1. 拾われました
混濁する意識が急浮上する。重い瞼をこじ開けて無理矢理目を開けると、ぼやけた視界いっぱいに男の顔があった。
「あ、起きた」
まさか起きぬけ早々、目の前に人の顔があるとは誰も思うまい。
驚いて少女が勢いよく身体を起こすと、同じく驚いた顔の男の頭と少女の額が正面衝突した。お互い蹲って頭を抱える。
「ご、ごめんなさい」
「いてててて……こちらこそ避けきれなくてごめんね」
男はへらりと笑う。
「君、もう三日も目を覚まさないからさ。ちゃんと生きてるのか心配になって、息してるのか確認してたんだ」
少女は動けなくなって雪の中で倒れたことを思い出した。まさか、あれから三日も意識を失っていただなんて。あの状態からよく助かったものだと驚く。
ふと視界に入った自身の服装を確認すると、襟の詰まった白の寝間着を着ていた。あの汚い着物から着替えさせてくれた上に、傷の手当までしてくれたのか。袖から覗く手首には丁寧に包帯が巻かれていた。
少女は深々と頭を下げる。
「助けてくださって、ありがとうございます」
あぐらをかいて座る男の年齢は三十前後か。目鼻立ちが涼しげな中性的な美形であるが、緩い表情のおかげか目を引く美形というよりは、親しみやすい近所のお兄さんのような雰囲気だ。
シャツにパンツと上下洋装であるのに、上から着物を引っ掛け、今時珍しい長髪をひとつ結びにして背中に流す様は、まるで女形の役者である。
そんな見た目が浮世離れした男は、じっと少女の顔を覗き込む。
「別にいいよ。拾ったのは僕だけど、実際世話してたのは女中だし。僕は浅葉という。よろしくね」
女中がいるほどの家ならば、女ひとり世話するだけの余裕があるのだろう。浅葉と名乗った男に、少女はまた頭を下げた。
「こんな場所に押し込めて悪いね。部屋は他にあるんだけど、使ってないから汚くってさ」
浅葉が部屋を見渡すのでつられて少女も顔を上げる。
まず目に入ったのは本、本、本。
本の山だ。
六畳ほどの和室に、本棚がずらりと並んでいる。天井近くまで届きそうなそれにはみっちりと本やら雑誌やらが詰められ、入りきらなかったものは床にまで積まれている。床が抜けないか心配な量である。今地震がきたら、確実に少女はぺしゃんこになってしまう。
壁にはやたらポスターが貼られており、見たことのない外国人の女性がこちらにポウズをきめて見下ろしている。少女は固まる。あまりに奇天烈な部屋だ。あちこちからポスターの視線が刺さるのを感じる。まともな人間なら、長くはいられそうにない場所だ。
少女は命の恩人の手前、とりあえず見て見ぬふりをすることにした。
「ここは僕の書庫なんだ。ちょうど休載期間だからほとんど使ってなくて。今は君の寝室だね」
書庫、休載。
本の山からして、出版社や文筆の仕事だろうかと予想がつく。なら、このポスターも仕事絡みのものかもしれないと納得する。
やたらお喋りな浅葉に少女が相槌を打ちかねていると、その様子に気づいた浅葉が手を打った。
「ごめんごめん! 僕の話はいいんだ。君のことを聞かせて。名前は? なんで僕の家の前で倒れてたの?」
興味深そうに前傾姿勢になる浅葉に、少女は口籠る。
「私は、……あれ……?」
まず名前を、と口を開きかけて、はたと思い至る。
名前が思い出せない。どこに暮らしていたのかもわからない。仕事は? 趣味は? 生まれは? なんで何も思い出せないのか、わからない。
自分に纏わる記憶がすこんと抜け落ちているのだ。
少女は愕然として俯く。
「ごめんなさい、わかりません……覚えて、いなくて……」
「覚えていない? え、ほんとに? 何も?」
「嘘じゃないです。信じてください」
自分が誰なのかわからない。少女は、急に足元が崩れていくような不安感が押し寄せて口を引き結んだ。
掛け布団を握りしめて俯く様子を見て、浅葉も困り顔で頭を掻く。
「この場で記憶喪失なんて馬鹿げた嘘をついたところで、いずれボロが出る。君の様子を見ても本当なんだろうなと思うけど……記憶喪失というやつかなぁ。どっかで頭でも打った?」
そう言われても覚えていないのだから、少女には答えられない。倒れたことを最後に、それより以前の記憶がなくなっている。自分に関する記憶だけが曖昧で、まるで綺麗に切り取られたように頭の中から消えていた。
「自分のこと以外はちゃんと覚えているんです、けど」
また口籠る少女に、浅葉は顎を擦る。
「そうなんだ。ちなみに今何年かわかる?」
「大正36年」
「合ってる合ってる。今いる場所は本所区なんだけど知ってる?」
「はい。帝都の……隅田川沿いの、深川区の隣の区です」
せいかーい、と浅葉の気の抜けた返事に少女は安堵する。ここまで忘れてしまっていたらどうしようもなかった。最低限の知識はあるようで安心する。
「なら、これは?」
浅葉が畳を叩いた。
すると、畳からぬるりと狐面の男が顔が生えてきた。
突然の怪奇現象にまた布団から飛び上がりかけたが、よくよく見ると畳ではなく、浅葉の影から出てきている。
狐面の男はそのまま浅葉の影から抜け出ると、空中に浮遊する。浮いているため正確な身長は不明だが、優に六尺はありそうであった。全身浅葱の着物に、顔を覆う白地に朱塗りの狐面が異様な存在感を放っている。
「シキガミ……?」
少女がそう零すと、浅葉は頷いた。
「わかるんだね。ならこの国についての最低限の知識はちゃんと残ってそうだ」
少女はまじまじと浅葉を見る。
シキガミを連れているということは、この男はシキガミ遣いということだ。
シキガミ遣いは、選ばれし国の守護者。誰でもなれるものではない。
シキガミ遣いはごく一部の家系でのみ構成される、特権階級だ。
身体のどこかに特徴的な痣を持って生まれてくる彼らは、ある程度の年齢になると自身の霊力をもってシキガミを顕現させ、従えるようになる。
そしてシキガミ遣いの大半は官公庁の一角、陰陽寮に所属し、シキガミを使役してお国のために働くのだ。
特に槐家、柏家、柊家――この三家は槐家を中心に御三家とも呼ばれ、シキガミ遣いの総本山とも呼ばれている。
浅葉のことを文筆業か何かと勘違いしたが、シキガミ遣いならばお役人で間違いない。御三家に連なる家系ならば、更に立場は上のはずだ。
少女は慌てて三つ指を立てて布団の上で縮こまる。
「シキガミ遣い様とは知らず、大変失礼いたしました」
「あっ、ごめん。そういうつもりでシキガミを呼び出したんじゃなくて! 僕は式神遣いは副業で、本業はしがない作家なんだ」
浅葉が少女の肩口に手を当てて身体を起こそうとするので、少女は恐る恐る顔を上げた。
困り顔の浅葉の顔越しに、狐面の男と目が合った……気がした。面で隠れているため、実際には合っていないかもしれないが。
浅葉は少女の視線を辿ると、ああと声を上げて背後を振り返る。
「彼が気になる?こん太だよ。僕の狐のシキガミ。君をここに運んだのは彼だよ」
こん太。
シキガミの名前が、こん太?
少女は困惑する。
どう見ても狐面のシキガミはこん太とは呼べない風貌だ。少女が小さく頭を下げると、こん太も頭を下げ、ゆっくりと口を開いた。
「あるじは名付けの才能が壊滅的なのです」
こん太は大柄な体躯に反して声が高かった。落ち着いた声色が耳に優しい。話す内容は辛辣であるが。
シキガミの名はシキガミ遣いが決めるものだ。一度決めると変えることはできない。狐面のシキガミは浅葉によって、こん太と命名されてしまったのだろう。
名付けの才能を疑われた浅葉は口を尖らす。
「響きが可愛いから僕は好きなんだけどな。君はどう思う?」
ことんと首を傾ける浅葉に、少女は目をそらす。
「……趣味は人それぞれなので」
思ったままを口にした女に、浅葉は肩を揺らした。
「はは、これは手厳しい」
浅葉がすくと立ち上がる。浅葉もこん太に負けず劣らず背が高かった。痩身で長身の浅葉を視界に収めようとすると、自然と首が真上を向く。
「あ、ちょっと厠に行ってくる。少し待ってて」
「あるじ……」
何事かと思ったが、突然の厠宣言だった。背後のこん太が顔を覆っている。
返事に悩み、少女は無言で見送った。
口数が少ない少女は、面倒になると黙る癖があった。