12
母を追いかけ裂け目に入って数秒ほどしたところで、巨大なガラスが砕け散るような音が背後で鳴り響いた。
(……繋がったな)
ぽつりとレニが言葉を零す。
――繋がった?
(この先の世界と、だ。どうやら、辿りつくには今の音が齎した結果が必要だったようだな。面倒な因果律という奴だ)
齎した結果とは一体なんなのか、それは訪ねるまでもなく理解出来ていた。先程まで居た、倉瀬蓮がすでに死んでいる世界が崩壊したのだ。
正直、裂け目に入ってすぐにそんな事態を迎えるほど逼迫した状態ではなかったはずだけど、この裂け目の先にあった真っ暗闇のトンネルの中の時間は、明らかに先程まで居た世界よりも速かった。向こうの分針がこちらでは秒針に置き換わっているような感じ。この中でもたもたしていると、下手をしたら浦島太郎になってしまうのかもしれない。
まあ、そんな先の心配よりも今は、ミーアたちがどうなったのかの方がずっと気がかりではあったけれど。
(そろそろ外に出るぞ。どうする?)
――レニは休んでいていいよ。多分、まともな戦いにはならないだろうから。
そう答えながら、身体の主導権を完全に自身のものにする。
ここは真空のような場所だ。酸素がなく、ただただ寒い。魔力を持たない人間なら入っただけですぐに死んでしまう事だろう。でも、トルフィネに続く孔にはそういうものはなかった。この違いは一体なんなのか……考えている途中で、夜の空に放りだされる。
月が近い。
此処は遙か上空だ。雲よりもずっと高い場所。酸素も薄いし、もしかしたら成層圏あたりなのかもしれない。
とりあえず、姿勢を制御しつつ重力に従う。
ジェットコースターに乗った時のような、臓器の持ち上がる気持ちの悪い感覚を伴って高速で落ちていく身体は、それでも墜落死なんて事態を招くことはない。
傷付くのは魔力のないこの世界だけだ。その理不尽さに皮肉めいた安堵を覚えながら、視力を強化して地上に目を凝らす。
今のところ、街に大きな異変は見当たらない。燃えていた筈の民家も鎮火されたのか、此処からでは見つける事が出来なかった。
魔力の気配も散漫だ。どこに母がいて、どこにレドナさんが居るのかもわからない。そういうジャミングが、レニの感知範囲全域に張り巡らされていた。
ただ、魔力があるという事は、間違いなくこの世界に二人は居る。
気になるのはレドナさんの目的だが……それよりも、まずは駅を見つけるところから始める必要がありそうだ。色々と見渡してみたが、見知った建物を何一つ発見できなかったのだ。
(ずいぶんと長い線路だな。本当に、世界全てと繋がっているみたいだ)
こちらの視線を共有しているレニが感慨深げに呟く。
そこに若干嫌悪の色が滲んでいたのは、この世界の街というものに無駄が多すぎるからか。いずれにしても、彼女にこの世界は合わなかったという事なんだろう。
ともあれ、線路を辿って順当に駅を見つける事に成功した。
落下も順調で、あと三十秒ほどで地面に降り立てそうだ。
念のため、魔力の糸を先にビルの屋上に伸ばして強度を確保し、着地に備える。
「……」
無事成功。
建物には罅一つ入っていない。
その結果に小さく息を漏らしたところで、周囲の喧騒に意識が流れた。
ここは歓楽街の一角で、多分今は一番賑わう時間帯なんだろう。
とりあえず纏っていた鎧を解除して、先に降り立った先人に倣うように魔力を適当に散布し自身の正確な位置を把握されないようにしてから、裏路地に飛び降りる。
戦闘開始時から鎧を展開していたおかげで、服のほうにはそんなにダメージはない。動き回った際に内側で傷んだ箇所がいくつかある程度だ。黒の上下だった事もあり、首筋に付着していた血が目立つこともなさそうだった。その原因である頬の傷も、鎧を消すと同時に昇華の魔法を使い既に完治させている。
これなら、大通りを普通に歩く事も出来るだろう。……まあ、ビルからビルへ飛び移りながら駅の見える場所にまで向かった方が良かったのかもしれないけれど、向こうの所在が掴めない以上、こちらも出来れば隠密行動で行きたいので、魔力を使わないに越したことはない。ここは慎重に行くべきだ、と自身の行動に正当性を持たせつつ、大通りに出る。
ここから駅までは、大体徒歩で一時間くらいだろうか。
歩いていると複数の視線を強く感じたが、それらは全て一般人のものだ。そして彼等の視線は見事にみんなレニの容姿に向けられている。トルフィネでも似たようなものだったので、特に気にするような事でもない。
まあ、声を掛けられる心配は少しあったけれど、その時はその時で此処が何処かを訊けばいいし――と、思った矢先、左手から声を掛けられた。
「お姉さん、すっごい美人だね!」
視線を向けると、そこにはくすんだ金髪の優男がいた。
わかりやすく軽薄な印象で、馴れ馴れしく距離を詰めてくる。そういう風に女性に声を掛けるのに慣れているんだろう。ただ、その目はどこか冷ややかでもあった。
ナンパって感じじゃない。だとしたら、キャバクラとか風俗のスカウトかなにかといったところだろうか。
「……ってか、本当、この商売してそれなりに長いけど、マジで別格だわ。はは」
じっと見つめていると、やや気圧されたように半歩ほど下がった男が取り繕うように言った。
多分、嫌な予感がしたんだと思う。それに起因するのはレニの感情だ。彼女は明らかに目の前の男に不快感を覚えていて、その空気が外にも漏れてしまっていたのである。
おかげで、目の前の男の精神状態は、なかなか良い感じだった。出鼻をくじかれた相手の主導権というのは、いつだって握りやすい。
俺は条件反射的にだろうポケットに手を伸ばそうとして途中で止めた男の、そのポケットの中からクラブの名刺を取り出し、
「ここからは近いの?」
「い、いや、少し遠いかな」
「じゃあ、ここには車で?」
「あ、ああ」
「そう、それは良かった」
名刺を男の胸ポケットの方に入れて、俺は微笑む。
「ちょうど今、行きたい場所があるんだけど、そこまで連れて行ってくれるなら、貴方の話、もう少し詳しく聞いてもいいよ」
「……それは、お安い御用だな」数秒ほど迷うよな間をおいてから、男は頷いた。「どこに行きたいんだ?」
「まずは駅まで」
そして、その駅が倉瀬蓮の暮らしていた街に近ければ、そのまま街まで連れて行ってもらうのがいいだろう。遠ければ、財布を借りて電車を使う。上手く交渉すれば十分可能な筈だ。もちろん、車内で相手が下手な事をしてきたら、それを口実に奪ってしまってもいい。
そんな考えの元、十メートルほど先に停車していた男の車の後部座席に乗り込む。
薄っすらとした香水の匂い。これはラベンダーだろうか。彼の趣味なのか、恋人の趣味なのかは判らないが、なんにしても懐かしい、トルフィネにはない匂いだった。
「……ところで、なにか危ない目にでもあっていたのかい? 服、少し汚れてるみたいだけど」
運転を開始し、バックミラー越しにこちらを見たところで、こちらの異常さの一部に気付いたようだ。
ちょっとアクセルを踏む力が増したのが解った。血の匂いも嗅ぎ取ったようで、もしかしたら本当にヤバい女なのかもしれないと、自身の勘を裏付けたのかもしれない。
「貴方がただ商売熱心なだけの親切な人であるのなら、気にしなくてもいい事だよ。それよりも、もっと気の利いた話をして欲しいな」
「気の利いた話、って言われてもな……」
「女性と話すのは得意でしょう? 会話デッキくらいいくらでもあると思うけど?」
「とびきりの美人と話す機会っていうのは、こういう仕事をしていてもそう多くはないんだ。嬉しい事にね」
「だったら天気の話でもいい。なんなら西暦の話とかでもね」
「西暦?」
「今って何年だったかなって、少し思っただけ。そういう事を気にする仕事はしていなくてね。そういう職種の人、貴方の周りにも結構いるんじゃない?」
「あ、、あぁ、なるほど。たしかにいるね」
苦笑いのようなものを浮かべながら、男は今が何年なのかを教えてくれた。
どうやら今日は、倉瀬蓮が車に撥ねられて死んだ前日のようだ。間違いなく偶然ではないだろう。この世界の俺はまだ生きている可能性がある。もちろん、それ以前に死んでいる可能性や、そもそもそんな人間誕生すらしていない可能性もあるわけだけど。
「――と、そろそろ到着だな」
適当に他の情報なんかも仕入れているうちに、駅が見えてきた。
情報収集の中で出てきたのと同じ名前の駅だ。彼がカーナビを使ってくれたらもっと早い段階で確信を持てたんだけど、このあたりには相当精通しているらしい。……まあ、それはさておき、駅の名前には一応の覚えがあった。
俺が暮らしていた街からは大体七駅くらい離れているだろうか。車で向かうには少し遠い気もするけど、行けない距離ではないし、それに電車は一本道だ。なにかがあった時、臨機応変にルートを変える事は出来ない。
さっきまで居た世界と根本的に時間の流れが違う以上、この世界以外の件にはもう間に合わないと見てもよさそうだし、ここは速度よりも自由の利く車を選びたいところだけど……
「それで、どうするんだ? 別に駅で別れなくても、よっぽど遠い場所じゃないなら、このまま車で連れてってやれるけど?」
声の上擦り具合からやや強がりのようなものが窺えたが、そう言って貰えたことだし、ここは彼の好意に甘える事にしよう。
「……ありがとう、貴方は本当に親切な人みたいだね」
感謝の言葉を述べてから、近所にあったデパートに行ってほしいとお願いして、俺は魔力の探知に意識を傾けるために目を閉じた。
精度ではなく範囲を優先させるが、どれだけ伸ばしてもレドナさんとディアネットの二人の淡い魔力が海のように広がっている。
下手をしたら世界中がこの状態になっているのかもしれない。魔力への抵抗力がない世界故の現象だ。
自宅に戻ればなにかしらの手がかりは得られるだろうけど、そこでも何も見つからなかった場合、相手がアクションするまで手立てが無くなる恐れもある。
ただ、それは同時に母が目的を達成して、この世界で静かに生きるのを選んだ事を示している可能性でもあって――
「――今すぐに引き返せ」
不意に、運転席からしわがれた老人の声が響いた。
男のものとは明らかに違う声。その異常さに目を開くと、首を百八十度回してこちらを真っ直ぐに捉え、白目を剥いたまま嗤う彼の姿が、そこにはあった。
次回は四日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




