いつもの社内 変わった自分たち
自分にとって、ここ一ヶ月は、まさに『夢』のような期間だった。
緑川さんは今後のことも考えて、一ヶ月丸々休むことに。
そして自分は、定期的に緑川さんのアパートまで、食べ物とか日用品を届ける役目を担った。
仕事終わりに、やらなくちゃいけない事が増えたけど、おかげで自分の体力もメンタルも、少し成
長できた気がする。
それに、緑川さんの家へお見舞いに行った日には、彼女の自家製野菜が食べられる。
緑川さんは、どうやら自分が見舞いに来なかったら、腰が痛くても無理する覚悟があったらしい。
痛そうな顔をしながら腰を支えている緑川さんの姿なんて、誰も見たくない。
その話を聞いた自分は、今までに感じたことのない『達成感』を味わった。
自分の行動一つで、緑川さんの『命』・・・というほど大袈裟なものではないけど、かなり危険な
状況にいた緑川さんを助けられた。
もし自分が行かなかったら、もっと大惨事になっていたかもしれない。
無理して職場に来て、また腰を痛めて、一生ベッドと一生を共に・・・なんて、色々と恐ろしい。
緑川さん自身、かなり猛省していた。普段から体調を崩さない人でも、無理をすれば体が壊れる。
若い頃は大したことなかった怪我でも、大人になると大怪我に化ける。
それを常に頭に入れて生活しないと、自分もいつかやらかしてしまいそう。
社員の皆には、「ご両親が突然倒れた」という事にしている。
課長と自分で口裏を合わせ、自分は主(緑川さん)のいないアパートへ定期的に行って、『泥棒対策』をしている・・・という『設定』で。
緑川さんが自分の住所を、限られた人にしか伝えていない事もあって、皆はすんなり納得した。
でもそれと同時に、自分は『緑川さんの住んでいる場所を知っている唯一の社員』として、しばらく好奇の目を向けられた。
一部の社員からは、「どうしても緑川さんの住んでいる場所が知りたい!」と懇願されたけど、彼
女の住んでいるアパートを教えないのは、課長や彼女から口止めされている。
だから教えなかっただけなのに、陰で自分を「心の狭い人」と言いふらしていた。
彼女がどうして自分の住所を教えないのか、その理由も分からず、言いたい放題な社員が、自分は
哀れに思える。
その理由は、『自分の趣味を否定されたくない』という、誰でも共感できる話なのに、周囲は見当違いな話を大きく大きく膨らませて楽しむ。
まるで『風船を膨らませて騒いでいる子供』を見ているようで、自分は噂で盛り上がっている社員
を横目に、仕事に励む日々。
お見舞いに行くたびに、緑川さんからエールを貰っているから、自分は頑張って仕事に集中できた。
半月もすれば、緑川さんの噂は鎮火したものの、やはり緑川さん無しでの仕事は、なかなか辛いも
のがあった。
緑川さんの仕事をカバーするには、全社員の力を持ってしても、ギリギリ維持できない。
自分は、とにかく動き回り、とにかくミスをしないように専念した。
お見舞いに行くと必ずもらえる、緑川さんのアドバイスを胸に抱きしめながら。
緑川さんは職場にいないのに、いつも緑川さんに見守られている気持ちがして、気が緩めない。
自分が緑川さんの変わりになれるわけがない、それでも、できる事は全力で取り組む。
そうこうしているうちに、緑川さんがついに復帰する日が来た。
その日は朝から皆が騒々しく、ようやく緑川さんに頼れる、またいつもの日常に戻れることを、誰も言わないけど喜んでいる様子。
あれほど緑川さんの欠勤にグチグチ言っていた社員も、態度をケロッと変えて、緑川さんを迎える
準備をしている。
緑川さんのいない勤務時間を、ほぼおしゃべりに費やしていた女子社員に関しては、心の奥に抑えている『本音』が漏れないよう、また今日もお喋りに勤しんでいる。
緑川さんが職場に復帰すれば、自分に向けられていた好奇の目は、完全に消えてくれるだろう。
でもその代わり、緑川さんが質問責めを受けるかもしれない。
でも緑川さんのことだ、何を言われても、何を聞かれても、サラッと受け流すんだ。
下手なことを言ってしまえば、後から面倒になるのは、緑川さんから教わっている。
「よっ、青山!」
「あ、課長、どうも。」
「結構頻繁に見舞いに行ってたそうじゃないか。彼女が復帰できたのも、お前のおかげだ。」
「いえいえ、自分なんてそんな・・・・・」
自分はそこまで頑張ったつもりはないけど、こうして『仕事以外の行動』を褒められたのは、随分
久しぶりな気がする。
大半の社員は、自分に労いの言葉ではなく、追求の言葉ばかりかけていた。
そうゆうところが、自分たち『平社員』と、人の上に立つ『課長』の違いだ。
労いの言葉もそうだが、大人になってくると、『感謝の言葉』をすんなり言えなくなる。
そんな言葉をサラッと言えてしまう課長を、自分はすごく尊敬する。
(仕事に関してはともかく、どんな時でも、しっかり『お礼』が言えるような人になろう)
そう思いながら、自分も緑川さんが出社するのを待ち侘びる。
緑川さん、今日は病院で検査を受け、医者から「OK」が出れば出社できるそう。
でも、最後に自分が見舞いに行った時、緑川さんはちゃんと歩いていた。
まだちょっと足元がおぼつかないけど、最初にお見舞いへ行った頃と比べると、だいぶ回復していたように見える。
それでも、万が一を考えて、出社前に病院へ行くことにしたであろう緑川さん。
そうゆうところも、彼女らしい気がする。
「みなさん、お久しぶりです。ご迷惑をかけて、申し訳ありませんでした。」
「緑川さん!」「待ってましたよー!」「お帰りなさい!」
ヒールの音を高鳴らせ、颯爽と出社してきた緑川さんに対して、我先に労いの言葉をかけに行く社
員たち。
スタスタと自分のデスクへカバンを降ろし、ササッと業務に取り掛かる姿は、以前と変わらない。
事情を把握している自分と課長は、それを遠目で見ながら、仕事に打ち込む。
緑川さんも緑川さんで、社員たちからの質問に対し、涼しい顔で返答していた。
事情を把握している自分でも、緑川さんの言っている事が本当な気がする。
それほど、彼女は嘘が上手い。
他の社員と話している間、緑川さんは時折自分の方を見ていた。
その目線が少し気になるけど、緑川さんを取り囲む社員が邪魔で、なかなか目が合わない。
自分は少し歯がゆい気持ちを抑えながら、最近全然できなかったメールボックスの整理をする。
緑川さんがいない職場では、普段こまめにしていた『整理整頓』すらできなかったから。
気づけばメールボックスの中には、今後必要なメールと、そうでないメールがごちゃごちゃ状態。
整理整頓はあんまり上手くなくても、やっておかないと、それこそまた緑川さんに怒られそう。
いつも通りの日常に戻る事が素直に喜べない自分に、罪悪感すら覚える。
一方の緑川さんは、病み上がりとは思えないくらい、いつも通り、テキパキと仕事をこなす。
仕事そっちのけで、自分と緑川さんの関係を、深く追求しようとする『物好きな社員』の質問に関しても、顔色ひとつ変えない。
ただ一言、「何もないよ」とだけ返す彼女。
そんな調子だから、緑川さんに群がる野次馬は、1時間くらいで消えていた。
でも自分は、緑川さんの「何でもないよ」の一言に、軽くショックを受けている。
心の奥底で、「私と青山君だけの仲なの」とか、そうゆうロマンチックな言葉が聞きたかった気持
ちもあった。
完全に下心ではあるけど、相手が異性なら、当然気にしてしまう。
アパートで一緒に過ごしていた時とはだいぶ違う、『OLの顔』になっている緑川さんが、相変わら
ず遠い存在に感じる。
あの一か月がいったい何だったのか、自分で自分の記憶を疑うほど。
自分達が必死に埋めようと頑張っていた仕事の穴も、緑川さんの手にかかれば、半日でほぼ埋まっ
てしまう。
自分が看病していた緑川さんは、一体誰だったのか、ちょっとしたミステリーだ。
スーツをビシッと着ている緑川さんと、ゆるゆるのパジャマ姿の緑川さんが、そっくりの『双子』
に思えてしまう自分。
「もしかしたら、自分が看病していたのは、緑川さんの双子の姉か妹
本物の緑川さんは、神隠しに遭って、今もまだ行方知れず・・・」なんて話が通ってしまいそう。
他の社員は、緑川さんが復帰したことで、肩の荷が降りたのか、いつもより余裕のある表情で仕事
をしている。
それもそれで、おかしな話ではあるのだが・・・
『自分一人にしかできない仕事なんてない、だから無理せず、無理なら休みなさい』
という言葉を、何年か前に自己啓発本で見たけど、それはある意味、『時と場合』によるのかも。
緑川さんの仕事に関しては、他の社員でもできそうな仕事ではある。
しかし、その正確性と速さは、社員が結束して頑張ったとしても、越えられなかった。
(『仕事』って、そうゆうものなのかな・・・)
「青山君。」
「へっ?! は、はいぃ?!」
気がつくと、緑川さんが自分の隣に立っていた。
その拍子に、彼女の後ろの壁に立てかけてある時計を見たけど、もうお昼をとっくに迎えている。
今日はやけに、午前中が短い気がしたけど、午前中は緑川さんのことで社内が騒然としていたか
ら、あんまり働いた実感が湧かないのかもしれない。
実際、自分は画面に映っているメールボックスには、午前中に済まさなければいけないメールが、全て済んでいた。
「すいません、ちょっと今日は・・・・・
緑川さんが会社にいる生活が戻ってきたのが、嬉しくて、何だかボーッとしちゃって・・・」
「ボーッとしながらメールを送るのは危険だよ、誤字脱字はともかく、相手に不適切な印象を持たせ
る言葉を、無意識に打ち込んじゃうと大変だから。
言動もだけど、メールは一回送っちゃったら、訂正する事はできないのよ。」
「___すいません。緑川さんに、あれほど助言を受けても、自分は全然成長しなく
「まぁ、それはそれとして。」
緑川さんは、自分の言葉を遮り、何かを差し出す。よく見るとそれは、『ラップに包まれたパン』
しかもそれは、ただのパンではない。
自分が手に持ち、それを確認すると、食パンの間に具が入っている、『お手製サンドイッチ』
「え!! これって・・・!!!」
「___ここで話してもいいけどさ、屋上行かない?」
自分は、緑川さんに言われるがまま、屋上に連れて行かれる。
エレベーターで屋上まで向かい、鉄製のちょっと古びたドアを開けると、春の爽やかな香りが、フワ
ーッと顔面にぶつかる。
屋上には特に何もなく、ベンチが4つと、野晒しにされたデスクが一つだけ放置されていた。
デスクの上には、『鳥の落とし物』がベッタリ付着している。
自分が座ると、ベンチが壊れそうで心配だったけど、緑川さんが隣を開けてくれると、座らないわ
けにもいかない。
女性である緑川さんはともかく、男である自分まで乗っかったベンチは、鈍い音を唸らせているものの、どうにか体制を維持できている様子。
最近は雑誌やネットに、会社の屋上に『緑』を生やすプロジェクトが掲載されているけど、どうや
ら自分の勤めている会社に、そんな経費はないみたいだ。
環境的にも良いのは分かっているけど、やはり資金がないと整備できない。
良い事だと分かっていても、なかなか手をつけられないのは、『健康』と似ているかも。
「緑川さん、いつもここで休憩してるんですか?」
「まぁね、ここはすごく静かだから、私のお気に入りの場所。」
もう緑川さんが腰を痛めている様子はなく、自分は心底安心する。
最初にお見舞いへ行った時は、本当に焦った。それくらい重症だった。
しっかり一ヶ月休養をとった事もあって、もうヒールで歩いても全然問題ない様子。
「そういえば緑川さん、食堂にもあまり来ませんよね。」
「うん、給湯室も・・・ちょっと苦手。」
「へぇー・・・・・
自分てっきり、お昼休憩中の緑川さんって、女性社員と雑談を楽しんでいるのかと・・・」
「_____なんかね、一度『真面目な社員』っていうレッテルを貼られちゃうと、なかなか同じ社
員でも付き合いづらくなっちゃうのよ。
それに私、あんまり・・・『女性特有のハイテンション』に、ついていけなくて・・・」
「___確かに、緑川さんがゲラゲラ笑いながら、人の噂話をしている姿なんて、想像できません。
むしろ、畑仕事が趣味の緑川さんの方が、自分的には納得できます。」
緑川さんは、改めて自分に、お手製サンドイッチをくれた。
断面を見てみると、ほぼ全部野菜みたいだ。
野菜と接触しているパンの部分には、野菜のエキスが染み込んでいる。
コンビニやスーパーでもよく売られているサンドイッチだけど、自分はこうゆう、『野菜だけ』の
サンドイッチは絶対買わなかった。
自分がしょっちゅう買っていたサンドイッチは、『卵サンド』とか『カツサンド』
でも、緑川さんの作ってくれた野菜となれば、全然話が違う。
あの時の衝撃は、まだ自分の心の中に残っている。あの感動は、一生忘れられない思い出になった。
そして、緑川さんが自ら作ってくれたサンドイッチとなれば、頂かないわけはない。
自分は迷わずラップを剥がし、そのフワフワシャキシャキにかぶりつく。
もうその瞬間から、市販で売られているサンドイッチとは話が違った。
野菜まで歯が到達した瞬間、口の中にまで響く、シャキッという、野菜が割れる音。
それと同時に、口の中へ流れ込んでくる、野菜のみずみずしいエキス。
パンのふんわり感とばっちりマッチしている。
挟んでから時間が経っている事もあって、野菜エキスが染み込んでいるパンは、まるで『ジャム』
を塗ったパンにも思える。
挟んである野菜の種類はかなり多いのだが、どれもしっかり各々の魅力を発揮して、他の食材の邪魔をしていない。
自分は勢いそのまままま、あっという間にサンドイッチをペロリと平らげてしまう。
気がつくと、緑川さんが自分の顔を、ジーッと見ている。
「な、なんかすいません。無言で食べちゃった。
いや、すごく美味しすぎて、もう我を忘れて・・・
不思議なくらいみずみずしくて、食べやすくて。
野菜特有の苦味とかもなくて、食べ終わった感じも、すごく爽やかです。
緑川さんの野菜は、一口食べるだけで、どれだけ手間暇をかけているのか分かります。
『美味しく食べられる趣味』って、すごく素敵ですね!」
「__________
明日も、青山君にお弁当、作って来てあげる。」
「__________えぇええ?!!」
「私の野菜作りも、私の作った野菜も、ちゃんと褒めてくれるから。
だから、ちゃんと食べてね。ちゃんと味わって、健康にならなきゃダメ。
青山君には、『一緒に』未来を生きてほしいから。」
「___そ、それって・・・!!!」
そして、今ではそのサンドイッチが、自分の『愛妻弁当』になった。
今でも健康で毎日が過ごせるのは、『妻』のおかげである。