死と隣り合わせの人
物心ついて初めてみたのは、車に轢かれて潰れたカエルだった。
最初はそれをそれとは知らず、コンクリートの駐車場に落ちてる紙くずに見えた。
何度も何度も自分よりも遙かに大きく重い自動車に踏み潰された屍。
母親に「カエルの死体だよ、触っちゃ駄目だよ」と汚い物でも説明するように手を引かれ、引き離された。
僕は翌日も駐車場に行き、まだ残っていたカエルの死体を眺めた。
僕が見た、初めての死体は。
僕が感じた、初めての「死」は。
こんなにも軽いモノなのだと知った。
僕は歩くのが下手だ。
よく転ぶし、よくぶつかる。
だからいつも足元を見て歩くようにしている。
そのせいか僕の視界には人よりも、よく虫が映り込む。
蟻の軍勢がカマキリと戦っている場面に遭遇した。
カマキリはすでに弱っており、鎌のような右手を別の軍隊が巣に持ち帰っていた。
程なくしてカマキリは更に手足を引き千切られ、藻掻くカマキリの本体を持ち上げて蟻たちが巣に運ぶ。
カマキリは痛かっただろうか。
人のように「痛い」と叫ぶことも出来ず、「助けて」と救いを求めることも出来ず。
多勢に無勢。
孤独に戦うも負けて、カマキリは蟻の餌になる。
僕は駐車場にある蛇口から水を出し、掌にそれを溜めて蟻の巣がある場所へ戻る。
コンクリートの割れたヒビから続く蟻の列、辿っていけば蟻が出てくる穴がある。
そこへ水を流した。
しかし少量の水では蟻の列が少しばらけただけ。
僕は家に一度帰って、玄関に転がってるプラスチックのバケツを持って行く。
今度はそのバケツに水を溜めて、急いで蟻の巣に駆けつける。
走って水が少しこぼれたが、問題ないだろう。
ちょうど事切れたカマキリをいかにして巣に入れるか、蟻たちがたくさん集まってきた。
死してなお、カマキリは体を引き千切られる。
僕はそれをじっと観察し、やがてバケツの水を巣に流し込んだ。
突然の大量の水に、カマキリを解体していた蟻たちは困惑していた。
僕は小さく笑うと、水で入り口が塞がった巣に帰ることが出来なくなった蟻を踏みつけて、すりつぶすようにぐりぐりと足を動かす。
別にカマキリを助けたかったわけじゃない。
無惨に死んだカマキリと、同じように無惨に死んで欲しかった。
僕には兄がいる。大嫌いな人。
こいつは僕を殴る。
僕はよく「痛い」「助けて」と泣き叫ぶ。
僕は常日頃思っていた。
あいつも僕と同じように殴られれば、きっと痛みというものを理解して、殴ることは止めるだろうと。
痛みには痛みを。
死には死を。
同じ痛みを知れば、きっと分かり合える。
それがきっと平等って意味だ。
中学に上がって、僕は身近な人の死を経験した。
大好きな祖母が持病で亡くなったのだ。
祖母は病気と戦って、無惨に死んだ。
冷たく、固く、生気の感じられない祖母の遺体をみたとき、僕は心がもやもやした。
病気が祖母を殺した。
でも病気は祖母が死んだとき、死んだ。
これは平等じゃない。
理不尽な死だ。
僕は理不尽が嫌いだ。
僕を殴る兄は、いつも理不尽だったから。
僕は憤り、それから考えた。
痛みも死も、平等にすることは難しい。
例えばあのときのカマキリ。
今は虫に痛覚がないことは知ってるけど、カマキリはそれでも死を望んでなどいなかった。
苦しんで、体をバラバラにされた。
僕は蟻を踏み、すりつぶして殺すことでその苦しみと死を平等に与えたと思ったが、それは僕の「物差し」でしかない。
カマキリが、蟻が、本当に同じ苦しみを感じ死んだのか。
僕は学校の階段の上で、たまたま目に入った生徒を突き飛ばした。
スカートはいてるし髪も長いから女だろう。
女子生徒はとても軽く、階段をころころ転がり落ちていく。
踊り場まで転がり、ようやく彼女の体は止まった。
呻く彼女の声を聞きながら、僕は目を閉じて体から力を抜く。
僕の体も軽かったのか、ころころ転がっていく。
気付けば僕も踊り場にいて、異常に気付いた生徒たちが数人集まって「大丈夫か」と声をかけてきた。
女子生徒は震え泣き、突き飛ばしてきた僕も同じように転がってることに困惑しているようだった。
僕は起き上がり、ぞんがい痛くなかったなという感想しか抱かなかった。
だけど女子生徒の体にはあちこち痣があった。
僕はそれを見て愕然とした。
僕は兄に殴られて痛みに耐性もある。それに男だ。
だけど突き飛ばした彼女はきっと痛みにさほど無縁な人生を送ってきた女の子。
体のつくりも違えば耐性も違う。
僕は理不尽な暴力を彼女にしてしまったのだ。
それから高校生になって、僕は一つの結論を導いた。
痛みや苦しみには個体差がどうしても出てきてしまう。
平等にすることは難しい。
でも一つだけ、平等にする方法がある。
僕は兄を殴り殺した。
家の裏手にあるゴミ集積所の広間に連れだし、そこに用意していたバッドで殴り倒し、覆い被さってマウントをとって何度も何度も頭を殴った。
これは僕の、十数年間の痛みだ。
それを凝縮して、たった1日で味わってもらうのだから、当然死ぬまで殴り続ける。
鼻血が止まらず、それに気道を塞がれて兄は窒息する。
バッドで殴り倒したとき脳震とうを起こしたのか、あまり抵抗はなかった。
僕は大量の汗を拭うことも出来ず、拳を握ったまま震えて動かせない両手を見る。
「殴るのも痛いんだね」
皮が剥け血が滲んでる。兄と僕自身の血。
僕はようやく兄と分かり合えた気がした。
互いに痛みを知ったなら、今度は「死」を清算しよう。
広間の隅にある木を見上げる。
太い枝にくくりつけたロープと脚立が置いてある。
僕は小さく笑うと、脚立にのぼった。