緑川さんの庭(1)
「み・・・緑川さん!!
自分です!! 青山です!!」
近所迷惑になりそうなくらいの大声で、自分は緑川さんを呼んだ。
ドアを開けたと同時に感じたのは、『意外な匂い』
それは、『土の匂い』だった。
でも今の自分には、匂いを気にする余裕もなく、部屋の中から返事が来るのを待っていた。
でもやっぱり、返事がない・・・・・かと思っていた。
耳をすませると、何処からか声が聞こえる。
その声はとてもか細く、まるでヨレヨレになった紐のような声。
自分は頑張って耳をすまして、部屋の奥で誰が何を言っているのかを、玄関で聞き耳をたてる。
(緑川さん以外の人がいるの・・・かな?
でもそれにしては、何かおかしいな・・・・・)
「_______君。
あ・・・・・お・・・・・山君・・・・・
来て・・・・・た・・・すけ・・・・・て。
こ・・・こぉぉぉ・・・・・しぃぃぃ・・・・・」
そのか細い声の主が緑川さんだと分かった瞬間、自分は靴を揃えるのも忘れ、部屋に入った。
か細い声の正体は、部屋の主である、緑川さん本人。
しかもその内容からして、明らかに危険な状態。
もう細かいことを気にしていられない状況に、自分の葛藤は一気に吹っ飛んだ。
アパートだから、部屋自体はそこまで広くない。
廊下を抜けると、ちょっと広めのリビングになっている。リビングは、割と散らかっていた。
掃除もしていないのか、あちこちに『菓子パンの袋』や『湿布のシール』が落ちている。
___というより、掃除もできない状況みたいだ。
床にゴミは散乱しているけど、家具はとても綺麗に手入れされている。
埃が溜まりやすい冷蔵庫の上も、きちんと掃除されている様子。
キッチンに立てかけてある調理器具も、かなり使い込まれているものの、ピカピカだ。
自分ではこんなに沢山の調理器具、使いこなせる気がしない。
「緑川さん?! 何処ですか?!」
「こっち、こっち。」
自分がキョロキョロしながら緑川さんを探していると、リビングの隅から声が聞こえた。
そこには、ベッドの上で『芋虫』の様になっている緑川さんの姿が。
びっくりした自分が駆け寄ると、緑川さんは布団の隙間から、こちらを覗いていた。
どうやら、うつ伏せの状態から動けない様子。
「青山君、ごめんね、こんな格好で。
お茶の一杯でも入れてあげたいんだけど、ちょっと動くだけで
イダダダダダダダダダダ!!!」
緑川さんの言う通り、彼女はうつ伏せの状態を維持するだけで精一杯な様子。
少しでも体制を変えようとすると、顔を歪ませて腰を抱える。
額に脂汗を滲ませている緑川さんの顔を見るだけで、どれほどの痛みなのか想像できてしまう。
今の緑川さんの様子を見て、勇気を振り絞って此処に来たことを、心の底から誇りに思った自分。
「あぁ!! 無理しないでください!!」
「こんな状態だと、ご飯も買いに行けないから、仕方なく家に置いてあった菓子パンで食いつないで
いたんだけど・・・
とりあえず、お水くれない?
その棚の中にコップがあるから・・・」
「わ、分かりました・・・
あ、必要かどうか分からなかったんですけど、これ、スポーツドリンク・・・
風邪でもないのに、こんなの必要あったか、買った後で後悔してたんですけど、買っておいてよか
ったです。」
「ありがとぅー・・・助かるぅー・・・」
ベッドから降りて、キッチンに向かい、蛇口を捻り、水を飲むことすらできない状況の緑川さん。
自分が買ってきたスポーツドリンクを、半分も一気飲みして、案の定むせてしまう。
緑川さんは、自分が来るまでの間、かなりギリギリの状態にいた様子。
確かにこんな状況では、外へ物も買いに行けない。
多分、メッセージに既読がつかなかったのも、動けなかったのが要因だ。
彼女のスマホは、使っている最中に落としてしまったのか、棚の下にあった。
床に落ちているゴミですら拾えない今の彼女には、回収すらできたなかったみたいだ。
よく見ると、スマホの充電プラグが中途半端に刺さったままで、全然充電できていない。
自分が充電プラグをしっかり指すと、画面上に映し出される、自分が送ったメッセージの山。
数時間前の自分は、まさか緑川さんがこんな状況になっているとは知らず、行くか否か迷っていた。
そんな事で悩んでいた自分の尻を、蹴り飛ばしてしまいたい。
悩んでいる間にも、緑川さんはかなり苦しんでいた。
「お粥とかでいいですか? 即席ですけど・・・」
「あ、冷蔵庫の中、勝手に開けていいよ。
___と言っても、ほぼ何もない状態だけど。」
自分は、立てかけてあったお鍋に水道水を入れて、火にかける。
家に入ってしまえば、冷蔵庫を開けるのも、あまり緊張しない。
緑川さんの言う通り、冷蔵庫の『上段』には、ちょっとした『漬物』と『卵』、『味噌』くらいし
か入っていない。
でも、一人暮らしでこれだけ揃えば、数日は過ごせる。
実家に住んでいた時は、冷蔵庫に食べ物がパンパンに詰まっているのが、ほぼ当たり前だった。
でも、一人暮らしになると、必要になる食材が一気に減る。
一人すか住んでいないから、当然と言えば当然だけど。
「卵があるから、『目玉焼き』でも作って、お粥の上に乗せようかな・・・?
でも、ちゃんと半熟にできるか心配だな・・・」
任せてもらったのは嬉しいけど、自分にそこまで料理センスがあるわけでもない。
その上、後ろに緑川さんがいるプレッシャーで、簡単な料理ですら、ちゃんと作れる自信がない。
でも、腰が痛くて何も食べることができなかった緑川さんに、何でもいいから食べてあげたい気持
ちの方が勝る。
自分も経験があるけど、本当に体力と気力が限界の時は、とにかく何でもいいから食べたい。
それがある意味、『暴飲暴食のきっかけ』でもあるんだけど、体力を気力を回復する、一番手っ取
り早い方法は、やっぱり『食べる事』
今の緑川さんは、『具合が悪い』・・・というわけではないんだけど、やっぱり人間、食べないと心が傾いてしまう。
「緑川さん、熱とかあるんですか?」
「え? 何で??」
「なんか、いつもより顔色が悪い・・・というか・・・
空気・・・というか・・・・・」
「_____青山君、私のこと、普段からしっかり見てるんだね。」
「えっ?! あ、いやその・・・えっと・・・・・」
「だって、ぎっくり腰になって、私がそのショックを引きずってるの、気づいてるんでしょ?
いやぁー、本当に情けない限りだよ。青山君が来てくれなかったら、このまま餓死してたかも。」
「そんな大袈裟な・・・・・」
「一人暮らしだと、それも大袈裟ではないんだよ。」
「まぁ、そうですけど。」
自分は思わず焦ってしまう、確かに、緑川さん本人に言われるまで、全然気づかなかった。
どうして『部下と上司』の関係でしかないのにも関わらず、自分は緑川さんの様子がおかしい事に気がつけたのか。
改めて考えると、自分でも分からない。
いつも職場で、彼女を意識して、彼女を目標としているから・・・なのかもしれない。
(もしかして、気持ち悪いのかな、自分・・・・・)
緑川さんの言葉が嬉しかったと同時に、漠然とした不安が頭を過った自分。
そうこうしている間に、即席お粥を入れてあったお鍋が沸騰。
慌ててお粥を持ち上げようとするが、熱すぎて素手では触れなかった。
一人で焦り散らかしている自分を見て、緑川さんはクスクス笑っている。
かなり情けない醜態を晒して、自分は顔が真っ赤になりそうなくらい恥ずかしかった。
でも、緑川さんが笑っている声が聞けて、得した気持ちもある。
会社では、凛々しい顔の緑川さんしか見たことがない。
___というか、課長ですら、緑川さんが笑った姿を見たことないのかも。
当然、社会人だから『作り笑い』くらいしないとやっていけない。
自分も社会人になってから、『子供の無邪気な笑み』が、尊く感じるようになった。
作られた笑みだとしても、相手に失礼のない対応をする。
それをおかしく感じていた時期も、懐かしく感じる。
「はい、緑川さん。お粥、目玉焼き乗せ、できました。」
「ありがとー!」
緑川さんはうつ伏せのまま、首や両手を頑張って動かしながら、頑張ってお粥の掬われたスプーン
を口に入れる。
その大勢もかなりキツいと思うけど、今の緑川さんにとって、その体制が一番腰に優しい。
その間に自分は、床に落ちているゴミを回収。
落ちているのがゴミばかりで助かった。『下着』なんかが落ちていたら、目のやり場に困る。
部屋が広いわけでもないから、シート付きのモップでサーっと床を磨くだけで綺麗になる。
お風呂には入れそうもないから、そこは除外して。
グウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ・・・・・
「あっ・・・・・」
「_____うふふふふっ!」
部屋中に響く、自分のお腹が鳴る音。緑川さんが、口に含んだお粥を吹き出しそうな勢いで笑う。
緑川さんの事ばかり心配して、自分のことをすっかり忘れていた。
でも、緑川さんの為に買ってきた、即席お粥を食べる気にもならない。
「はい、どうぞ」と、自分で言って渡した品を自分で食べるって・・・・・なんか変。
緑川さんの住むアパートを探している間、自分は地図アプリをずっと凝視していたけど、その時の
記憶を思い返すと、この辺りに『コンビニ』はなかった気がする。
駅周辺にコンビニはいくらでもあるのに、少し離れるだけで急に不便になってしまうのは、地方でも同じ事だった。
「あー・・・・・
緑川さん、カップ麺とかありませんか?
一個でいいので恵んでください。」
「__________じゃあさ。」
「?」
緑川さんが、お粥を食べている手を止め、『野菜室』を指差した。
「ずっと『感想』を聞きたかった物があるの。」
「___『感想』?」
「そう、私や『大家さん』だけじゃなくて、第三者からの感想。」
緑川さんの言っている事が、まだよく分からないけど、野菜室を開けた自分は、思わず声が出た。
だって、『冷蔵庫の上段』には、食べる物があまりなかった。でも『野菜室』は違ったから。
「や、野菜が・・・・・こんなに沢山?!!」
「えへへへ。全部『そこの畑』で収穫したんだ。」
緑川さんが次に指差したのは、リビングのカーテン。
そのカーテンをめくってみると、その先にあったのは、かなりしっかり手入れのされている畑。
部屋から差し込む光だけでも、一番近くに生えている『プチトマト』が、まるで『ルビー』のよう
にキラキラと光り輝いている。
今は『夏の終わり頃』 夏の野菜たちが、収穫を待ち侘びて、丸々と太っていた。
自分はようやく思い出した。このアパートへ赴いた時に感じていた『土の匂い』
その匂いのもとは、この畑だった。
「本当はこの畑、大家さんのものだったんだ。でも数年前、大家さんから譲り受けたの。
もう体が衰えた大家さんには、もう管理ができなかったから。
それに、私が『農家の娘』だったの、大家さんは知ってたから、私に任せてくれたの。」
「え?! そうだったんですか?!
___畑を持っていることも初めて知りましたし、『地元が農家』なのも初めて知りました。」
「それでさ、私がお見舞いに青山君を選んだのにも、ちゃんと理由があるの。」
「_____え?」
一瞬、『淡い期待』が思考を横切った。
でも、自分はすぐ冷静になる。この話の流れで、そんな『おいしい話』になるわけない。
「食べてほしいの、私の作った野菜たちを。
そして、素直な感想を聞かせてほしい。」
_____ある意味『美味しい話』だった。
でも自分は、緑川さんの願いを、素直に受け取ることができない。
何故か、それは
自分が、『野菜嫌い』だから。
『偏食家』・・・というほど重症ではないけど、コンビニで売られているサラダには、一度も手を
つけた事がない。
学生時代や、実家に居た時は、嫌でも食べさせられていたから、野菜を摂取する事ができた。
でも、日々の生活が忙しいこともあって、まともに野菜を摂取するのは、2年ぶりかも。
冷蔵庫のなかには、色とりどりの野菜が並んでいるが、どれから手をつければいいのか分からない。
そもそも、ちゃんと感想が言えるのかも分からない。
別に自分は、野菜を食べ慣れているわけでもなければ、野菜が好きなわけでもない。
そんな自分に、自家製の野菜の感想を聞く・・・なんて、言ってしまえばお門違いだ。
しかし、緑川さんは相変わらず、自分が野菜を食べてくれるのを、ワクワクしながら待っている。
そんな目で見られては、今さら引き返せない。