プロローグ
前作が完結いたしました!誠にありがとうございました。
新作投稿になります。よろしくお願いします!
だめだ、と思ったときにはもう手遅れだった。
足がもつれ、身体が前に傾ぐ。
手を前につく暇もなかった。
こんな人の往来のないところで倒れるんじゃなく、せめて誰か助けてくれそうな人がいそうなところで倒れたかった。
どこか他人事だ。そんなことを考えながら顔から地面に倒れ伏した。
相応の痛みを覚悟していたが、思ったほどではなかった。下が新雪だったことが功を奏したのかもしれない。
雪に埋もれているのに、全身が燃えるように熱い。痛む節々に、呻き声を上げる。体力も尽きて、指一本も動かせそうになかった。
小さな雪の粒が首筋に乗って、じわりと溶けた。止んだと思っていた雪が、また降り始めたのだ。
このままでは雪に飲まれてしまう。動かねばと四肢に力を入れるが、やっぱり言うことを聞かない。
頬を刺す冷たさに、段々と意識が混濁してきた。視界の端に映る己の手は指先から掌まで真っ赤だった。このまま放っておけば凍傷になるだろう。
「しにたくない……」
絞り出した声とじわりじわりと狭まる視界が迫る死を予感させて、より恐怖が増す。
このままでは、本当に死んでしまう。
どうにかせねばと、なけなしの力を振り絞って震える指で雪に文字を書く。雪の上だ、降り積もる雪できっとすぐに消えてしまうだろう。
しかし、意地で指を動かす。
誰か気づけ、死にたくない。藁にも縋る思いだった。
書き終わると、大きく咳き込んでしまった。吸い込んだ空気に肺が凍てつく。視界が明滅し始め、深く息を吐き出して目を閉じる。
やることはやった。後は、きっと神か仏が救ってくれる。
泥濘のような眠気が襲ってくる。重くなった瞼はもう開かない。
完全に意識を手放す直前。
――――誰かの靴音を聞いた気がした。
◆ ◆ ◆
「うわぁ、今時珍しいねぇ。行き倒れだぁ」
男は雪避けにさしていた番傘を脇に置くと、襤褸切れのような人型の塊の横に膝をついた。親指と人差し指で、倒れている人間の服をめくる。
「熱でもあるのかな、顔色が悪いね。うわこの子、足袋履いてないよ。寒かったろうに」
極寒の2月の夜更けに、外套もなく粗末な着物一つで雪に埋もれている様は、死体にも間違われそうである。
男はあちこち行き倒れの身体を触っていたが、何かに気づいたようでぴたりと動きを止めた。
「あれ……ねぇ、これもしかして女の子?」
男は背後を振り返る。が、そこには誰もいない。
否、いないかに見えたが、どこからか返答があった。
「どう見てもそうでしょう」
男の影から、ぬらりと狐面の男が姿を現した。
そのまま狐面の男は空中に浮き上がると、膝をつく男を見下ろす。
「見たところ十代後半の女子です」
「わぁ、ベタベタ触って悪いことしちゃったな」
男の的外れな返答に、呆れたように狐面の男はため息を零す。
「どうなさるおつもりで?」
「屋敷の前で死なれても困るし持って帰ろうかな」
「野良猫を拾うのとは訳が違いますよ、あるじ……」
あるじと呼ばれた男は、はははと笑うと脇に置いた番傘を拾って立ち上がった。
「こんな健気な置き手紙を雪に残してるんだよ。無視できないでしょ。こん太、屋敷に運んでおいて」
「本当に連れて帰るのですか……?」
「うん」
男はこん太という名らしい狐面の男を見て、からりと笑う。
「この子、このままだと死んじゃうよ。明日の朝の散歩のとき、死体を見る羽目になるのは嫌だろう?」
また回答が明後日の方向に向いている。
こん太は再び盛大にため息を落とすと、既に屋敷の門を潜ろうとしているあるじの背中と、足元の行き倒れ少女を交互に見やる。
「あなた、拾ったのがあるじでよかったですね」
襤褸雑巾のごとき少女は、雪に文字を残した姿勢のまま倒れている。書かれた文字は、こうだ。
――拾ツテクダサイ。ナンデモシマス。
相手が相手ならば、情婦にでもされそうな文言である。
こん太は女を担ぎ上げると、屋敷の塀を軽く飛び越えた。
この行き倒れ少女が目を覚ますのは、この日から三日後のことであった。