2. 君の名は
少女はまた部屋に一人になってしまった。
手持ち無沙汰なので、目に入った障子窓に手を掛けた。外を見てみることにしたのだ。ここがどこだか知りたかった。
開けて、少女は驚いた。
窓の先に広大な日本庭園が広がっていたからだ。
雪景色の庭園は足跡ひとつない。遠景の築山から庭石が転々と配置され、太鼓橋の掛かる池には悠々と錦鯉が泳いでいた。目を凝らすと、庭の奥に東屋らしき建物も見える。
嘘でしょう。こんな絵に描いたような日本庭園がご自宅にある人って、一体……?
ここは誰の、どんな家なのか。
少女は急に不安になってきた。ここまでの豪邸に住める人間は一般人ではありえない。まあ、シキガミ遣いの時点で一般人ではないのだが、それはそれとして。普通のシキガミ遣いでもありえない住まいである。
浅葉はシキガミ遣いは副業でしがない作家だと言っていたが、それは本当だろうか。少女は信じられなくなってきていた。
「おや? 何か気になるものでもあった?」
急に背後から声がした。飛び上がって障子の枠に頭をぶつけてしまう。
「あ、ごめん。またびっくりさせたね」
振り返ると、浅葉が戻ってきていた。こん太の姿はないので、影に戻っているのだろう。
「大丈夫です、外を見ていただけなので」
「寝ていなよ。病み上がりなんだからさ」
浅葉が気さくに布団を示すが、さすがに寝るのは憚られるので、少女はやんわり辞退して布団の上に座った。
浅葉もどっこいしょと少女の向かいにあぐらをかいて座る。掛け声も動きもジジ臭い動きだ。
彼の長い一本結びの髪が畳を擦る。
「で、さっきの話の続きだ。君のこれからの話をしようと思うんだけど」
「これから、ですか?」
浅葉は頷くと、少女の手を取った。
「よかったらうちにいなよ」
少女は突然の浅葉の提案に目を丸くした。そこまでしてもらう義理はないはずだ。
浅葉はケラケラと笑い出した。
「なんでそんなに驚くのさ。『拾ツテクダサイ。ナンデモシマス』でしょ?」
そう言われて、少女はぴしりと固まった。
そういえば、そんなことを書いた気がする。あの時は死にもの狂いだったから、すっかり忘れていた。
「ちょうど物書きの仕事の手伝いが欲しかったんだ。寝食は保証するし、今の状態を医者にも診せよう。お給金もちゃんと出す。身体の調子が戻るまでここでゆっくりしていきなさい」
「でも、あの……」
「拾ったからには最後まで世話をしないと。そうだろう?」
まるで犬猫を拾ったかのような口ぶりに、少女はぽかんと口が開く。
「生活には余裕がある方だから大丈夫だよ」
それはそうだろう、これほどの屋敷に住んでいるのだから。
口から飛び出しそうになった言葉を飲みこんだ。浅葉のには嫌味な様子は全くなかったからだ。
少女は考える。
これは少女にとって悪い話ではない。浅葉はなかなかどうして奇天烈な男だが、実際少女の身体はまだ怠く、動き回ると動悸がする。この状態で外に出れば、一日と保たず布団に逆戻りしてしまうだろう。
身体の状態を戻して、仕事や生きていく手立てを見つけて、あわよくばそれまでに失くした記憶が戻れば。
記憶を失う前の場所に戻れるかもしれない。
渡りに船である。
必死に書いた雪の置き手紙が引き合わせてくれた縁なら、この男を利用しない手はない。
少女は優柔不断とは真逆。即断即決だった。
数秒の間に結論を出して、深々と頭を下げる。
「お世話になります。この御恩は一生忘れません」
「やだなぁ、大袈裟だよ」
浅葉はどこかホッとした様子で姿勢を崩した。
「まだまだ顔色が悪いからさ。僕の家の前で倒れてたのも何かの縁だし、ゆっくりしていって」
浅葉は変わったところのある男だが、悪い人間ではない。少女が倒れたことは不運だったが、拾った人間が浅葉だったのは幸運だった。
浅葉は崩した姿勢のまま前髪をかきあげる。
「君……って、いつまでも君と呼ぶのはおかしいね。名前がないと不便だ」
「ですが、私は名前を覚えていません」
「そうだねぇ。なら名前をつけよう」
思案し始めた浅葉を少女はじっと見守る。
しばらく唸っていた浅葉だったが、部屋を見渡しているうちにパンと手を打った。
「決めた!」
浅葉は破顔する。
「潮はどうだろう!」
潮、と少女も繰り返す。
悪くはないが、何故これなのかわからなかった。
少女は浅葉の視線が自身の背後に向いているのに気づき、視線を辿って振り返った。
そこには、でかでかと神潮社という名の出版社が赤文字で書かれた、書籍の宣伝ポスターが貼られていた。
神潮社。
まさかと思い、少女は首を前に戻すと浅葉をじとりと見やる。
「失礼ですが、これから取りました?」
「こういうのはインスピレイションが大事なんだよ?」
得意げな男に潮は呆れる。
不満があるわけでない。別にもとの名を覚えているわけでもなく、こだわりがあるわけでもない。だが、適当すぎやしないかと反論したくはなった。
そこに、こん太の台詞が頭をよぎる。『あるじは名付けの才能が壊滅的なのです』、と。
世話になる男がこう名付けたのだから、少女に頷く以外に道はなかった。
「……ありがとうございます。本日より潮として、よろしくお願いします」
「うんうん。こちらこそよろしくね」
少女……もとい潮は、いよいよ拾い猫になった気分だと思った。
「さっそくだけど、潮、せっかく目が覚めたんだから一度風呂に入っておいで。もう何日も湯を浴びてないだろう」
「ですが……」
「三日も寝っぱなしでここにいた上に、倒れる以前も何日も風呂に入ってないみたいだったし」
浅葉が悪気のない調子で続ける。
「ちょっと臭うよ。早く綺麗になった方がいい」
「あるじ、女性に対してなんて言い方をするんです」
浅葉の影から声がした。小声だったが、しっかり潮の耳にも入った。
「手伝いを呼ぶから、ここで待ってなさい」
気にした様子もなく、笑顔の浅葉はひらりと手を振ると出て行ってしまった。
潮は自身の腕を嗅ぐ。
「臭うのか、私」
面と向かって臭いと言われたのは、多分記憶があってもなくても今が初めてな気がした。