7. カフェーにて(後編)
振り返ると、お付きを連れた小柄な女性と数名の女給が口論をしてた。
「揉め事、でしょうか?」
「どうだろうな……ちょっと厄介そうな予感……」
浅葉が呟く。潮も堂々と野次馬になる気はないので、こっそりと様子を伺う。
渦中の女性は二十代半ば頃で、白のワンピースに黒いコートを羽織っていた。上着と揃いの黒のキャプリン帽を被っているため顔はしっかり見えないが、長い髪に高い鼻筋から美人そうな気配を感じた。
「この店はどうなっていますの!? わたくしは今日二階の個室に予約を入れていたはずよ!?」
「大変申し訳御座いません、あの……」
「できたばかりでとても良いと聞いて来たのに。気分が悪いわ。責任者はどこ!?」
予約で揉めているようだ。
女性は苛々と腕を組む。奥から支配人らしき男も出てきて、大揉めである。
支配人は下卑た笑みを浮かべて女性に腰を折る。
「お客様、申し訳御座いません。本日二階サロンは急遽陰陽寮の方々の貸し切りとなりまして……大変失礼ですが、一般の方は立ち入らせるなとのご命令で――」
「馬鹿にしているの?」
女性のスカートが揺らめく。いや、彼女の影が蠢いて女性のスカートを揺らしていた。
「分をわきまえなさい。わたくしもその陰陽寮の人間ですのよ」
女性の影から黒い塊が飛び出した。
それは空中で浮遊し、ゆっくりと融解して形作っていく。
「あー……やっぱり厄介事じゃん……」
浅葉がまた呟くのと同時に塊が人型になる。
黒の和服に黒の羽織、長い黒髪。全て黒尽くめの大柄な式神が現れた。
(黒い狐……?違う、犬の面だ)
式神は無機質な黒い犬の面を着けて、支配人を見下ろす。女給や他の客からも悲鳴が上がり、支配人は腰が抜けたようで床にへたり込んだ。
「あ、あ……これはこれは、式神遣い様でいらっしゃいましたか……!大変失礼を――」
「下賤な人間の言い訳なんて聞きたくないわ。……月影」
月影と呼ばれた黒の式神は無言で女性を見下ろす。
「少し懲らしめてやって」
月影は無言で支配人を見やり、そして不意に視線をこちらに向けた。
目が、合った。
面越しのため実際に目と目が合ったわけではないのに、月影が確実に潮を視認したと思った。
潮はドクンと心臓が跳ねるのを感じた。わけがわからないほど、手が震える。体温が急激に下がるような感覚に、潮は自身の手を胸元に抱き合わせる。
(怖い……いや、怖いんじゃない……なにこれ……)
「……潮?」
浅葉が潮の異変に気づき、席を立つ。
「月影、何やってるの。早く」
女性が急かすのと月影が支配人に手をかざすのは同時だった。式神の手に黒い鎖のようなものが現れる。女性は靴を鳴らして前に出た。
「わたくしの名前は柊紫よ。今度そんな無礼な態度をとったら許さないわ」
月影から何かが放たれ、支配人の悲鳴が店内に響き渡ると同時に、潮は椅子から崩れ落ちた。
潮に術が当たったわけでもないのに、身体が焼け、心臓を引き絞られるように痛む。
(なに、これ……!痛い……苦しい……!)
「潮」
いつの間にか潮のそばに来ていた浅葉に肩を抱かれた。視界が狭まり、意識がだんだん遠のいていく中で温かい彼の手の存在だけは感じた。
「早く店を出よう。こん太、彼女を運んで。裏口から出――見つからないよう、――はやく――」
浅葉が何かを言っているが、最後まで聞き取れなかった。
そのまま、潮は意識を手放した。