第六章/一方的な再会 01
ごぼっ、ごぼっ、と激しい吐血で地面に血だまりを作りながら、オリジナルであるレニ・ソルクラウの意識は復帰した。
心臓が酷く熱い。神経がブチブチと音を立てて千切れているような音が、頭の中で響いている。
足元が覚束ない。けれど、倒れる事も何故か出来ない。
身体が見えない力で固定されているようで、
「……離せ」
目の前にいた、誰かに向かってレニは掠れた声を漏らす。
すると、途端に拘束が解けて、尻餅をつく羽目になった。
屈辱だ。そんな無様を人にさせた、この獣のような男を殺してしまいたい。
が、普段でも困難な事を、今の自分が出来る筈もないし、そもそもこれはただの八つ当たりだ。
何故自分が意識を失っていたのか、心臓が何故こうも痛いのか、その原因に辿りついてしまったら、さすがにもう強気ではいられない。
「また、私は負けたのか……?」
かつての裏切りを思い出す。
まだ片腕になって間もない頃。自身の限界をどこかで決めつけていたあの頃。
もう、あんな弱さは無くなったと思っていたのに……
「付け刃の精神強化では、彼には勝てなかったという事だろう」
と、目の前のラガージェンが、可笑しそう笑ってみせた。
人を食ったような、いつもの笑み。
「まったくもって喜ばしい結果だったな。レニ・ソルクラウの限界はまだまだ先にありそうだ。でなければ、ノードレスだけで終わってしまっていただろう。もっとも、今はまだそのノードレスすら殺せていないわけだが」
「……人使いの、荒い奴だ」
苦々しげに吐き捨てつつ、レニはなんとか立ち上がろうとするが、足に力が入らない。
これで今からノードレスと戦えというのだから、ラガージェンという男も大概酷い奴だ。まあ、この男に優しくされる方がよっぽどおぞましい気もするが。
「この戦いを勝手に始めたのはお前さんだ。そして我々はそんなお前さんの我儘に応えて手を貸した。違ったか?」
「そんな事を言われずとも、契約は守る。今すぐにでもな」
他でもない彼女の為に、と胸の内で呟きつつ、深呼吸を一つしてから、再度立ち上がるチャレンジをする。
でも、やっぱり、今の両足には体重を支えるだけの力もなかった。
その事実に、歯を軋ませたところで、真後ろから突然声が染みわたる。
「焦る必要はないわ」
一度でも聞いたらけっして忘れる事も間違える事もないだろう、世界で最も美しく、恐ろしい声。
次いで、氷よりも冷たい手が、背中に触れる。
否応なく、ぞくりと震える身体。圧倒されているのが、嫌と言うほどによく分かった。それが、でも嫌じゃないという不可思議。
「……驚いたな」
目の前にいるラガージェンが、言葉通りの表情を浮かべて、
「体調の方は、大丈夫なのか?」
と、労わりの言葉を贈っていた。
頷いたのか無視したのかは判らないが、それに対しては特に声を返す事なく、彼女はレニに向かって優しい口調で言う。
「もう一度、ゆっくりと深呼吸をして。私の魔力に身を委ねるように」
「……あ、あぁ、わかった」
レニは言われた通りに脱力して、自身の身を守っていた魔力を解いた。
かつての自分では考えられないような対応だが、裏切りの心配を抱く事はなかった。そこには恩からくる信頼も多分に含まれていたが、それ以上に、リフィルディールという神の絶対性によるものが大きい。
彼女になら、殺されてもいい。そう思えてしまうほどに、レニは心酔していたのだ。
だからこそ、彼女の言葉なら素直に聞くことが出来て、
「貴女の働きは私の望み通りだった。そして私の望みとは、最善でなければ叶わないもの。貴女はよく頑張ったわ。良い子」
頭に小さな手が乗せられて、ぱさぱさと血で渇いた髪が揺らされた。
撫でられたのだと気付くのには、時間がかかった。
だって、そんな事、生まれて一度もされた事がなかったから。
不意打ちもいいところだった。打ちのめされている精神に、それは劇薬だった。
(……やめろ)
涙がこぼれてしまう。
それを、目の前の男には見られたくない。
けれど堪える事も出来そうになくて――
「少し、休むといいわ。目を覚ました時、貴女はまた万全になっている。復讐を先に済ませるか、ノードレスを狩るかも、貴女が決めればいい。貴女には時間があるのだから」
まるで睡眠薬を血管に直接注入されたみたいな凶悪な睡魔と共に、レニの意識は抗う余地もなく沈んでいく。
涙は、目蓋を閉じたその時に、一滴落ちるだけで済んだ。
そこにあったのは間違いなく気遣いであり、故に自分が今後取るべき道もまた、それに報いるものになるのだろうと、レニは眠りに落ちる間際に強く想い、彼女の意向に身を委ねた。
そうして、寝息を立て始めた彼女の頭からリフィルディールが手を離したところで、ラガージェンは口を開いた。
「良いのか? 今の奴はご自慢の鱗の機能を潰されている。時間を空ければ……いや、これは愚問だな。全ては偉大なる黒陽の望み通り。そういう事なのだろうしな」
「それは、どうかしらね」
淡い光がレニを包みこみ、その姿は粒子となって消えて行く。
回復に努めさせるために、拠点へと転移させたのだ。ラガージェンがやってもいい事を、わざわざ自分の魔力を使って行った。気を失っているレニを相手に、する必要のない余計だ。彼女はなにも感じないし、なんの変化も見込めないのだから。
にも拘らず、それを行った事実に、レニ・ソルクラウに対する期待が窺える。
だが、正直、ラガージェンはレニよりも倉瀬蓮の方に可能性を抱いていた。細かな能力などは外付けである程度どうでもなるからだ。故に、もし片方だけを選ぶとするのなら、魂の根幹に化物を宿しているあの異世界の人間の方が良いのではないかと、今のラガージェンは考えていた。
「ところで、倉瀬蓮はどうするんだ?」
その感情に従うままに、とりあえず訪ねてみる。
するとリフィルディールは、ゆっくりと空を見上げ、
「レニ・ソルクラウだった彼の物語は終わったわ。この後にあるのは、倉瀬蓮の物語。これ以上、私が関与するべき理由はない。だから、結末も私にはわからない。……けれど、そうね。乗り越えるという事は、そんなに簡単ではないという事なのでしょう。神ですら、結局私への恐怖を乗り越えて、この場で最善の行いを取る事が出来ないくらいなのだから」
最後に小さくため息をついて、話を締めくくった。
と同時に、その姿はなんの予兆もなく掻き消える。
瞬きの隙間すらなく、彼女は元の場所に戻ったのだ。
置いてけぼりを喰らってしまった。いや、この場合はナナントナという名の臆病者に一言くれてやる機会を与えられたとみるべきか。
そう、前向きにとらえる事にして、ラガージェンは高らかに独白する。
「たしかに、今なら自身が壊れるだけで、レニ・ソルクラウを殺す事が出来ただろうからな。これほどの好機を前になにもしなかった奴が、臆病者と謗られるのも道理というものか。あぁ、だから貴様たちは世界をただ壊死させる事しか出来ない。無為な延命。くだらない自己愛。まるで勇敢な人間以下だ。喜べ、彼女は貴様をもう壊す価値もないと評価した。安心して逃げられるぞ? ……くく、本当に逃げるだけか。つまらない奴だな。相変わらず」
去って行った気配を前に嘲笑を浮かべつつ、ラガージェンは先程まで開かれていトルフィネに続く空間に視線を向けて、
「だが主よ。やはり私は惜しいと思うよ。これほど、こちら側に引き入れる事が容易な状況で、何もしないなどというのはな」
と、呟き、
「……まあ、私はいつだって、貴女の意向に従うがね。謙虚で偉大な我が母よ」
そう締めくくって、靄のように揺らめきこの場から姿を消した。
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




