノタウロスがなおも激しくやり合っていた。
アデルはよろけながら立ち上がり、ルナに向かって叫ぶ。
「ルナ……逃げろ……!」
だが言葉の最後は、喉の奥で血と一緒に潰れた。
口の端から、またしても赤い液体が溢れ落ちる。
「アデル……さん……その血の量……。リノアさんの所かセレスティア様の所で回復魔法を……」
「いらねぇ……」
アデルは、短く、吐き捨てるように言った。
そして、ふらふらとしながらもミノタウロスの方へと歩み出ていく。
その間にも、ルナの放ったアクア・テラが炸裂し続けていた。
激しい音が連続して鳴り、粒子状になった水が白い霧となって広がる。
「ルナちゃん!!」
ラセルが叫ぶ。
ルナは先程の大技で体の芯からマナを削られ、
膝を震わせながらも、かろうじて立っていた。
「ヴァアアアアアア!! ヴァアアアアアア!!」
ミノタウロスの雄叫びが霧を切り裂く。
水矢をまともに受けているはずなのに、その咆哮には、まだ力がありすぎた。
巨躯が霧の中から現れる。
わずかに傷は増えている。だが、致命傷には程遠い。
「そんな……」
肩を上下させながら、ルナは顔を歪める。
ミノタウロスは、ルナめがけてゆっくりとナタを持ち上げる。
「ルナちゃん!! フォルマ・エンシス(火剣)!!」
ラセルは踵を返し、全力で駆けた。
炎を纏わせた剣を握りしめ、ルナに辿り着く寸前、振り下ろされるナタを真っ向から受け止める。
「フォルマ・スキント(火花)!!」
炎の魔法が重ねて発動し、小さな爆発がミノタウロスの腕と顔面のあたりで弾ける。
しかし巨牛の動きは一瞬も鈍らない。
ナタの連撃が、嵐のようにラセルへと襲いかかった。
「くそ……こいつ……どんどんナタを振るスピードが速くなってる……!」
剣で受けるたびに腕が痺れ、骨が軋む。
受け止めるので精一杯で、とても反撃には移れない。
その時、別方向から火の棘が一斉に飛んできた。
細い炎の槍が無数に現れ、ミノタウロスに向けて一直線に殺到する。
「今のは……」
ラセルがちらりと後ろを見ると、そこには扇子を閉じたセレスティアが立っていた。
「なにをモタモタしてるのかしら……。貴方は下がってよろしくてよ。この躾のなってない牛は、私が相手しますわ」
挑発的に顎を上げると、ラセルの肩を軽く押して前線から下げる。
ラセルはその隙にルナを抱え、アデルのところまで退避した。
ミノタウロスの照準は、今度は完全にセレスティアへと向けられる。
「フォルマ・ドゥプレクス(二火球)」
炎の塊が二つ、轟音とともにミノタウロスへ突っ込む。
しかし黒いナタが、それらを両断する。
爆風と熱が吹き荒ぶ中、ミノタウロスは一歩も退かない。
「それなら……!! フォルマ・コロナ・ミノル(広がる火)!!」
セレスティアの足元から炎が広がり、床一面を紅く染める。
ミノタウロスの脚を炎が舐め上げ、燃え広がっていく。
だがやはり、歩みは止まらない。
「本当に、しつこいですわね……!」
迫ってくる巨躯を、セレスティアはドレスの裾を翻して紙一重でかわす。
すれ違いざま、炎の棘を生成し、側面から打ち込んでいく。
だが手応えは薄い。
ミノタウロスは突進のリズムを何度も変えながら、ひたすらセレスティアを狙い続ける。
何度か読んだと思った瞬間――。
突進から、急に鎖付きのナタ攻撃へと切り替わった。
「そんな……!」
セレスティアは後ろへ跳び退く。
しかし、ミノタウロスはナタを手放し、そのまま鎖を鞭のようにしならせた。
伸びた刃が、彼女の回避の軌跡を追いかけるように迫る。
「避けきれない……!」
鋭い痛みが腹部を横切った。
「ううぅ……ぐっ……」
鮮血が飛び散り、セレスティアの体がその場に崩れ落ちる。
床に赤い花が咲いたように血が広がっていく。
ミノタウロスは、ゆっくりと彼女に近づいていった。
冷たい目で、虫けらを踏み潰すような足取りで。
朦朧とする意識の中、セレスティアの視界に、ひょこっと小柄な影が割り込んだ。
「姐御!! これ、飲んでくれ! 元々姐御のだから!!」
トンが、震える手でポーションを差し出す。
「トン……逃げ……なさい……。私、セレス……ティアの命令よ……逃げて……」
血で掠れた声で命じる。
「姐御、カンとコンまだ気絶してっけど、なんとかなりそうだ。姐御を置いて逃げるなんて出来ねぇよ。オイラがあのミノタウロスをぶっ倒すから、そこで見ててくれ」
トンはハンマーを構える。しかし腕は震え、手首にはまともな力が入っていない。
「トン……逃げて……っ」
セレスティアは震える手でポーションを掴み、無理やり喉へ流し込む。
少しでも体が動くようになれば、トンを助けられるかもしれない――その一心で。
ミノタウロスは、一歩、一歩と近付いてくる。
その巨大な影が二人を覆いかけた――その時。
「アネマ……はぁ……はぁ……」
背後から、荒い息と共に魔法の詠唱が聞こえた。
リノアの放った風が、鋭い弾丸となってミノタウロスの背中に命中する。
吹き飛ばすほどではないが、巨体の肩がわずかに揺れた。
ミノタウロスは、セレスティアを視界から外し、くるりと向きを変える。
その視線の先には、杖を握りしめ、今にも倒れそうなリノアの姿。
「なんで……リノアの方へ行くの……」
セレスティアは歯を食いしばりながら、これまでの戦闘を頭の中で巻き戻す。
誰を狙ってきたか。いつ標的を変えたか。
――すべて、「魔法を撃った者」だった。
「魔法を撃った者を、狙って攻撃してる……」
今だって、自分を殺せたはずなのに、背中に魔法を撃ち込んだリノアの方へ行った。
理由はそれだけ。
ミノタウロスの中にある、単純で、しかし絶対の優先順位。
「(やっぱり……魔法……)」
セレスティアは崩れた瓦礫に背を預けると、息を荒げながらも、意識を手放すまいと爪を立てた。
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リノアのマナも体力も、底をつきかけていた。
アデルは再び気を失っており、さっきかけたヒールも焼け石に水だった。
それでも、立たなければ。
「――フラッゲルム(風鞭)」
リノアは風の鞭を創り出す。
青白い風が絡み合い、一本のしなやかな帯となって腕に巻き付く。
先に動いたのは、彼女だった。
リノアは駆け出し、風の鞭でミノタウロスの肩や腕を打ち据える。
ミノタウロスもナタでそれを捌き、火花と風圧がぶつかり合う。
互いの攻防が、何度も交錯する。
ミノタウロスが一歩踏み込んだ瞬間、
リノアは床に向かってアネマを放ち、自身の足元に突風を噴き上げさせた。
ふわりではなく、弾丸のように――。
「!」
風に押し上げられるようにして、リノアの体は高く跳び上がる。
天井近くまで到達し、その落下の勢いを全て――。
「アネマ・フルゴル(瞬風衝撃)!!」
頭上から、圧縮した風の塊をミノタウロスの頭上に叩き込む。
だが、ミノタウロスはナタを盾のように掲げ、その衝撃を弾き返した。
衝撃波が広間を揺らし、天井の石片がぱらぱらと降ってくる。
着地したリノアは、すぐさま風の鞭をミノタウロスの足に巻き付けた。
「倒れて……!」
手前に引き寄せて転ばせようとするが、逆にミノタウロスが前に突進する。
想定外の力がかかり、リノアの体がぐいっと前に引きずられた。
「うそ……っ」
間一髪で鞭を解いて横に飛ぶ。
すれ違いざま、ミノタウロスの角が髪をかすめ、頬に薄い傷をつけた。
頬からつうっと血が伝う。
さっきのフルゴルで致命的にマナを削った。
体の奥底から、空っぽな感覚が這い上がってくる。
「もう……マナが……」
足元がふらつく。
視界の端で、アデルがまた咳き込み、赤いものを吐き出しているのが見えた。
ルナはラセルに支えられながら、どうにか立っている。
ゼーラとルインはまだ横になったままだ。
セレスティアは瓦礫に背を預け、腹部の血を押さえながら息を荒げている。
レリアナはまだ目を閉じており、アークはようやく上体を起こしているところ。
――戦えるのは、ほとんど、もう自分だけだ。
「クッソ……体が動かねえ……。リノアを援護しねえと……」
かすれた声が聞こえた。
振り向くと、血塗れのアデルが、壁に手をつきながら立ち上がろうとしていた。
「アデル少年……はぁ……はぁ……。あんまり無理しちゃ、だめだよ……」
ルナが必死に止めようとする。
「そうだよ……アデルさん……僕が……リノアさんの援護して、そのままミノタウロス倒すぜ……」
ラセルも剣を杖のようにして立ち上がり、震えながらも前に出ようとする。
「なに言ってんだ……ラセルゥウ……っ、はぁ……はぁ……。お前……ボロボロだろっ!! 下がってろ、オレがあの牛野郎を潰す……」
「アデルさんが、僕よりボロボロだよ……。だから僕がいく……。ルナちゃん……援護できる? ……これで決着をつける」
ラセルの瞳には、恐怖と決意が同居していた。
「ラセル……頼もしくなったね〜……にゃはは〜」
ルナは息を切らしながらも、いつもの調子を崩さずに笑ってみせる。
ラセルとルナは、同時にミノタウロスへと視線を向けた。
「おい……ラセル……っ、はぁ……」
アデルの胸の奥で、言葉にならないモヤモヤが膨れ上がる。
怒りとも不安とも違う、何か焦燥じみた感情。
ラセルは振り返り、アデルに向かってガッツポーズをして見せた。
「僕が復活したぜぇ!! フィルマ・ラメナ(飛火)!!」
火の粒がラセルの剣先から飛び出し、矢のようにミノタウロスの体に突き刺さる。
小さな爆発がいくつも起こり、赤黒い毛を焦がした。
「ラミーナ!!」
リノアも間髪入れず、風刃を飛ばす。
刃状の風がミノタウロスの皮膚を切り裂いていく。
しかしミノタウロスは、リノアを完全に無視し、ただラセルを狙って突進してきた。
その頭上に、小さな水滴の塊が何発も命中する。
「アクア・グッタ(水滴弾)……ラセルを援護しないと……」
ルナの声はかすれているが、その瞳はまだ死んでいない。
動きがわずかに鈍ったミノタウロスを、ラセルは見逃さない。
一気に間合いを詰め、炎を纏った斬撃で全身を切り刻む。
「フォルマ・スキント(火花)!!」
斬撃のたびに小爆発が起こり、赤黒い皮膚が焼け焦げていく。
ラセルの攻撃が腹部に当たったとき、ミノタウロスが低く唸り声を上げた。
そこには、腹部の魔石。
今までの攻撃でかなりのダメージが蓄積しており、ミノタウロスの動きは明らかに鈍り始めている。
ラセル、ルナ、リノア――三人は、これが最後の好機だと直感した。
「ラミーナ!!」
リノアの風刃が、ミノタウロスの肉を容赦なく削いでいく。
「その魔石を破壊する!! フォルマ・スキント!!」
ラセルの炎が、腹部の魔石に直撃する。
ミノタウロスの周りには、今度は水の矢が現れた。
ルナの魔法だ。
矢は一斉にミノタウロスへと殺到し、全身を貫いていく――。
だが。
「やっばい……もう攻撃するのかよ!!」
ラセルが息を呑む。
ミノタウロスはなおも立ち続けていた。
赤い瞳に、今度こそ純粋な殺意だけを宿して。
ナタが再び振るわれる。
ラセルは火剣でその軌跡を受け止め続けるが、腕は限界に近づいていた。
リノアも魔法を撃とうとした瞬間、軽い眩暈に襲われ、その場に膝をつく。
「マナが……っ……」
視界が揺らぎ、身体が鉛のように重い。
ラセルはそれでも歯を食いしばり、ミノタウロスの猛攻を防ぎ続ける。
「このままじゃ……体力が持たない……。ルナちゃん!!」
ラセルは喉が裂けるほどの声で叫んだ。
「僕がミノタウロスの攻撃を防ぐから、その隙に最大の魔法を打ち込んでくれ!!」
「ラセル……わかった!! 絶対やられないでね!!」
ルナは震える指先で、再びマナを集め始める。
空気中の水分が、彼女の周りに吸い寄せられていく。
その動きを――ミノタウロスは見逃さなかった。
巨体が、ルナめがけて地面を蹴る。
「させるかぁあ!! 牛頭!! フィルマ・スキント!!」
ラセルの火花が弾け、ミノタウロスの側面を爆ぜさせる。
だが、それでも止まらない。
狙いをルナからラセルへと変え、
ナタを思いっきりラセル目がけて振り下ろす。
「受け止めてやるぅう!!」
ラセルは両手で剣を握りしめ、全体重を乗せて受け止めようとした。
――バキィ。
嫌な音が広間に響く。
剣が、粉々に折れた。
そのまま、ナタはラセルの肩口から腹にかけて斜めに深々と食い込んだ。
「え……」
アデルは、言葉を失った。
ラセルの体が、ずるりと崩れ落ちる。
床に叩きつけられた肉体から、温かいものが溢れ出て石床を赤く染めていく。
「ラセルゥウウウ!!! アクアァアア・オルビスゥウウウ!!」
ルナの絶叫と共に、水球が三つ、ミノタウロスに向かって飛ぶ。
しかし、ミノタウロスは横に跳んでそれを避け、そのままルナの首元をわし掴みにした。
「ぐっ……っかは……」
ルナの足が宙を泳ぐ。
リノアはすぐさまミノタウロスの手首に向かって風刃を放ち、
血が飛ぶほどの傷を刻むが、ルナを離すには至らない。
魔力を絞り出したせいで、リノアの体に、急激な疲労が押し寄せた。
視界が暗転し、再びしゃがみ込む。
「やめろぉぉおおお!!」
アデルの叫びが、広間の空気を震わせた。
しかしミノタウロスの指は、ゆっくりと、だが確実に閉じていく。
ルナは爪で腕を引っ掻き、必死にもがくが――。
最後に、ぐっと力が込められた。
嫌な音が、骨の軋む音が響く。
ルナの首が、不自然な角度に折れた。
そして、もう抵抗しない体を、ミノタウロスは床に叩きつける。
鈍い音が、心臓を殴られたみたいに響いた。
「ヴァアアアアアアアアアア!!」
ミノタウロスは勝利を宣言するように、狂ったような雄叫びを上げる。
ラセルは体を二つに斬られ、
ルナは首をへし折られ、床に打ち付けられている――。
「ルナ……ラセル……」
アデルは、その惨状を目の当たりにしながら、震える唇で呟いた。
「守れなかった……オレは……また……守れなかったのか……」
胸の奥に、古い傷がえぐられる。
ジートの姿が、血にまみれたあの日が、鮮烈に蘇った。
――また、繰り返した。
「ルナ……ラセル……」
リノアの瞳から、大粒の涙が次々とこぼれ落ちる。
ここまで一緒に旅をしてきた仲間。
これからも一緒に笑い合って、喧嘩して、未来に進んでいけると、信じて疑わなかった仲間。
「私たちは、みんな死なないって……勝手に思ってたのに……」
セレスティアも、朦朧としながらその光景を見ていた。
もう立ち上がれない。
今、辛うじて意識があるのは――リノアとアデル、自分とトンだけ。
アデルの体はボロボロ。何本も骨が折れているのは見ただけで分かる。
トンも黙っているが、息をするだけで肋が痛むはずだ。
自分とリノアも同じ。
マナも、もうほとんど残っていない。
――試練に、失敗した。
そう思うしかない状況だった。
ミノタウロスは、今度はリノアへと向かって歩き出していた。
一歩、一歩。
その足音が、やけに大きく響く。
リノアは、もう動けなかった。
足が言うことを聞かない。
立ち上がることも、横に転がることすらできない。
ミノタウロスを見上げる。
ルナとラセルの仇を取りたい。
でも、今の自分には、風の一陣すら起こせない――。
「ごめん……」
仲間の死。
自分への悔しさ。
無力感と恐怖がぐちゃぐちゃに混ざって、涙が止まらなかった。
ミノタウロスがナタを振り上げる。
リノアは目を逸らさなかった。
最後までこの敵だけは、見届けようと思った。
ミノタウロスが、薄く嗤ったように見えた瞬間――。
その背後から、空気が変わった。
「……っ」
ミノタウロス自身が、初めて足を止める。
背中越しに、氷のような殺気が、鋭い刃となって突き刺さる。
今まで感じたどんな魔力の圧よりも、狂暴で、生々しく、そして冷たい。
振り向いた先――そこには、立っているはずのない男がいた。
全身血塗れで、骨のきしむ音さえ聞こえてきそうなほど傷だらけの少年。
さっきまで動くことすらできなかったはずのアデルが、まっすぐ立っていた。
その殺気を、レリアナたちも感じ取っていた。
そのおかげで、意識を無理やり浮上させる。
「あたし……どれくらい気絶してたの……」
レリアナは額に手を当てながら、ふらふらと体を起こす。
「……チッ。この殺気はなんだ?」
アークも顔をしかめ、アデルの方へ視線を向けた。
セレスティアは、目を見開いた。
「う、嘘……。もう立てないはずの体だったはずですのに……。なのに……しっかり、立ってる……」
「あ、姐御……あのアデルってやつ……すっごく怖い……。あいつに一体何があったんだよ……」
トンが震える声で呟く。
「わ、わからないですわ……」
ゼーラもまた、意識を取り戻していた。
最初はなぜ天井が見えるのかとぼんやり考えていたが、
ミノタウロスの攻撃を受けたところまで思い出し、上体を起こして周りを見た瞬間――。
床で、動かないラセルとルナの姿が目に入った。
喉から、言葉が消える。
瞳から涙が溢れ、止まらなくなった。
「オレはジート守れなかった……。ラセル、ルナも……守れなかった……。友達を守る事ができなかった……。オレは弱い……。お前はなんで、オレの仲間を殺したんだ……?」
アデルはうなだれていた顔を、ゆっくりと上げた。
ミノタウロスが再び突進しようとした、その瞬間――
アデルの姿は、そこから消えていた。
「……!?」
ミノタウロスが横を見やる――視界いっぱいに、足先と靴底が迫る。
顔面に、蹴りが叩き込まれた。
鈍い衝撃と共に、巨体が横へと吹き飛ぶ。
床を抉りながら転がり、石柱に激突して、ようやく止まった。
「殺す……殺す……」
アデルの声は低く、熱を帯び、しかし氷のように冷たかった。
その目の奥には、炎が宿っていた。
憎悪と、悔恨と、どうしようもない自己嫌悪が、ぐちゃぐちゃに燃え上がっている。
それでも視線は、ただ一点――ミノタウロスだけを見据えていた。
広間の空気が、変わった。
誰もが、本能で理解した。
――ここから先は、もう「試練」なんかじゃない。
ただ一人の少年と、一体の怪物との、殺し合いだ。
本日も見てくださりありがとうございます




