07
血の味が口の中に広がっている。下の前歯も少しぐらついていて、鎧越しにも相当なダメージが入った事を物語っていた。
とはいえ、殴った方のラウは右拳が手首のあたりまで裂けていたので、こちらよりもよっぽどの重傷だったが。
(突然現れたな、この男)
頭の中に、レニの聲が響く。
(視覚に干渉された? ……いや、干渉を受けたのは私ではなく世界の方か。強力な類ではない。その方が厄介ではあるが)
建物の壁に背中から叩きつけられることなく両足で衝撃を殺していたレニは、ラウ目掛けて跳躍せんと右足に力を込めて、だけど途中でその力を緩め地面に降り立った。
(脳が少し揺れたか。忌々しい)
どうやら右足に思ったほど力が入らなかったようだ。もしかしたら、彼女の思考がこちらに漏れだしたのも、それが関係しているのかもしれない。
「安い奇襲だな」
つまらなそうにレニは言う。
けれどこれは強がりだ。でなければ、せっかく展開した魔力を途切れさせたりはしないだろう。
「虚勢を張るには便利だな。顔を隠すという行為も」
鋭くも静かな面構えで腰を落としたラウが、お返しとばかりにつまらなそうに言い返しながら、半壊した拳を気にせずに強く握りしめる。
(把握するまでに、もう一撃は受ける必要がありそうか)
それに対応するべく先程よりもずっと多くの魔力を費やして、レニも自身の鎧を打撃耐性の高い構造へと変えていく。
「援護しろ。足だけは引っ張るな」
「あらあら、下地区の人間に命令されているわよ? 大貴族さま? いいのかしら?」
ラウの言葉を愉しげに受け止めながら、ラクウェリスが茶化すように言った。
「問題はない。この場で最も有効なのはラウ・ベルノーウだ」
淡々とした口調でそう答えつつ、イルが二人の部下に視線を送る。
それに二人が小さく頷いた直後に、ラウが地を蹴った。
瞬き厳禁の接近。
「速度だけはありそうだな」
左の義手を刃物に、右手に長槍を具現化しながら、レニは前に出した右足の爪先から魔力を奔らせ、そこから斜めに傾いた剣山をラウ目掛けて突き出す。
「――邪魔だ」
避けるでもなく、ラウはそれを蹴り飛ばして地面にへばりついた剣山をこちらに返してきた。
一瞬で起動した攻撃に対する、即座のカウンター。
回避されると読んでいたらしいレニは眉間に縦皺を深くしながら具現化を解き、そのまま直進してきたラウに槍を突き出す。
牽制の意味合いが強い一手だ。ラウに躱せない道理はない。
だが、それは吸い込まれるように彼の胸元を貫通して――再び、凄まじい衝撃が後頭部を襲った。
その痛みを歯を食いしばって耐えながら、レニは間髪入れずに左腕を振り抜く。
僅かに遅い。離脱の成功を示すステップの音。
「逃がすか」
流れるようなスムーズさでそちらに向かって追撃の槍を放つが、それがなにかを射抜くことはなく、今度は右膝の側面から耳を劈くほどの音と衝撃が届けられる。
(……視覚だけではなく、聴覚にも干渉を受けているか)
血液一つ流すことなく、霧のように消えた胸に孔を開けたラウの姿を睨みつけながら、レニは鎧の強度を高めるためだろう、更に魔力を費やしていく。
そこに今仕掛けても決定打には遠いと判断したのか、ラウの攻撃もそこでいったん途切れた。
数秒ほどの静寂。
(使用されている魔法は光と音の二種で間違いないだろうが、気配を補足できないのは何故だ?)
視線を彷徨わせながら、レニは眉間の皺をより濃くしていく。
そして、なるほど、と小さく吐息を零した。
(血をばら撒いて領域を作ったのか。……見事なものだな。私の魔力に呑まれる事なく、表面に張り付くように存在している。これほど精緻で柔軟な魔力操作を行える者が、果たして帝国に何人いたか)
そこで、ぎりっ、と歯が軋む音が鳴る。
右手も強く握りしめられ、その強さに応じるように攻撃的な魔力も周囲に広がっていく。
(このような小都市の精鋭にすら見劣りする。そんな状態を許した奴等を、まだ殺し尽くせていないとはな……!)
凄まじい憎悪だった。アルドヴァニアという国に対する強い執着心が、嫌でも伝わってくる。
非常に不快な感覚だが、その激情のままに冷静さを失ってくれる分には有難い。
そう思った途端、こちらの思考も向こうに漏れているのか、
(多少、損失を被る事になるが、ここは手早く処理するのが最善か)
と、急に冷えた聲と共に、レニは鎧に注いでいた魔力の大部分を一気に放出させ、この身を包み込む球体を生み出した。
鎧と違って、自身との間に二メートルほど距離がある防護障壁だ。
身動きは取れなくなるが、攻撃が徹る心配も完全になくなる。
(防御はこれで十分。いや、さすがに過剰か?)
微苦笑を浮かべながらレニは鎧を完全に解き、口に溜まっていた血を、ぺっ、と吐き出した。
それから刃物と化している義手を右の掌に押し当てて線を引き、地面に血を垂らしていく。
魔法陣を用意するつもりのようだ。もう一つの魔法によって強化するのではなくそちらを用いるのは、リスクを恐れての事か。
(中心を描く必要はなさそうだな)
自身の足元に自然に出来る血だまりを主軸に、レニはタクトを揮うように右腕を振って、模様を描いていく。
どのような効果があるのかは俺には判らないが、この様子を外から把握する事は出来ない、というのだけはなんとなく理解出来た。酸素を取り込む隙間すらなく、全てが遮断されているのだ。
おかげで視界は悪いし、外の魔力の流れもまったく感じ取れない。
そういう意味では、これもかなりリスキーな行動と言えるが、理不尽の押し付け合いでは自分の方に絶対的な分があると確信しているんだろう。
(血も、これで十二分か)
止血をしつつ、レニは眼を瞑り魔法陣に意識を集中させていく。
脈動する足元。息が詰まるほどに密度を増していく魔力。
それが臨界を越えたところで、レニは魔法陣から漏れ出した残滓で鎧を再構築しながら、代わりに自身を守っていた殻を解いた。
瞬間、真紅の魔法陣が漆黒に塗り替わり、それは視界全ての足場を瞬く間に呑みこんで――
「――跳べ!」
ラウの鋭い声。
誰一人戸惑う事なく、その警告に従ったのはさすがの迅速さというべきなのかもしれないが、片足を失っていた鎧の男性は姿勢を崩した影響か、黒一色に染まった領域から一斉に突き出てきた無数の剣の猛威から逃れる事が出来ず、左の太腿と右胸を串刺しにされ、動きが止まったところに伸びてきた巨大な切っ先によって頭部を失った。
「――っ」
影の女性の表情が歪む。
イルも微かに目を細めて、そこになにかしらの感情を滲ませながら、安全圏である建物の屋上にまで避難した。
「やれたのはたった一人か。無駄な時間を長引かせてくれるものだ」
ため息交じりにレニは呟き、
(……だが、収穫はあったな)
その視線が、頭上の誰もいない方位に向けられたところで、俺も気づいた。
これはリッセの魔力の気配だ。ほぼ完璧といっていいレベルで自身を隠していた彼女だが、この無差別の広範囲攻撃によって負傷してしまったらしい。流れた血に宿っていた魔力が、存在を明らかにしてしまった。
とはいえ、これは責められないだろう。鎧の彼もそうだが、誰もがかなりの警戒をもって、この数秒の間にレニとは距離を取っていたのだ。それでも尚、避けられないほどの規模であり展開の速さだったのである。
(やはり一人隠れていたか。まあ、当然だ。さすがにこの精度で二つの魔法をほぼ同時に扱える者など、帝国にだって居はしないのだから)
「――ちっ」
舌打ちを聞かせながらリッセが気配を消しにかかるが、居る事が露見した時点であまり効果はない。
レニの攻撃は広範囲で、おおよその位置さえ解っていれば正確性など必要ないからだ。
足元に展開されている具現化の領域から、音が聞こえた一帯に向けて剣が乱立されていく。
再び溢れだすリッセの魔力と、露わになる姿。
もはや隠匿は無意味と悟ったように、リッセはただただこちらから距離を取ろうとするが、それはあまりに緩慢だった。
一瞬で具現化された剣の群れが、一片の躊躇もなくリッセの身体をズタズタに傷つける。
間違いなく即死だ。飛び散った肉片と血が酷くおぞましい。
けれど、俺がそこにショックを覚える事はなかった。
これもまた幻影だという確信があったからだ。でなければ、あんな迂闊な舌打ちはしないし、ラウがこの状況で仕掛けないわけがない。
多分、リッセは最初に喰らった位置から動いていないんだと思う。いや、或いは動けないが正確なのかもしれないが、とにかく一番の窮地をなんとか凌いだわけだ。
なら、あとはレニが他の相手にリソースを割いている間に安全な場所にまで逃げられれば、なんとかなりそうだが……どうしてか、この身体は死体の方向に向かってゆっくりと歩き出していた。
直接手で触れて、確認をするつもりのようだ。
その辺りをちゃんとしているところに、こういった魔法に対する経験値の多さが窺える。それでいてラウに対する警戒もまったく緩めていない。
……これは、かなり不味そうだ。
(やはり幻像か。だが最初の手応えは確かだった。色々とズラすのが上手いようだが、身動きが取れないとなれば、そのあたりか)
肉片の幻像に触れていたレニの視線が流れる。
そこが当たりだったんだろう。ラウの魔力がざわつきと共に昂ぶって――それが弾ける前に、こちらの視界に小さな手首が入ってきた。
子供の手首が、空から降ってきたのだ。
(……領域の塗り替えか)
と、レニがそんな思考を漏らしたところで、その手首が急速に膨張し血と骨をばら撒く。
そしてばら撒かれた一帯の空間の中心が裂けて、そこにあったものを呑みこみ、どさり、という乱暴な音をイルの隣で響かせた。
続けて、ごほごほっ、と激しく咳き込むリッセの声と共に、そこに彼女の姿が現れる。
「……思ったより酷いな。レコンノルンの子を産むまでは死ぬないで貰いたいのだが」
淡々としたイルの言葉。
それを心底不快そうに受け止めながら、
「お前がここで死ぬことを約束するなら、少しは努力してやるわよ」
と吐き捨て、リッセはよろよろと立ち上がった。
身に纏っている服の大半が赤く染まっている。特に重要な臓器は何とか避けたが、至るところに深手を負っている感じだ。間違っても、飛んだり跳ねたりが出来るような状態じゃない。
ラウも拳を痛めているし、イルも片手を失い、影を扱う人も心身ともに深手を負っているように見える。
対するレニ・ソルクラウは無法の王から受けた不意打ち以外に大きな痛手はない。更にその痛手にしても、身体を動かさなければ大した支障にはならないのだ。
圧倒的な劣勢。
それをより強調するように、レニが口を開く。
「影、具現化、風、重力、光、音、空間……まだ見せていないものは、せいぜいあと一つくらいか。それも私には、けして届きはしないだろうがな」
最後の一言には、強い自負が滲んでいた。
同時に誰一人生かしてはおかないという硬質な殺意も、そこには込められていて――
「……全員退かせろ。足手纏いだ」
静かな口調と共に、ラウが漆黒の魔力に染め上げられたレニの領域に降り立った。
全身から溢れ出る魔力が、その領域に揺らぎを与える。魔法の成立を妨げるほどではないが、発現にラグを生じさせる程度の価値はある抗い。
「おい、勝手な事を――」
ラウのやろうとしている事に気付いたリッセが声を荒げようとするが、イルは賛成だったんだろう。背後から一撃を喰らわせて彼女を気絶させ、子供の身である自身よりも大きな彼女を不恰好に抱き上げて、空間転移をもって部下と共にこの場を離脱した。
「あらあら、これは後々揉めそうねぇ。私が全員の内に入っていない事も許しがたいけれど」
頬に手をあてて、ラクウェリスが気だるげに呟く。
「元凶が、当然の報いだろう? お前はせめて隙を作ってから死ね」
冷たく吐き捨てながらラウは真っ直ぐにこちらを見据え、右の拳を低く、左の拳を顎の横に、デトロイトスタイルのボクサーのような構えを取った。
「酷い事を言うのね。傷付いてしまうわぁ。……ねぇ、鎧の貴方、謝るから見逃してくれないかしら? なんだったら、貴方も味方になってもいいわよ?」
「……屑が、消え失せろ」
心底どうでも良さそうな声が零れ落ちる。
「言ってみるものね。それではごきげんよう。ふふふ」
嬉しそうに微笑んで、ラクウェリスは大きく後方に跳躍した。そして、そのまま順調に離れて行く。。
レニはどうやら本気で見逃すつもりのようだ。というより、ラウにだけ集中したいといった感じだろうか。それだけラウを――鎧越しに唯一、この身体に傷をつけた相手を警戒している。
その戦果がなければ、もしかしたら交渉で丸く収める事だって出来たのかもしれないが……いや、そもそも、見境のない虐殺を選ぶ相手に交渉なんて無意味か。
「……殺す前に一つ答えろ。お前は誰だ?」
ラクウェリスが完全に安全圏まで逃げ切ったところで、ラウが問う。
この問いの意味は、文脈通りではないだろう。それを知ってか知らずか、レニは小さく吐息を零して、
「やはり、ここはアルドヴァニアの外なのだな。あぁ、判ってはいたが」
と、どこか自虐的な声で呟き、右手に細身の剣を具現化した。
「レニ・ソルクラウだ。そちらの名も聞いておこうか? ここが帝国であっても、その首、勲章の一つにはなっただろうからな」
「必要ないだろう。お前はとうに知っているんだからな」
渇いた返答と共に、ラウが地を蹴る。
レニにとっては不可解な答えだったからか微かな戸惑いを伝えてくるが、それが戦いに影響を及ぼす事はない。この身は当たり前のように迎え撃つ構えを取って――そうして、勝敗がほぼ決まっている、だが後にとても大きな意味を持ったこの一騎打ちは始まった。
次回は四日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。