1.逃亡
ガラガラと音が鳴り響く。その音と共に体は揺さぶられ飛び跳ねる。
な、何事ですかっ。わたくしはベッドに寝ていたはずです。ここはどこっ。
「ニコレット、ニコレット?」
「お嬢様っ、お休みの所を申し訳ございませんっ。伯爵様の命令ですっ。お嬢様を安全な所にと、」
安全? いつものあの部屋は安全ではなかったというの?
『危険を避けるために人には合わせられない』と、お父様お母様に聞かされていたその危険が迫っているというのですか。
「お父様の元へ行くのですか。」
「いえっ、私達はこのまま東の国境を越え山間部を抜けますっ。」
東の山々を越えるとなればヴァランティーヌ教国のはずです。女神ヴァランティーヌ様を奉る大神殿があると本で学習をしました。
そのヴァランティーヌ大神殿に助けを求めるという事でしょうか。
人に会うと危険だなんて、そんな事言われても何が危険なのか知らされていませんし、今もどんな危険が迫っているのか、全くわかりません。
わたくしはライオネット辺境伯家の長女、ヴィヴィアン・ライオネット。8歳なったばかり、先日お父様とお母様が私の部屋を訪れて誕生日を祝ってくれました。
他には身の周りの世話をしてくれる侍女のニコレット、勉学とマナーを教えてくれる執事のテオドール。それ以外の人にはあった事がありません。
自分がどこに住んでいるのかさえもわからないのです。でも、至れり尽くせりの生活に不便など感じず、不満を抱く事もなかったのです。
この小さな世界でずっと平和に暮らしていくんだと思っていました。
「それがががががが、な、なななななんなんですかかかかか、ここここれれれはははは、」
馬車なんて本で見た事はあったけど、こ、こんなに揺れる物なんですかっ。
「うっ、おっ、おぇ~~~~~」
「お嬢様っ、大丈夫ですか。」
ニコレットが揺られてる私を抱え上げてくれます。そのおかげか馬車の揺れが少なくなったようです。でもお腹の中の熱い物が、まだこみ上げてきます。
「おぇ~~~~」
また何か出ちゃいました。ニコレットの服もわたくしの服もべちゃべちゃに汚れてしまっています。それよりも・・・・・ く、苦しい、
「わ、わたくしは死んでしまうのでしょうか。」
「苦しいかもしれませんが死ぬような事はございません。ご辛抱ください。」
ひとしきり走り続けた馬車が止まり、御者が降りて馬車の扉を開けてくれます。御者はテオドールでした。
ニコレットに抱かれたままのわたくしは動く事もできず、抱かれたまま馬車を降ります。
「テオドール様、まずはお嬢様のお召し物を着替えさせてください。」
「用意はできているはずだ。すぐに家の中へ、私は馬車を小屋の中へ隠したらすぐにいく。」
「その馬車は私が乗って南に向かいます。テオドール様は小屋の幌馬車で東へ向かってください。」
家の中から出てきた人がテオドールに伝えています。初めて見る人です。
「そうかっ、頼む。」
「どうぞっ、こちらへ、早くっ。」
家の扉を開いておばあさんが手招いています。わたくしを抱いたままニコレットが扉に駆け込みます。
「お嬢様のお召し物は用意できていますかっ。」
「はい、こちらに、その前にニコレット様が先にお着替えをなされた方がよろしいですね。お嬢様のお着替えは私が致しましょう。」
自分の身なりを見たニコレットがうなずいて、わたくしをソファーに横たえます。
「お願いします。
お嬢様、すぐに着替えてまいります。しばしお待ちを。」
おばあさんの手でわたくしの汚れた服が脱がされて、濡らした布で汚れを拭き取ってくれます。
馬車に揺られ続けた疲労と吐き気で体を動かす事もできず、おばあさんになすがままにされています。
着替えを終えたニコレットが戻ってきました。
「ニコレット、その服はどうしたのですか?」
「平民の服装で国境を越えます。乗り物も幌馬車を用意してあります。ヴァランティーヌ大神殿への参拝は平民にも許可されておりますので、止められる事はありません。」
わたくしもいつものヒラヒラしたお洋服から飾り気のない服に着替えました。悪くないですね。平民とはこのように機能的なお洋服を着るのですね。ちょっと肌触りがゴワゴワしますけど。
扉が叩かれます。
「ニコレット、着替えは終わったか。」
「はい、もう入ってもよろしいです。」
入ってきたテオドールが皆の前で着替え始めました。
「テオドール様、女性ばかりの前で失礼ではないですかっ。」
「急いでいるのだ。着替えながら説明させてくれ。まず、ここへ我々が来るのを知らせた者は、もうすでに我々の馬車で南へ向かった。幌馬車には必要な物は用意できているようだ。後は藁と毛布を乗せていけば、お嬢様の乗り物酔いの軽減になるだろう。
ばあさん、馬には乗れるか。」
「はい、おまかせください。」
「知らせに来た馬が1頭残っている。ここでの我々の着替えた服を処分して、立ち去ってくれ。我々が乗ってきた馬車は南へ行ったから、北へ向かってくれ。」
「かしこまりました。」
着替え終わったテオドールが、ベッドの上の布団や毛布を掴んで飛び出ていきます。ニコレットが脱いだ服3人分全てを暖炉に放り込み、呪文を唱え着火させます。薪を放り込めばじきに燃え尽きてしまうでしょう。
わたくしはまたニコレットに抱きかかえられて幌馬車に乗り込みました。
本当はいやなのです。あの苦しみをまた味わうのかと思うと、もう馬車など乗りたくもありません。わたくしが過ごしてきたあの小さな世界に戻りたい。
でも、ここまで皆さんがわたくしのために一生懸命になってくれているのに、わたくしだけが我が儘を通す訳にはいきません。
我慢です・・・・・・・ でも、我慢できなかったら・・・・・ ごめんなさい、ニコレット。またお着替えが必要になるかも。
藁を敷いた上に毛布や布団を乗せ、そこに座ったニコレットの腕に抱かれて、馬車の揺れが押さえられています。これなら大丈夫そうです。
暗くなってきましたし、お腹も減ってまいりました。まだ馬車は止まらないのでしょうか。
「ハンター達が使う小屋が見えてまいりました。今夜はあそこで宿泊します。」
よかった、疲労で倒れそうです。今夜はぐっすり眠れそうです。
「お嬢様、このような状況です。食事はあまり期待しないでください。」
今日はやわらかいパンがあるけど、明日以降は日持ちのする固いパンしかないそうです。このパンは今日だけなのですね。しっかり味わって食べましょう。
「テオドール、わたくし達は何から逃げているのでしょう。」
ニコレットは目をそらします。テオドールは苦々しげに話し始めました。
「王族の血統には時折、全てを見通す黄金の瞳と輝くほどの銀の髪を持つ子供が産まれます。」
王国の成り立ちの本を読んだ事がありますから、そのぐらいの事はわたくしも承知はしています。
女神ヴァランティーヌ様が人としてご降臨なされ、エーヴェルト・デルヴァンクールと結ばれこの地に王国を築いた、それがデルヴァンクール王国の成り立ちとされておりますが・・・・・ そもそも女神様がそんな簡単に下々の者達の前に現れるのでしょうか。
真偽の程はわかりませんが、その女神様が金の瞳に銀の髪だったとされています。わたくしの髪と瞳がその金と銀に当てはまっている事も。
でも、わたくしが逃げなければいけない理由がその話につながるのでしょうか。
「奥様の血統を遡りますと6代前に公爵家までたどりつけます。お嬢様がわずかでも王族の血筋を引いておりますれば、その瞳と髪を持ってお生まれになる事も、稀な事ではありますが不思議ではありません。」
え? この国では銀の髪に金の瞳はわたくしだけなのでしょうか。
「ただ、近年王族に金の瞳に銀の髪の子が産まれておりません。
唯一候爵家で産まれた金の瞳に銀の髪の男の子を王家が取り上げようとし、拒否した候爵家が叛意ありとして潰されました。」
「そんな・・・・・ その子はどうなったのですかっ。」
「もちろん一族郎党と共に処分されました。お嬢様のお生まれになる3年前の事です。」
「・・・・・・ ひどい ・・・・・ まさか、わたくしの存在が人に知られれば同じ事が起きるという事ですか。いえ、こうして逃げ出したのはもうわたくしの事が知られたという事なのですね。」
「旦那様の話では、噂を聞きつけて王直轄の騎士隊が動いたようです。」
「待って下さい。それではわたくしが逃げてきた事でお父様とお母様は・・・・・ わたくしは戻りますっ。引き返して下さい。」
「それはできません。旦那様の意に背きます。騎士隊は確証もなく噂で動いているだけだから私の心配はいらない、とおっしゃっておりました。」
「そうですか。無事ならいいのですが。」
「それも、いるはずのないお嬢様が見つからない前提の話です。」
追っ手から逃げ回る生活が続くのですね。もうお父様やお母様には会えないのでしょうか。不安にかられて涙が止まりません。
馬車に揺られ続けた疲労で、ニコレットの腕の中で泣きながら意識を無くしました。
「お嬢様、朝でございます。」
ニコレットに揺り動かされて目が覚めます。まだ暗いじゃないですか。朝ではありません。もう一度毛布をかぶり直します。
「お嬢様、今日中に山越えをします。今から出ないと間に合いません。」
毛布にくるまったままのわたくしをニコレットが抱え上げ、そのまま小屋の外の馬車に乗り込みます。
テオドールは早くから出発の準備をしていたのでしょう。すぐに馬車は走り始めました。
馬車に揺られようやく目が覚めてきました。昨日の出来事は夢であればよいと思っておりましたが夢ではなかったのですね。
明るくなる頃には山中を馬車が進んでいます。昨日ほどの速度は出ていないようで、我慢できる程度の揺れですがなかなか慣れるものではありませんね。谷あいから山道を登り始め、今は断崖絶壁のような所を走っています。幌馬車なので絶壁側が見えていないのがせめてもの救いですが、ニコレットが常に後方を警戒しているので幌が開けっぱなしでずっと後ろの景色が丸見えです。
道が谷川に曲がっていたおかげで、私たちが通ってきた遠くの方に何か動く物が見えました。騎馬のようです。わたくしたちを追ってきているのか、単なる旅人なのか、ニコレットは見えていないのでしょうか。
「ニコレット、騎馬が走ってきています。」
「え? どこですか。」
やはり見えていなかったようです。わたくしは騎馬が走っている方角を指差します。
「確かに何か動く物が見えますね。お嬢様には騎馬に見えますか?」
「はい、6騎ですね。」
「テオドール様っ、6騎の騎馬に追われているようです。騎士隊でしょうか。」
「見間違いではないのか。」
「お嬢様には騎馬が見えているようです。私には何か動いているようにしか見えませんが、お嬢様の目を信じます。」
「ニコレット、替わってくれ。」
ニコレットが手綱を持ち、テオドールが幌馬車の後ろまで来て後方を確認します。
「確かに何か動いているのは見えますが、お嬢様には6騎の騎馬だと確認できるのですね。」
何故この二人には見えないのかしら。わたくししか見えていない? まさかあれは幻なのでしょうか。
「わたくしにだけ見えるという事は幻影なのでしょうか。」
「いえ、そうではありません。お嬢様が我々よりも遙か遠くを見通せる眼をお持ちなのだと思います。」
「わたくしにそんな能力があるのですか。」
「はい、そのようです。速度を上げます。揺れがひどくなりますがご辛抱下さい。
私が手綱を握る。ニコレットはお嬢様を頼む。」
「追いつかれるでしょうか。」
「この絶壁の道で追いつかれたら逃げ場がない。追いつかれる前に谷間の道まで降りられれば、馬車を捨てて山中を抜けよう。」
山の中へ入るだなんて、魔物とかいるのではないのでしょうか。魔物の本も読んだ事がありますし、襲われて食べられたりはしないのですか。
「あの・・・・・ 魔物とかは、」
「大丈夫です。この山中にいるぐらいの魔物なら、私達で倒せます。」
そんなに自信たっぷりに返事をされると、この二人がとても頼もしい存在に感じられるのですが、執事と侍女ですよ。大丈夫なのでしょうか。
テオドールが馬車の速度を上げているのですが、山の陰で見え隠れしていた騎馬の速度が上回っているようでじわじわと近づいてきています。
ニコレットにも追ってきているのが騎馬だと確認できたようで、わたくしの目の良さが証明されました。幻を見ていたのでは無くてよかったです。
いえ、この場合幻だった方が良かったのですね。このままでは追いつかれちゃいます。
突然のガキャッとかいう音が響き馬車が谷側に傾きます。ふわりと浮いたような感覚の後、ガガガガッという音と共に急制動が掛かります。
「車輪がはずれたっ!! ニコレットッ お嬢様をっ!!」
わたくしは床に叩きつけられニコレットに向かって転がっていきます。ニコレットは転がりながらも手を伸ばしわたくしを掴んで引き寄せてくれました。
ニコレットの腕に抱きしめられた今の感覚? 空中を浮遊しているような・・・・・?
いや―――――っ!! 落ちてるっ? 落ちてますっ 断崖絶壁を―――――っ!!