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テトラ・アルフレアの左手に移植された黒の魔法は、あらゆる魔力を拒絶する。
重要な事は魔力であるという点だ。魔力を極力抑えた状態ではそれほどの強さは発揮されないし、
自身にまで被害が及ぶ事はない。
事実、魔眼以外の二つの魔力を枯渇寸前まで使い切ったテトラに対して、解き放たれた拒絶は普段ほどの猛威を揮う事はなく、体内の血管を十数本程度破る程度で済ませてくれた。
……まあ、それでも十分に致命傷間近ではあるが、設計図が壊れる事もなく生存できた時点でこのプランは成功だったと言ってもいいだろう。
欲を言えば、最終段階の前に決着がついて欲しかったところだが、そのあたりは自身の未熟さと受け入れるしかない。
(とりあえず、色々と普段に戻さないと、ね)
切り落とされた瞬間に凍結させた左腕の付け根に視線を向けて、凍結を解除する。
そのタイミングで、地面に落ちていた左手が魂の設計図に従うかのように自動的にくっついた。他の色とは反発しか起こさないこの魔力だが、同色に対しては溶け合う性質があるのだ。
ただし、それはあくまで血液に含まれている魔力同士に限られており、千切れた神経などが都合よく接合されるという事はない。むしろ、別系統であるそれらに対しても反発は機能する。結果、治癒の際には激痛を伴うのだ。
おかげで、勝利の余韻に浸る事も出来ない。
そもそも死体が残っていない勝ち方しかできなかった時点で戦利品もなにもないのだから、喜びようもないわけだが――
「――油断しすぎだよ?」
囁くような声が聞こえた瞬間、繋がったばかりの左腕がまた切り飛ばされ、さらに両足の膝から下の感覚が吹き飛び、地面に背中から落ちる前に右手の感覚もなくなった。
そして、受け身も出来ず魔力もない身体が地面に叩きつけられ、テトラは肺を握りしめられたような苦しみを覚えながら、自分から四肢を奪い取ったレニを見上げる羽目となる。
傷一つない彼女。
(あれを、鎧で防ぎきった……?)
いや、それはありえない。彼女の防護は極めて強固ではあるが、絶対ではない事が既に証明されているからだ。
だとしたら、考えられる可能性は一つ。至極単純に、爆発に巻き込まれる前に安全圏まで離脱したという線だ。
でも、それこそありえないだろう。だって、ほぼゼロ距離で起動した不意打ちなのだ。下地区の連盟が仕切っている一帯を完膚なきまでに蹂躪するほどの範囲でもあった。
それを瞬き一つにも満たない時間で逃れるなんて、時間を止めでもしない限り不可能。
(……つまり、具現化以外にもなにかあるということ、ね)
おそらく時間を止めるだなんて非効率な魔法ではないだろう。そこまでの魔力量は彼女にはないし、あるのなら、そもそも単純にその質量で押しつぶすだけで全てが解決する。空間転移の線も薄い。あんな繊細な魔法が、あの状況で使える筈がないからだ。……まあ、なんにしても、先に切り札を切った自分が負けるのは必定だったという事なんだろう。
(仕方がない、わね。自殺でもして幕引きとする、かしら)
彼女に失望される未来よりは、遙かに気が楽だ。
心臓を凍らせてしまえば、すぐに目的も果たせる。これ以上痛いのも御免だし、そうするとしよう。
「貴女の勝ち、ね。でも、それも徒労で終わり、よ」
テトラは眼を閉じて、その引き金を引こうとして――
「まさか、彼女が負けるとは思っていなかったよ。何事も保険というものは掛けておくものだな」
寸前に、落ち着き払った彼女の声を聞いた。
思わず目をあけると驚愕に満ちたレニの表情を拝むことが出来て、満足に動かせない身体をそれでも捩じらせ、その視線の先を見ると、そこには主である彼女――ヴァネッサ・ガルドアンクと、彼女が生み出した水の剣によって胸を刺し貫かれたミーアの姿があった。
§
「……レニさま、申し訳、ありません」
消え入りそうな声が、鼓膜に届く。
直後、ごほごほ、と血反吐を吐く苦しげな音が胸を締めつけた。
ミーアの状態は酷かった。手足の健を切り落とされて、心臓を掠めるくらいの箇所を串刺しにされ、背後から首を絞められて大盾のように扱われている。
「自分を責める必要はない。君は善戦した。私の方が先に胸を貫かれたくらいだしね」
淡々とそう語るヴァネッサの唇の端には、それが事実である事を物語るように血の痕残っている。にも拘らず平然としているのは、彼女が人間ではなく人形だからなのか。
「さて、お互い手酷い目にあったようだし、これ以上酷い事にならないためにも建設的な取引をするべきだと思うが、どうしようか?」
こちらに視線を向けて、ヴァネッサが言う。
「取引をする、理由があるのか?」
昇華の魔法は今問題なく使える。
テトラの攻撃を垂直跳び一つで回避したように、瞬きの隙間すらなく、目の前の敵の首を撥ねる事も、その気になれば可能だろう。
けど、そんなこちらの優位性を読み取ったかのように、
「彼女の体内には毒を盛った。私に何かあれば即座に発動する毒だ。この街で治せるのは、マーカス・オブライトくらいだろうか。だが彼は今、どこにいるのだろうね?」
と、ヴァネッサは悩ましげな表情をもって言ってきた。
そこに含まれた悪意めいた色に、否応なく表情が険しくなる。
「そう怖い貌をしないで欲しいものだな。君が大人しくしているのであれば、なんに問題もない。私は別段、君を害する事を目的にしているわけではないのだから」
「じゃあ、どうしてリッセを殺した?」
その言葉を吐き出した瞬間、思った以上に怒りが溢れた。
それを物語るように荒い魔力の奔流がヴァネッサの髪をはためかせる。
「ディアネットは私の傑作だった。彼女はそれを破壊した。報復は酷く自然な事だと思うが、君は違うのか?」
窘めるような微苦笑。
ただ、その眼差しの奥にある暗さは異様なほどで――
「どちらにしても、早く決めて欲しいものだな。今日はとても忙しい日なのでね。これ以上、一人の他人に時間を割くわけにもいかないんだ。それに出血は、この世界では最も取り返しのつかない状態でもある」
この世界では、という部分に引っ掛からずにはいられなかったが、人質交換を急いだ方がいいのは確かだろう。
「……わかった。でも、妙な事をすればただでは済まさない」
「テトラは私の切り札だ。それが敗北した以上、どのような手段を用いたところで君に勝てる者はいない。そして私は、先程も言った通り君に興味もない。……こちらから返そう。今の力関係を踏まえれば、それが適切だろうしね」
淡々とした口調でそう言って、ヴァネッサはゆっくりとこちらに近づいてくる。
そして三メートルほどの距離に迫ったところで、ゆっくりとミーアを跪かせて彼女に刺していた水の剣を消し去った。
既にかなりの血液を失っているのか、そこから血が飛び散る事はなかった。
「ミーア!」
頭から地面に倒れそうになったかの時に駆け寄って、その身体を支える。
それを隙と捉えて仕掛けてくる事ももちろん考慮していたけれど、ヴァネッサは特になにかをしてくる事もなく颯爽とした足取りで俺の脇を通り抜けて、テトラの元に歩み寄り、
「本当に驚いたよ。まさか、貴女が負けるだなんてね」
と言いながら、彼女を抱き上げた。
「では、どうして此処に来たの、かしら?」
「胸騒ぎというものには従う事にしているんだ。前世の教訓としてね」
「そう。では、クラセハナにも感謝をしておかないといけない、わね」
掠れた声で、テトラが言う。
この世界で、リフィルディール以外の口から初めて齎された母の名前を前に、正直心の準備が出来ていても心臓が止まる思いだったけれど、その動揺が表に出るより先に、ヴァネッサはこちらから大きく距離を取って、懐から小さな、水色の種のようなものを取りだして言った。
「私が構築した毒の解除方法は簡単だ。私の魔力の支配の外に出ればいい。そうすれば、彼女の体内に入っている毒は全てただの水になる」
そこで種が手放され、
「この場合、街を出るのが最も合理的な判断となるだろう。これは私が印をつけた人間以外、全てを襲うからね」
地面に落ちた途端に地面に吸い込まれ、視界一面に空のような藍が一斉に広がった。
それが凄まじい速度で伸びる葉や茎である事を認識すると同時に、それに触れる事が酷く危険だという事を肌が感じ取る。
此処に居るのは不味い。俺じゃなくて、ミーアが不味い。
俺は彼女の身体を魔力で保護しつつ、大きく跳躍をして、さらにビルの手近で一番高い建物の上に立ち、そこから街の外に向かって力一杯に飛び立ち――その背後で吐き出された甘く寂しげな独白を、鋭敏な聴覚が捉えた。
「さぁ、儀式の始まりだ。ようやく、私は還る事が出来る。…………あぁ、蓮、待っていてね。もうじきだから」
次回は四日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




