06
自分はそれなりに我慢強い方だという認識が、倉瀬蓮の中にはあった。
この世界に来て、物理的な痛みとも多く付き合う事になったし、それはより強くなったのだと思っていた。
……自惚れだ。
今、自身を襲う激流を前に、本気で心が折れそうだった。
これ以上は、耐えられない。
でも、それを相手に見せるわけにはいかない。……あぁ、でも、これ以上は本当に不味い。必死に食いしばっている歯から一音でも漏れたら、きっと、そのまま絶叫と共に発狂してしまいそうで、膨れ上がった弱気が無数の声になって、俺の頭の中を駆け回っていた。
状況の絶望感が、そこに拍車をかけているのは言うまでもないだろう。
そんな中で、差しのべられた手を前に、思わず手が伸びそうになった。……それを、どうして寸前で止めてしまったのか。衝動的な拒絶に驚きを覚えると共に、強い後悔にも襲われる。
意固地になっていられる状況じゃないのだ。今、オリジナル相手に勝機はない。此処は従順になったふりをするのが最善だ。そう、それが一番――
「――っ!?」
息を呑むような音と共に、先程と同じようにオリジナルの視界が共有された。
額から垂れてきたなにかによって右目が赤く染まる。その色で、血という事が判って、何が起きたのかを遅れて理解した。
「死にぞこないが……!」
押し殺した声で、オリジナルが毒づく。
その視線の先にあるのは、こちらに届くほどの距離の斬撃を放った死にかけのレニの姿であり、剣を介して、オリジナルの身体に絡みついた昇華の魔力だ。
それは今俺がいる世界にまで真っ直ぐ迫り、手を伸ばせば届くところで止まった。
と、同時に、現実を映していた視覚が、再び心象世界を映し出す。
「……いいだろう。貴様の答えを待ってやる」
ため息交じりに、目の前にいるオリジナルが言った。
腕を組んで、冷めた表情を浮かべて、複製体の行いを心底嘲っているような感じ。
まったくもって同感だった。そんな事なんてせずに、この場から離脱するのが彼女にとっては最善の筈で、本当に愚かとしか言いようがない。だって、俺がいなくなった時点で何の制約もなく自由に身体を使えるようになる上に、このオリジナルの優先事項からも外れているのだ。
もちろん、今この場ではまだ殺意は高いだろうし、逃がすという選択を簡単に取りはしないだろうけど、それでも此処を乗り切ったあとまで、その感情を最優先にするとは思えなかった。
こう言ってはなんだけど、そこまでする価値や脅威が複製体である彼女にはないからだ。更に言えば、リフィルディールへの執着が今のオリジナルにはある。
「本当、嫌なタイミングだな……」
思わず、愚痴が零れた。
もう少し遅ければ、多分その前にオリジナルの手を掴んでいただろう。
逆にもう少し早ければ、この痛みを味わう事もなく、きっと迷う事もなかった。迷わずに、あとでその軽率さに後悔したんだろう。
「……彼女はどうして、こんな莫迦な真似をしたんだと思う?」
震える声で、俺はそんな事をオリジナルに訪ねた
「紛い物の気持ちなど、私が知るわけもないだろう」
「じゃあ、君だったらこの場面でどうした?」
「奇襲で殺せなかったのだから。逃げる以外に道はないな」
「でも、もう満足に動けるような身体でもない」
「当然だ。でなければ、このような忌々しい掠り傷すら、私が負う事はなかった」
忌々しげに額の傷に触れながら、オリジナルが吐き捨てる。
「だろうね」
その瞬間を見たわけじゃないけど、おそらくノードレスの攻撃を受ける寸前に、彼女はオリジナルに攻撃を仕掛けたんだろう。
そういう状況でもなければ、奇襲なんて成立しない。
そしてそういう状況で成功した奇襲であっても、きっとオリジナルを仕留める事は出来なかった。距離があり過ぎたからだ。だから、レニ自身もそこが最大の成果だというのは判っていた筈だった。
にも拘らず、攻撃を仕掛けたという事は……
「……なにが可笑しい?」
引き攣った口元が、わらったように見えたようだ。
まあ、あながち間違いでもない。今は確かに嗤いたい気持ちだったから。
「最後に一つ、忠告しておいたほうがいい事が見つかったのが、嬉しくてね」
「……最後、か」
こちらの答えを受け取ったオリジナルの眼差しが険しくなる。
それをしてやった気分で受け止めながら、俺は言った。
「君のような人は、あまり他人に肩入れしない方がいい。じゃないと、君に良く似た彼女のように後悔する。もっとも、君は彼女以上に後悔するんだろうけどね」
言いながら、レニがここまで届けた魔力を掴み取る。
オリジナルはなにもしてこない。此処で仕掛けてこないという事は、現実の方でしっかりと決着をつけるという意志表示のようなものだ。
その姿勢に安心しつつ、
「あぁ、それともう一つ、理由も話しておくかな。……俺も男だから。どちらも同じくらい迷惑な奴でしかないのなら、まだ可愛げのある方がいい」
結局、それが彼女を選んだ最大の理由なんだろうと、言いながら思う。
どちらをとっても近い将来に死が待ち受けているのなら、莫迦みたいにこっちが戻ってきたら勝機があるなんて信じてくれいる奴と一蓮托生した方がマシだ。
「……くだらない遺言だな。後悔しか残らない」
「かもね。でも、ちゃんと挑発にはなったようだし、そっちも後悔する準備をしておいた方がいい。なにせ、余計な欲を見せた所為で、これから私たちに負けるんだから」
真っ直ぐにオリジナルを見据えて啖呵を切った直後、俺の意識は再び途切れて――
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




