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……はっきりと断言できる。
オリジナルのレニも、リフィルディールも、ラガージェンも、これに比べたら赤子同然だ。少なくとも暴力という点において、これは間違いなくこの世界の絶対者だった。
こんなものを殺す? とてもじゃないけど、正気とは思えない。
それだけの可能性を、あの魔法は有しているとでもいうのか……?
仮にそうだとしても、今、それを実践する事は出来そうになかった。ただ諦めに似た気持ちで、その絶対者の動向を窺うだけで精一杯で…………
「……っ、はぁ、はぁ」
知らず止めていた息を、慌ただしく吐き出す。
埒外の化物は、こちらを一瞥するだけで上空へと消えて行った。
きっと、取るに足らない小物という風にしか映らなかったという事なんだろう。それに対しレニは怒りを宿していたが、別段強さなんてものにアイデンティティーを持っていないこちらとしては、ただただ助かったという思いで一杯だった。
「あれは、一体なんですか……?」
一瞬で立ち去った危機だというのに、ナナントナさんに向けた声は震えている。
「……この世界に四体のみ存在している龍種の一つです。個体名はノードレス。リフィルディールが貴方の有する昇華の魔法を用いて絶命させたい、世界の楔の一つでもありますね」
淡々とした口調で答えながら、ナナントナさんは俺の肩の上に飛び乗った。
瞬間、グラの姿が消える。あまり表に出しておきたくはないようだ。出現させるのにもコストがかかるという事だろうか。
「それにしても、まさかこのタイミングで現れるとは。……あげく、絶妙な位置で翼を休める事にしたようですね」
口元に手をあてて、ナナントナさんは神妙な表情を浮かべる。
「絶妙な位置というのは?」
「かの龍は、レニ・ソルクラウが今いる街と、この帝都の進路上にある小都市に降り立ちました。あそこを経由しなければ、帝都には来れません。少なくとも彼女一人の力では」
「リフィルディールは手を貸さないと?」
「微かですが、彼女の魔力の痕跡がノードレスに宿っていました。完全なコントロールは不可能でも、大まかな行動パターンに干渉する程度の事は、今の彼女でも可能ですからね。なにかしらの意図があっての行いなのでしょう」
「その意図がなんなか、見当などはついているんですか?」
「いえ。ですが、この世界にとって良くないことだけは確かでしょう。嘆かわしい事ですが。……まあ、それはそうと、これからどう動くべきか――」
言葉を遮るように、力強く扉が開かれた。
入ってきたのは身なりのいい初老の男性だ。一目見るだけでかなりの猛者だというのがわかる気配を放っている。
「……陛下、これは一体何事ですか?」
半分無くなった部屋と、気絶しているラハトを前に、彼の表情は険しいものだったが、不思議とこちらに視線が向けられることはなかった。
彼はただ真っ直ぐにラハトの方を見つめていて――
「――なにも気にするな」
そのラハトの方から、ぞんざいな声が響いた。
ラハトからではなく、ラハトの方からと言ったのは、倒れている彼の真上のあたりからその音は発生していたからだ。ついでに言えば、初老の男性の視線も倒れているラハトではなく、そちらに向けられていた。
つまり、別の光景を彼は見ているという事なんだろう。
「それよりも、色冠を招集しろ。魔法陣を起動させられるだけの人員もな。緊急事態だ。急げ。私を待たせるな」
「……了解しました」
心なし不満そうな表情で頷いて、初老の男性はゆったりとした足取りで立ち去って行った。
小さな抵抗が、なんだか痛ましい。そこに決意のような重みがあったからだ。そんなものに命の危機を孕むくらいに、此処では独裁がまかり通っていたんだろう。……まあ、部外者が気にしても仕方のない事。気持ちを切り替えるように深呼吸を一つしてから、俺はナナントナさんに視線を戻す。
十中八九、仕掛け人はこの神様だからだ。
「貴方のご友人である双子の魔法は、人間社会では実に便利な代物ですね。それに酷く洗練されている。貴方を介してリンクしましたが、おかげ技術の方は完全に取得する事ができませんでした。これは、なかなかに希少な体験です」
淡々とした口調で、ナナントナさんはタネを明かしてくれた。
こちらの感情を汲み取っての事だろうか。確執が生まれそうなやりとりをしたばかりなので、正直関係が悪化する事も危惧していたんだけど、少なくとも表向きは変わらずにやっていけそうだった。
それが良いか悪いかは、まだわからないけれど。
「そのような心配をする必要はありません。私は人間ではないのですから。それより、シシの魂が呑みこまれたというのは非常に不味い事態です。仮初の肉体が破壊されるだけなら、それほど問題もありませんが、魂の方はそうもいきません。吸収されてしまえば、あの龍種はさらに変異し、いずれ決定的な暴走を迎えることでしょう。それはリフィルディールにとっても望ましくはないはずなのですが……いずれにせよ、現状あの龍種に対抗できる手段もありません。ここはひとまず、リフィルディールの動向を窺いつつ、待ちを選ぶのが最善手となるでしょう。貴方たちも、ずいぶんと疲れているようですしね。なにか、異論はありますか?」
「……いえ、そうですね。たしかに休憩が必要かもしれません」
レニの方は特にそうだろう。
それに出来る事ならその間に、不足している情報も埋めておきたい。たとえば、ナナントナさんを半殺しにして消えた無法の王の行方とか。そもそも、無法の王は何故そのような真似をしたのか、とか。まあ、俺にとってはどうでもいい事なのかもしれないけれど――
「――っ」
不意に、身体がぐらつく。
あの魔法――ナナントナさんは昇華と呼称していたか――の代償が今になってやってきたのだ。
心臓が酷く強張って、自身の肉体の制御が困難になって、主導権が自分の手から否応なく零れて落ちていくのを感じる。
自身の抵抗力に魔法を掛けた事で、もしかすると本来この器のものではない俺という異物にも影響を齎しているのかもしれない。
自我が消されるような感触はないが、猛烈な眠気じみたものが意識を奪っていく。……どうやら、また少しの間レニに身体を預ける事になりそうだ。
まったくもって不安でしかないが、嘆いていても仕方がない。
「もう勝手な事はしないようにね、レニ」
意識が途切れる前にそれだけ告げて、俺は魔法の代償を静かに受け入れる事にした。
§
「もう勝手な事はしないようにね、レニ」
どこか優しい口調で倉瀬蓮がそんな事を言った途端に、身体の自由が戻った。
完全に油断していた所為か、手綱を握り損ねたレニはその場にへたり込んでしまう。
半ばぼやけていた感覚も鮮明になって、きっとその所為だと思うが、不意に涙がこぼれた。一滴では済まなかった。
ナナントナが微かに眉を顰める。
「――っ!」
慌ててくだらない塩水を拭って、レニは立ち上がった。
それだけの動作で、何故か少し心臓が痛む。まあ、一つの身体に二つの人格が存在するなんて異常事態に晒されているのだ。それくらい別におかしな事では――
「どうやら、私が思っていた以上に体調がよくないようですね。顔も赤いようですし……そう言えば、骨折などをすれば人は熱が出るのでしたか。……折れるほどの傷は見当たりませんが」
「――煩い、黙れ!」
思わず、強い声が出た。
その所為で、嫌でも自覚してしまった。無意識に目を逸らしてきた部分を、直視してしまったのだ。
今起きているこの身体の変調は全て、レニが内側で抱かされていたもので、自身が表に出たことによって溢れ出たものだった。
後悔も、悲しみも、そして救われたという感情も。
ずっと否定したかったけれど否定できなかった出来事が、誰かの手によって否定された。それだけの説得力が、倉瀬蓮の言葉にはあった。
もちろんその背景には、彼同様にレニもまた彼の過去を追体験していた事があげられる。実の父親によって日常的に、目の前で母親が性的な虐待を受ける様をなす術なく見ているしかなかった彼の言葉だからこそ、自分をただ裏切ったと思っていた男の本音のようなものが、少しだけ判った気がしたのだ。
もう、なにもかもが手遅れではあるけれど、それでも、知る事が出来て良かったと、素直に思えるくらいには特別な思い出。
(……醜態だ)
涙がまだ止まらない。
苦しくて、悔しくて、なのにどこか甘い高揚を孕んだ感覚。
その正体が何なのか、それだけには絶対に触れないようにしながら、レニは涙が枯れるまで手の甲で目尻に擦り続けた。
次回は四日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




