羨ましいです
俺は両手を広げて待ち構える勇希を前にして、なかなか動く事が出来なかった。
心臓は痛いくらいに脈を打っているし、脇や手のひらには変な汗をかき始めている。
短いのか長いのかもわからない沈黙に痺れを切らした勇希は閉じていた目をうっすら開けて俺を見た。
俺は意を決して、近づいた——
「すみません、菖蒲の配布はこちらですか?」
「はい! そうです!」
社務所の受付の外に立つ女性に声をかけられ、勇希はシュバっと音をたてて向きを変えた。俺の伸ばした手は虚しく宙を掻く。
菖蒲を受け取った女性を見送った後、勇希はバツが悪そうに頬をかいた。
「こんな人目のつくところでやる必要なかったな」
あははと笑いながら勇希が言った。その言葉に俺も我に帰り、つられて笑う。
「確かにな」
「でも、急どうしたんだよ。今までアレルギーを治したいなんて一言も言わなかったのに」
「それは……その、将来の事を考えて……?」
不意の質問に俺は少し動揺してしまう。
「はははは」
「わ、笑うなって!」
「今日の善、マジどうしたんだよ! 将来とか、わ、笑うしか、ははは! あははは、は、腹いてー!」
「……笑うなって」
「まぁ、なんだ。また今度、練習しようぜ」
勇希はそう言うと、俺に背を向けて仕事に戻った。
・・・
「リ、リズムちゃん、こんにちは」
リズムが境内の見回りをしていると、囁くようなか細い声が聞こえ、振り返った。
見ると、魚花がぎこちない笑顔を浮かべて小さく手を振ってた。
「魚花さん、こんにちは。魚花さんもお祭りを見に来たんですか」
「えっと、うおはアレを見にきたの……」
そう言って、魚花が指をさした先には立派な鯉のぼりが風に揺れているのがみえた。
「鯉のぼりですか?」
「う、うん。スケッチしたくて……。ここの鯉のぼりはとても立派で、なかなか家の近所では見られないものだから……」
恥ずかしそうにスケッチブックで顔を隠す彼女にリズムは興味津々な顔で近づいた。
「魚花さんは何故、絵を描かれるんですか?」
「え?」
「鯉のぼりの画像なら、ネットにたくさんあるのに何故わざわざ、ここに来て絵を描くんですか?」
リズムの質問に魚花はキョトンとした顔をする、そして少し考えてからゆっくりと口を開いた。
「思い出、かな……」
「思い出に残すなら、絵ではなく動画を撮ったほうが効率的ではないですか?」
「そ、それはそうかもしれないけど……。絵は、見て感じた雰囲気とかを、自分なりの色や形で表現出来て、た、楽しいし、後から見返した時に、その時の気持ちを思い出せるから……かな?」
魚花の声は段々と自信なさげに小さくなっていくが、リズムは気にせず質問する。
「魚花さんはこの景色をきれいだと感じるんですか? どの辺がそう感じさせるのでしょうか? 空と鯉のぼりの位置関係ですか? それとも目に映る色の数や比率でしょうか?」
「え、え、えっと、その、せ、説明するのは難しいので……リズムちゃんも絵を描いてみませんか?」
「私が?」
「絵を描く理由は人それぞれだから、リズムちゃんも絵を描いてみたら、ど、とうかなって思って……」
魚花に差し出されたスケッチブックを見つめたまま、リズムは感情もなく告げる。
「私は絵を描くという事は出来ないです」
「絵、苦手?」
眉尻を下げた顔で魚花はリズムを見上げる。
「苦手ではなくて……よく理解できなくて」
「絵は自己表現の一種だから、自由に描いていいんだよ。記憶に感情を乗せるって言うのかな?」
「記憶に感情をのせる?」
「あうぅ、説明が上手く出来なくてごめんなさい……」
魚花はしおしおと頭を下げた。
「いいえ、魚花さんの話はとても参考になりました」
「ほ、ほんと?」
「はい、魚花さんの感性や心情は私には無いものなので、とても——」
(うらやましい?)
ふと、リズムの頭の中で声がした。前にも誰かに同じような事を聞いた気がする。けれどそれはノイズのようなもので、彼女の記録にはない。
「羨ましいです。とても」
リズムはそれだけ言うと、またいつものように笑顔を見せた。
「そういえば、善さんもいらっしゃるんですよ。挨拶して行かれますか?」
「え、あ、ぜ、善くんに?……あ、ううう」
戸惑う魚花を他所に、リズムは視界の端で善の位置情報を確認する。
「社務所にいらっしゃるようですね! こちらです、ついてきてください!」
ずんずんと歩き出すリズムの後ろを、魚花は戸惑いながらちょこちょことついて歩いた。




