08
ごとり、という金属音と共に、真紅の水塊が跳ねるように動いた。
人間の形をしているものが、人間に必要な予備動作の全てを無視して迫ってきたためか、レニの反応が一瞬遅れる。
紙で指を切ったような鋭い痛み。ヴァネッサが振り抜いた右足が鎧を突破して、レニの右頬を切り裂いたのだ。
傷自体は浅く、血が溢れるほどでもなかったが、直に触れられてしまった。この手の魔法は、ヒルのように絡みついてくる。
――レニ!
(解っているっ!)
俺の声に苛立ちを吐き出しながら、レニは義手の左手でたった今生じた傷口を抉り取った。
口内が覗けるほど深くはないが、頬の半分くらいは削り取ったと思う。おかげで、かなり痛い。
が、それをしなかったら、瞬く間に傷口に付着したヴァネッサの体液が浸食を開始してそれ以上の損害を齎していただろう。
「……捨て駒風情が」
首筋に垂れていく自身の血に屈辱と怒りを滲ませながら、レニが左腕に甚大な魔力を込めていく。
人を殺すには過大な――けれど、これを無力化するには些か物足りないように感じられる暴力の塊。
――昇華を使うよ。
頷きを得るより先に、俺は左腕の義手に込められていた魔力を強化する。
そうして魂の設計図だって破壊できそうな凶悪性を有した左腕を、レニは渾身の力を持って振り抜くが、ヴァネッサは躱さない。
速度は上げていないし、モーションも大きかったので、回避が出来なかったわけではないと思うが、避ける素振りすら見せなかった。
結果、左腕は易々とヴァネッサの上半身を吹き飛ばすが、それ以上の成果を上げる事は叶わなかった。あのヘリたちのように無力化するには至らなかったのだ。
ヴァネッサは、異様な速度で元の状態に戻り、お返しとばかりに左腕を打ちおろしてくる。
先程までなら、レニは受けるという選択を取っただろう。だが、もはやそんな驕りは許されない。兜の強度は鎧の中でも特に優れていたのだ。それが突破された以上、昇華の魔法でも使わない限りは防げないし、この魔法は強力だが常にリスクを伴う。安易に使うのは避けるべきだ。
(……これでもまだ動くか。目障りな事だな)
回避際に両足の膝を右手に具現化させたナタのような武器でぶった切り、肉厚のブレードに換えた左腕で大上段から両断しても、まったく衰える事のない速度で元に戻った人型を前に、レニがため息交じりに呟く。
ただ、そこに焦りや不安の色はない。それを抱いているのは俺だけだ。
理由は明白で、ヴァネッサのこの状態が一時的なものだとレニは判っているからである。彼女は生命力全てを担保に莫大な魔力を生み出したが、それはけして恒久のものではなく、こちらの攻撃を受けるたびに物凄い勢いで削られていく消耗品でしかない。
あと百回も切り刻めば、魔力は尽き、形を保つ事も出来なくなるだろう。
ただ、その百回が問題で――
(……脳無しになっても、避ける事は出来るようだな。今の攻撃を受けて、対応の種類が切り替わった感じか)
斬撃が空振りした音を前に、レニが小さく鼻を鳴らす。
先程こちらに一撃を入れたように、今のヴァネッサの動きはかなり速く、決着をすぐにつける事は難しそうだった。
それに、周囲の状況もよろしくない。
回避したヴァネッサを追いかけようと踏み出そうとした足が、地面に着かなかった。
身体が浮き上がったのだ。
視線を空の裂け目に向けると、結界は虫食い状態となっていた。
目を凝らしてみると、赤い霧のようなものによって溶かされているのが確認できる。いつから行っていたのかは不明だけど、ヴァネッサがやったようだ。
一気に空に向かって堕ちていない現状、まだ向こうの法則に完全に呑みこまれたわけじゃないけど、それも時間の問題だろう。イルが対処してくれる事には期待したいが、此処と向こうでは時間の流れが違うので、どれだけ彼が迅速であっても間に合わない恐れもある。
それに、そんな事を気にしている暇があるかどうかも怪しい。
空を飛べるわけでもないこちらにとって、今の状況はかなり不利だ。なにせ、敵はもう肉体という枷を持ち合わせていないので自由自在に動けるのである。まあ、足場を具現化すればある程度空中でも動けるだろうが、その差はかなり大きいと見てもいいだろう。
その読みを裏付けるように、ヴァネッサの猛攻が始まった。
UFOのように無軌道な動きと、身体のあらゆる箇所から突然に放たれる攻撃は、対人戦闘の経験というものを一切反映させてくれないデタラメだ。
レニはなんとか全ての攻撃を捌いてみせるが、反撃をする暇はない。
その事実に、レニが歯を軋ませたところで、
「――レンさま」
と、ミーアの声が届いた。
直後に、巨大な落雷がヴァネッサに叩きつけられる。
そうした生まれた隙を使って、レニがそちらに視線を向け、次にミーアが向けていた視線の先に眼を向けると、そこには母の姿があった。
生前とまったく変わらない姿。
ゆっくりと裂け目に向かって周囲の建物が浮上し始めたタイミングで外に出ていたのか、他と比べて向こうの重力の影響を受けていない家屋の上に立ち、目の前の小さな空間の歪を両手でこじ開けている。
その孔が広がるたびに、上空にある小さな方の孔が広がりを見せているようだった。
あれを続けさせるのは不味い気がする。
「行ってください。ここは私が引き受けます」
「いや、でもそれは――」
「問題ありません。貴方が敵を引き受けている間に、準備は全て完了しました。それに、もう敵の手の内も解っています、この相手は、私一人の方がやりやすい」
俺の言葉を遮って、ミーアは静かにそう言って、バチバチ、と静電気の音を響かせる。どこまでも鋭利な魔力。そこには彼女のこの戦いにおいてのスタンスと、この戦いへの強い意志が窺えた。
雪辱を晴らす機会が欲しい、という意志だ。
「ラウ・ベルノーウの方も何とかします。……彼女の、弟ですしね」
「……判った。気をつけて」
その言葉が最後の後押しとなって、俺はヴァネッサから視線を切り、具現化した剣を地面に突き立て、その腹を足場に母の元に向かい跳躍した。
§
(どうやら、あの人物で間違いなかったようですね)
ただ、なんだろう、憎むべき相手を見る眼としては少し違和感を覚えたが――
「――っ、勝手な事をしないでください」
思考を中断し、レニを追いかけようと動き出したヴァネッサの動き出しに合わせて、ミーアは雷撃を放つ。
最速の攻撃だ。認識より先に命中する。
が、大したダメージはあまり見当たらない。少し速度を優先しすぎたようだ。威力とのバランスは考えなければならないだろう。まあ、牽制としては十分だったので、この一手に関しては問題ない。
(この器に残されている命令は、おそらく二つ)
一つは創造主を守る事、もう一つは空を裂くこと。
前者は距離によって機能するものであり、後者は目的を果たすまで続くように設定されている。
創造の魔法というものについてそこまで詳しくはないが、この命令が刻まれたのは直近だろう。そこまでの強度はない。だから、こうして攻撃を続ければ、命令以前の段階に用意されていたであろう自己防衛の法則を優先してくれる筈。
その読みはおおよそ正しかったようで、ヴァネッサはレニへの追撃を三度ほど喰らったところで諦め、こちらへの攻撃に移行した。
正しくは、ラウも巻き込む範囲攻撃だ。
(味方への識別機能もあり、か。さすがに、すべてが都合良くとは行きませんね)
ミーアは問題なく処理できるが、ラウの方はそうもいかない。テトラの相手で精一杯なのだ。そのテトラの行動には支障なさそうだし、タイミング次第では一手で瓦解する。
(やっぱり、無理が必要か……)
心臓に手を当てながら、ミーアは目を細める。
周囲に雷の魔法陣を展開しているので最大限の火力は出せるが、防戦一方に傾けるには相当な消耗が求められるだろう。
心臓の空白を埋めてくれた擬似核の強度は、正直そこまで高くない。
加減を間違えれば、消耗が過ぎれば、核は割れその衝撃で心臓も破裂して即死する事になる。
(……まあ、それだけの事といえばそれだけの事ね)
殺し合いで命を賭けるのは当たり前だ。
死ぬ条件の数が、敵によって変わるのも然り。
だから、いつも通り軍貴らしく、さっさとリスクへの覚悟を済ませて、ミーアは全盛期の自身に迫る性能をもってヴァネッサに雷撃の嵐を見舞う。
鼓膜が一つの音で支配されてしまうほどの連撃だ。
表面の水が弾け飛び、ごく少量が蒸発反応を見せる。
結果、じわじわと紅い霧が広がっていくが、その霧も雷撃で吹き飛ばすと完全な質量の消失を確認することが出来た。
こちらの消耗を鑑みれば体積の全てを削りきる事は難しいが、このまま続けて行けば半分程度まで損なわせる事も可能――な筈だったのだが、横槍がそれを拒否してきた。
ラウ・ベルノーウの身体がこちらに向かって吹っ飛んできたのだ。
こちらが攻撃に専念し、外への意識を外したタイミングで、かろうじて保たれていた拮抗が崩されたらしい。ヴァネッサの作ったきっかけは早くも効果をあげたわけである。まあ、片手片足がまともに使えない状態のラウなので、仕方がないといえば仕方がないが。
「まだ戦えますか?」
その彼を受け止めて支えつつ、ミーアは訪ねる。
「……見たら解るだろう?」
義手を原型が留めていないほどに壊され、右の鎖骨に大穴をあけて凍傷により壊死を始めている肉を見せた状態のラウが押し殺した声で返してくる。
戦う意志はまったく色褪せていない。もちろん、そんな要因程度でここから立て直せるとは思っていないが、最低限の時間稼ぎくらいはまだ可能だろう。
「相手を変えますか?」
「いいえ、それは面倒だから、いっそ二対二でやるのはどう、かしら?」
ミーアの問いかけに答えたのはテトラだ。
彼女は裂け目の影響を一切感じさせない軽やかさでヴァネッサの隣に降り立ち、
「私も、これとなら上手くやれるでしょうし、いい加減、彼女の後を追いかけないといけないから、早く終わらせたいの、よね」
と、魔眼を爛々と輝かせながら、淡く微笑んだ。
瞬間、ミーアが自身の身体に纏わせていた雷の結界が、蝋燭の火のようにふっと掻き消される。
それに対抗しようと魔力を強めるが、生成できた稲妻は酷く微弱なものだった。これでは武器として使えない。ただし、体内の魔力が消されるというほどの暴挙は出来ないようなので、単純な身体強化などは利用できそうだ。
なら、それほど問題はない。どの道、相手の拒絶の魔法がある以上、遠距離戦ではジリ貧になるだけなのだから。
「奇遇ですね。私も早く貴女たちを始末して、後を追いたい思っていたところです」
「では、つまらない足掻きは見なくて済みそう、ね? 良かったわ。……ええ、本当に」
肘から下を失った右手の損失を埋めていた氷の刃を更に巨大に、テトラが疾駆した。同時にヴァネッサの身体から、無数の水の弾丸が発射される。
それに対し、ミーアもありったけの魔力を細剣に込め、最速の斬撃を持って迎え撃った。
次回は四日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




