違和感のある社内 違和感を覚えた自分(2)
___とは言ったものの、正直午後の仕事は、全然頭に入ってこなかった。
ほぼ無意識で仕事をしていた状態。
まず自分が悩んでいたのは、家に入った時の挨拶。
家はもう何処にあるか把握している、でも自分にとって問題なのは、緑川さんの住んでいるアパートのドアのチャイムを鳴らすところから。
緑川さん一人しかいないものの、しっかり丁寧に踏み入れないと、後々の関係がギクシャクしそう
で怖い。
普段から仕事ができる緑川さんだ、礼儀やマナーもしっかり見ているに違いない。
一応、最低限のマナーは身につけているつもりの自分。
だけど、緑川さん相手にそれでは通用しない気がする。
アパートに入った後のことも、色々と考えを拗らせていると、不安が大きくなるばかり。
いっそ、もっと頼りになる社員に『丸投げ』する手も考えたけど、何故か投げたくない自分もいる。
行きたい気持ちと、行きたくない気持ちがせめぎあった午後は、あっという間に終わった。
優柔不断・・・とも違う、『健康診断の結果を聞きに行く前』と、同じような気分。
緑川さんがいない事もあって、自分も含め、ほとんどの社員は、不安な一日を過ごした。
ちゃんと仕事ができているか、不安に思いながら帰る支度をする社員の姿が目立つ。
いつもなら、仕事が終わった脱力感で家路に着くのだが、その脱力感すら感じないほど、色々と感
覚が麻痺していた。
でも、自分にはまだ、残されている大事な役目がある。
仕事に没頭している時より、緑川さんの家に向かう今の方が、精神的に負担が強い。
いつもは足速に乗る電車も、今日に至っては、「遅れてくれないかな・・・」と、心の欲望が声になってしまう。
周囲の乗客は、いつもと変わらず。
部活帰りでぐったりしている学生や、今にも寝そうな社会人が、我先にと乗り込んでくる。
この時間帯もそうだが、通勤ラッシュの何が辛いのか、その一因としては、周囲の空気。
朝は朝で、「また忙しい1日が始まる」という気持ちが車内に充満して、夜は夜で、「今日も疲れた」という気持ちが充満している。
そんな空気が充満している場所に入り込めば、たちまち自分も憂鬱な気分になってしまう。
でも、だからと言って、電車やバスを利用しないわけにもいかない。
ある程度お金を持っている人は、『タクシー』や『車』で来れば、そんな問題とは無縁になる。
しかし、それらが遠い平社員や学生は、毎日そんな空気を『2回』も味わう。
(___じゃあ緑川さんも、普段は電車で通勤しているのか。
てっきり車とか持ってるのかと思ったけど・・・・・
もしかして、満員電車を避けるために、いつも早めに会社へ来ていた・・・とか?
満員電車の中だから、互いに気づかなかった・・・という可能性もあるけど。
それに、もし車内で会ったとしても、会釈くらいしかできないよな。)
まだ自分の心の中はモヤモヤしている。
でも、緑川さんの現状を考えると、そうも言っていられない。
今彼女が頼れるのは、自分しかいない。
というか、社員が色んな場所でバラバラに住んでいるのに、緑川さんの住んでいるアパートと自分
の住んでいるアパートが近いことが、ちょっとした運命を感じるくらいびっくりしている。
自分は適当に選んだ物件に住んでいるだけだけど、不思議な運命を感じるくらいの偶然だった。
自分は予め、仕事が終わってから緑川さんに、「今から向かいます」というメッセージを送ったの
だが、既読がつかない。
電話もしたのだが、全然出ない。課長が連絡した時、メッセージは送れていた筈。
一人暮らしをする社会人にとって、スマホは『命綱』
スマホを落としたり、電池が無くなれば、緊急事態があっても対処できない。
自分が独り立ちする時も、両親から口酸っぱく言われた。
「スマホの充電だけはこまめにやりなさい!」と。
___まぁ、「こまめにやりなさい!」と言われたのは、スマホに限った話じゃないんだけど。
両親の言葉を思い出し、嫌な予感が頭を過った自分は、急いで会社近くのスーパーで、お見舞いの
品を買い揃える。
『万が一』が何重にも重なった結果、エコバックが千切れそうなほど、大量の物を購入。
『お粥』や『ゼリー』などの食べやすい食べ物から、『ティッシュ』や『トイレットペーパ』と言
った日用品まで。
おかげで給料日前の財布が、さらに寒くなってしまった。でも、不思議と損をした感覚はしない。
(とりあえず、早く行かないと。
一人暮らしする前に、『救急車』とか『警察』の電話番号を登録しておいてよかった。
___まぁ、そんな一大事にはなっていない・・・・・事を祈りたい。)
緑川さんは、普段から社員のどんな些細なメッセージにも、真面目に返信している。
だから余計に、不安が加速していく。
そんな緑川さんが、メッセージを送れないほどの状況は、考えられそうで考えられない。
それに、緑川さんがメッセージに既読をつけるのは、割と早い筈。
何度か自分も、仕事の連絡で緑川さんにメッセージを送った事がある。
その時は、一分もしないうちに返信が来ていた。
メールでも的確なアドバイスをくれる緑川さんだった為、緑川さんの凄さに、嫌気が差してしまっ
た時もあった。
目指している先輩が凄すぎると、目指すのがだんだん馬鹿らしくなってしまう。
今はもうそんな気持ちはない。というか、そんな気持ちを自分なんかが持っていいわけがない。
嫌気が差すのは、せめて資料作りで誤字脱字がなくなってから。
緑川さんは資料作りが完璧にできるからこそ、まだまだの自分にも気を配れる。
でも今日に関しては、彼女自身が周りを気遣えない状況になっている。
珍しいけど、かなり恐ろしい状況。今現在、緑川さんがどうゆう状況が分からないのが尚更怖い。
家の中で一人、痛みに耐えながら苦しみ続ける緑川さんを想像したら、冷や汗が流れる。
電車に揺られながら、そんな心配をしている自分を、周囲の乗客は心配そうに見つめている。
今の自分が挙動不審なのは、自分でも分かっている。
でも、走り続ける電車の中で、さらに自分が走りたい気持ちを抑えるのに精一杯。
自分は電車に乗っている間も、何度もスマホを確認しては、既読したか確かめていたけど、結局既
読はつかないまま。
焦りすぎて、スーパーで買った物をぎゅうぎゅうに詰めこんだ『エコバッグ』を、電車の床に置いたまま電車から出そうになった。
一人暮らしを始めてから、真っ直ぐアパートに帰らないのは久しぶり。
初めての一人暮らしをスタートさせた時は、仕事が終わると、スーパーに足を運んでは、食材を買っていた。
でも、仕事が忙しくなると、自炊する気力すら湧かなくなり、結局コンビニのお弁当やおにぎりば
かりの毎日になってしまう。
それに、一人暮らしの場合、自炊する方が意外にお金を使ってしまう場合もある事に気づいた。
物価も高いけど、『電気代』や『水道代』も上がり続けている。
テレビでもよく「健康の為に自炊しよう!」という触れ込みが見られるけど、実際はそんな単純な話
ではない。
お金の問題もあるけど、仮に自炊をしたとしても、『自分の好きのなものばかりで埋め尽くされた
食卓』になるかもしれない。
自分から苦手な食べ物を克服しようと努力するのも難しい、親と一緒に過ごしていた頃は、嫌でも食べさせられていたけど。
それに、仕事が忙しくなると、もう健康に気を遣ってもいられない。
歯車として回っていくだけで精一杯な自分(という名の歯車)にとっては、油をさす事も、欠けた部分を補強する時間も惜しい。
せめて、緑川さんくらい仕事がきちんとできたら、自分の事にも気を遣える。
それが上手くいかない間は、やっぱり無理をするしかない、そうゆう結論に至ってしまう。
(___もしかして、緑川さん、仕事で無理しすぎたのかな?
ああゆう人って、疲れとか悩みとか、顔には出さないから。もしかしたら・・・)
街灯に照らされた遊歩道を歩きながら、自分はそんな事を考える。
相変わらずエコバッグを持つ左手が痛いけど、早足している脚も、少し痛くなってきた。
デスクワークでも、体は疲れてしまう。色々と考えを巡らせるのも疲れてしまう。
もう色々と思考が麻痺するくらい疲れてしまった自分の脳、誰も何も悪くないのに。
いつもより早く歩いているせいか、すれ違う学生や社会人が、いつもより遅く歩いているように見
えてしまう。
そのせいで、時折通行人と肩がぶつかりそうになるけど、そんな事すら気づかないくらい、自分は焦っていた。
自分の住むアパートは、駅から割と近い。住宅街の他に、コンビニも近くに2軒ある。
だから通行人や車の量も多く、この時間帯はまだまだ人気が多い。
緑川さんが住んでいる場所は、駅から少し離れている、住宅が密集している場所。
駅からどんどん離れていくと、通行人の数も減っていき、街灯の光も、心なしか弱くなっているように見える。
昼間は子供や母親で賑わっているであろう公園は、夜になるとやっぱり言い表せない恐怖がある。
誰も座っていない、古びたベンチやブランコですら、恐ろしい存在に感じる。
夏の夜の生暖かい空気が頬を滑ると、何故から鳥肌が立つ。
周囲よりも真っ黒に塗りつぶされている木々が、風に揺られて自分を手招きしているように見えた。
今度は『違う意味』で早足になる自分の脚は、既に限界ギリギリの筈。
でも、今の自分には、『立ち止まる勇気』がない。
今ここで立ち止まったら、もう何もかも投げ出してしまいそうで・・・
公園近くの自販機の異様な眩しさだけが、自分の心の支えになっている気がする。
だがよく見ると、自販機には虫が数匹張り付いている。
同じく虫が群がっている街灯の真下を通りたくない自分は、暗い道を蛇行しながら進んでいく。
早足で歩きながら蛇行する自分は、はたから見れば完全に不審者だけど、もう今の自分は、通報さ
れる事すら怖く感じない。
緊張と葛藤が混ざり合った結果、もう何もかもが頭に入ってこないから。
自分はスマホの地図アプリを確認しながら、緑川さんの住んでいるアパートを探す。
街灯の灯りが心もとないけど、普通の一軒家とアパートなら、闇夜でも見分けられる。
駅からだんだん離れていくと、自然が目立つようになり、公園から聞こえる虫の鳴き声も、何だか
懐かしく感じてしまう。
地方に住んでいた時は、よく虫を見かけていたけれど、自分は家に侵入してきた虫を、外に逃す事すらままならなかった。
そんな自分に、昔『百姓(昔の農家)』をしていた祖母から、こんな叱責を受けた事も。
「いいか、虫は見つけ次第潰しなさい!!」
まるで軍人みたいな言葉に、今思い返すだけで笑えてしまう。
(___あんな度量、自分に少しでも遺伝して欲しかったけど。
自分なんて、女性の家に行くだけで、冷や汗が止まらないんだ。
ばあちゃんにそんな事話したら、また怒られそうだな・・・・・)
「目的地です。」
「あっ、はい! すいません!」
ぼんやり過去を振り返っていたら、スマホからの音声が、自分を現実に引き戻す。
一瞬気が動転して、目の前が真っ暗になったが、目の前にはもう、アパートが鎮座していた。
その見た目は、自分の住んでいるアパートと同じ雰囲気だけど、何処からか『土の匂い』がする。
(何処かに『畑』でもあるのかな・・・?
えーっと、緑川さんの部屋番号は、『103』号室、一階の一番奥か。)
自分の住んでいるアパートと同じ、二階建てのアパート。
家賃も、自分のアパートとそこまで違いはなさそう。
こっちの地域には来たことがなかった自分は、ちゃんと自分の住んでいるアパートまで帰れるか不
安だった。
ずっと、アパートと会社の往復ばかりだった為、駅からもう少し離れると住宅街が広がっている事すら知らなかった。
アパートの玄関を照らす灯りも、何だか弱々しく感じる。
ホラー映画の舞台になりそうなくらい。
この時間帯、住宅街はとても静かだ。自分が歩く足音ですら、鼓膜に響く。
自分は『103』の目の前で立ち止まると、表札を確認する。念の為。
呼び鈴の上には、木版にしっかり、『緑川 苗』と書かれている。
そこで自分は、改めて思い出した。緑川さんの『名前』
いつもは苗字の、『緑川さん』と呼んでいたから、下の名前が頭から抜けていた。
(こうゆう時、下の名前で呼んだ方が・・・・・
いやいや、ただお見舞いに来ただけなのに、どうしてそうなる・・・)
自分は、震える人差し指を、ゆっくりとインターホンのボタンへ近づける。
そして、爪とボタンが触れると同時に、自分は覚悟を決めた。
部屋の中がどうなっていたとしても、決して驚かない、決して引かない。
ちゃんと自分の役目を終えて、課長にメッセージで状況を伝える。それだけを頭に入れて。
ピンポーン
「_______________
__________
_____
ん???」
ピンポーン
「_______________
__________
_____
出ない・・・???」
その後、もう一度チャイムを鳴らしてみるが、部屋の中から音がする事もない。
この状況に自分は、さらに嫌な考えが頭を過った。
(まさか・・・・・動けなくて倒れてるんじゃ?!!)
自分がドアノブを捻ってみると、施錠されていない。ますますおかしい。
『女性の一人暮らし』なら、普段から鍵をかけるのが普通の筈。
ニュースでもよく注意喚起されているくらいだ、自分もそうしている。
会社に忘れ物をすることもない緑川さんが、施錠を忘れるわけない。
となると、なぜ施錠されていないのか。考えられるのは、『施錠する事すらできない状況』
(自分や課長が思ってるより、よっぽど重症かもしれない・・・!!
でも、ただ安静にして寝てるだけ・・・という事も・・・・・
いやいや、仮に寝てたとしても、チャイムの音には気づくはず。
かと言って、『居留守』・・・とも思えないんだよな。
だって課長がメッセージを予め送ってるのに、居留守するとも思えないし。
___こうゆう時、やっぱり部屋に入って確認したほうがいい・・・よね?
万が一、緑川さん一人ではどうしようもない状況だったら大変だし。
連絡もきちんと入れているわけだし、買った物だけドアノブにかけて帰るのも・・・ちょっと。
ええい!!! もう失礼でも何でもいいや!!!
それに、もし『最悪の事態』になってたら、責任を問われるのは自分になるわけだし!!!
そんな事になるくらいなら、嫌われる覚悟で・・・!!!)
自分は思い切ってドアノブを回し、ドアを開ける。