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第九十七話 旅立ちの選択

騒がしかった森が、静かになった。


黒禁領域ヴェルミナ・フォレストは、もともと音の少ない森だ。

風は通る。葉も揺れる。枝も軋む。けれど、それら全部を含めてもなお、この森の静寂にはどこか“生き物の気配が薄い”冷たさがある。


だが、今の静けさは――それとも、明らかに違った。


風が止まったわけじゃない。

木々が眠ったわけでもない。

それなのに、森の奥に満ちていたあの張りつめた圧が、すっと消えている。


まるで。


何か巨大なものが、たった今、終わったあとの静けさ。


そんなふうにしか思えない、不自然な静寂だった。


「……森が静かになりましたね」


窓の外を見たまま、モッカがぽつりと呟く。


その声に、リノアははっと顔を上げた。


「うん……なんか……さっきまでと違う……」


胸の奥がざわつく。

さっきまで確かにあった“圧”のようなものが、嘘みたいに薄れていた。


代わりに残ったのは、言葉にできない不安と、ほんの少しの期待。


アデルは。

ケイラは。

どうなったのか。


「……どうなったのかな……」


こぼれた声は、思っていたよりもずっと小さかった。


モッカは答えない。

ただ静かに、森の奥へと視線を向け続ける。


その時だった。


遠くから、かすかに。


バキッ。


何か大きなものが折れる音がした、次の瞬間――魔女の家の扉が勢いよく開いた。


「リノアぁあああ!!」


その声だけで、リノアは椅子を蹴るように立ち上がっていた。


「アデル!?」


飛び出した先で、最初に目に飛び込んできたのは――血と土と、まだ消えない竜の匂いを全身に纏ったアデルの姿だった。


ぼろぼろだった。


服は裂け、腕も頬も傷だらけ。

脚取りだって決して軽くない。立っているのが不思議なくらい消耗している。


それなのに。


その目だけは、今まで見たどんな時よりも強く、熱く、ぎらぎらと光っていた。


「……ぶっ倒したぜぇ」


アデルが、歯を見せて笑う。


その笑みは痛々しいほど消耗しているのに、それでも勝者の顔だった。


「あのクソ竜、オレがぶっ潰したぁ!!」


リノアの胸が、どくん、と大きく鳴る。


「ア、アデルさん! 走るの速いでっす……! 無理しちゃダメでっす!」


「アデル!! すごい!! すごいよ!! アデル!!

それより怪我が酷いから早く座って!!」


リノアは駆け寄るなりアデルの腕を引き、半ば無理やり椅子に座らせた。

そのまま両手をかざし、急いで回復魔法を流し込む。


やわらかな光が、アデルの裂けた皮膚や打撲の跡を包み、じわじわと傷を塞いでいく。


「アデルさん、よく頑張りましたね。私の勘、当たりましたよね」


モッカの表情は木でできているせいで変わらない。

それでもその声音には、確かな安堵があった。


「アデルさんすごいでっすよ!! 竜の動きが分かってるみたいに避けてたんでっす!」


「ええ!! アデル、そうなの!?」


「ああ。なんか集中したら、青白い煙みてぇな線が見えてな。クソ竜はその線を辿るように攻撃してくるんだよな。ま、絶対ではねえけどなぁ!」


「アデルさんが見たのは、攻路(こうろ)ですね」


「モッカ! なんだその攻路ってのわ!!」


モッカは静かに説明する。


「攻路とは、多くの実戦を潜り抜けた者が辿り着く、“相手の動きを先読みする力”です。龍極者や五つ星プレートの者たちは、皆それを扱えます。……あ、龍極者は攻路の、さらにその先の領域ですが」


「おい! この力の上があるのかよぉ!!」


「はい、あります。ですがアデルさんは、まだまだそこには達していません。修行あるのみですね」


「はあ!? 強くなるんだったらどんな修行もやってやらぁあ!!」


アデルが回復の光の中で吠える。


その勢いに、リノアは思わず笑いそうになった。

けれど、ふと自分の胸に残る重さを思い出し、その表情を曇らせる。


「アデル……すごい……。でも……わたしはまだ、マナフィールが……」


言いかけた時だった。


ふいに、右手があたたかくなる。


見ると、ケイラがそっとリノアの手を握っていた。

オレンジと青のオッドアイが、まっすぐリノアを見上げている。


「リノアさん、大丈夫でっす! だから自信持って欲しいでっす!」


「ケイラ……ありがとう……」


モッカがリノアの方へ歩み寄る。


「ではリノアさん。明日、もう一度マナフィールを試しましょう」


「うん! ……絶対成功させる!!」


その返事を聞いて、アデルがふっと笑った。


「なあリノア。明日でオレ達もこの森から出てくぞ。オレの修行も終わったし、塔の攻略をそろそろしねえとな」


その言葉に、ケイラの耳がぴくりと揺れた。


「え……アデルさん……リノアさん……行っちゃうんでっすか?!」


「アデル! わたし……まだ成功できるか……」


不安がそのまま零れたみたいな声だった。


だがアデルは、間髪入れず言い切る。


「リノア!! 自信持て!! おまえならできる!!」


「なんでそんな……言い切れるの……。わたしだけ……まだまだ弱いよ……」


「馬鹿かお前」


アデルは、呆れたように鼻を鳴らした。


でも、その眼差しは真っ直ぐだった。


「リノアが弱いんだったら……オレはどうなんだよ。ぶっちゃけ、オレもリノアに抜かれねえように今も必死なんだよ! それによ、今までの旅でリノアには何度も助けてもらってる。リノア! お前は強い! だから出来る!! 自信持て!!」


リノアは息を呑む。


茶化しも、からかいも、勢い任せの適当さもない。

それはアデルが初めて、真正面からぶつけてくれた本気の言葉だった。


胸の奥で、何かが熱くなる。


「アデルも……必死だったんだね……」


そして、きゅっと拳を握る。


「よし! 明日成功させる! 失敗しても何度でも挑戦する!!

アデル!! 明日この森を出よう!!」


「ああ。オレ達の願いを叶える為に!! ……って事でモッカ、ケイラ。急でわりい……オレ達、明日ここ出発するわ!」


「本当に急ですね……。でも、アデルさんとリノアさんの修行は、この一年でかなり進みました。丁度いいかもしれませんね」


「ケイラ! 急にわりいな! オレ達は旅の続きの途中だからな……」


ケイラは小さな手を胸の前でぎゅっと握る。


「アデルさん……リノアさん……でももうちょっといても……。

お二人ともしっかり体を休めてから旅出た方がいいと思うでっす……。

ワタシ、もっと美味しい魔物の肉とってくるでっす!! だから、その……」


言葉が続かない。


そんなケイラを見て、リノアはそっと身体を寄せ、優しく抱きしめた。


「ケイラ、ありがとう……。でも、わたし聖女だから……だから塔攻略しないと……なんだ……」


「ケイラ……寂しい気持ちは分かります。わたしも寂しいです」


モッカが静かに続ける。


「ですが、いつか来る事です。私達はアデルさんとリノアさんが、無事に旅を終えられるように見送りましょう。……ね、ケイラ」


「う……うん……。わ、わかった……」


そう答えたものの、ケイラの声は震えていた。


そのまま、ケイラは顔を伏せ、部屋の奥へ走っていってしまう。


「アデルさん、リノアさん、ケイラがすいません……」


「全然いいよ……。わたしも寂しいから……」


リノアもまた、少しだけ目を伏せた。


「でもケイラの奴、外の世界に興味ありそうだったから一緒に行こうって誘ったけど、断られたんだよなぁ」


その時、モッカが一歩前へ出た。


木でできた顔に表情はない。

それでも、その佇まいにははっきりとした意志が宿っていた。


「あの、リノアさん、アデルさん。私の頼みを聞いてくれますか?」


「頼み?」


「モッカ、どんな頼みなの? わたし達に出来るかな?」


ほんのわずかな間を置いてから、モッカははっきりと言った。


「ケイラを……ケイラを、一緒に連れて行ってあげてくれませんか!!」


「……は?」


アデルの声が間抜けに漏れる。


リノアもきょとんと目を瞬かせた。


「ケイラを……? でも、前に断って……」


「ええ。ですが、あの子は本当は外の世界に憧れています」


モッカの声音が、静かに深くなる。


「ケイラはこの森で長く暮らしてきました。グラヴェル様に拾われ、この家で育ち、私と共に過ごしてきました。ですが……それだけです」


「それだけ……?」


「はい。外の空、外の街、人の笑い声、賑やかな市場、旅人の話、食べたことのない料理、見たことのない空模様……そういうものを、あの子は本の中でしか知りません」


モッカは窓の外へ視線を向ける。


黒い森。

閉ざされた領域。

世界のすべてではない場所。


「お二人と出会ってから、ケイラは本当に楽しそうでした。肉の話、街の話、旅の話、塔の話……目を輝かせて聞いていました」


リノアは思い出す。


外の世界の話をするたび、きらきらした目をしていたケイラ。

アデルの雑な武勇伝にも目を丸くして笑っていたケイラ。

未知の話を聞くたび、尻尾が正直に揺れていたケイラ。


「ですが、あの子は優しい子です。私を置いていけないと思っているのでしょう」


「モッカ……」


「だから私からお願いします。ケイラを、この森の外へ連れ出してあげてください。あの子に、もっと広い世界を見せてあげてください」


木の身体が、深く頭を下げる。


「私はこの家を守らねばなりません。ここに残ります。ですが、ケイラは違う。あの子はまだ若い。これから、沢山の景色を見るべき子です」


アデルは腕を組み、少し眉をひそめた。


「でもよ、旅ってのは遊びじゃねえぞ? オレ達、これから塔に挑みにいくんだ。死ぬかもしれねぇ。危険だぞ」


「承知しています」


モッカは、即答した。


「それでも、ここに閉じ込めておく方が、あの子の為になるとは思えません。危険があるからこそ見える景色もある。出会える人もいる。そして.....変われる心もある」


「……」


「アデルさん。リノアさん。どうか、あの子に“選ぶ機会”を与えてください。行きたいのに行けない、ではなく、自分で決められるように」


部屋の中に、短い沈黙が落ちる。


リノアは、そっとアデルを見る。


アデルは頭をがしがし掻いて、ふんと鼻を鳴らした。


「オレは別にいいぜ。ケイラがついて来てえならな」


リノアの顔がぱっと明るくなる。


「わたしも! ケイラが来てくれるなら嬉しい!」


「ありがとうございます」


モッカは、もう一度深く頭を下げた。


その時だった。


奥の部屋の扉が、ほんの少しだけ開いていたことに、誰も気づいていなかった。


その隙間の向こう。


狐耳の少女が、両手で口元を押さえたまま、じっとこちらを見ていた。


瞳は揺れていた。

尻尾も落ち着きなく震えていた。


寂しさ。

戸惑い。

怖さ。

そして――それらを全部押しのけるほど強い、どうしようもない希望。


その小さな胸の奥で、何かが大きく動き始めていた。


黒禁領域ヴェルミナ・フォレストの静かな家の中で。


新しい旅立ちの気配が、確かに生まれようとしていた。

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