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(私は、一体なにをしている……?)
衝動的な行動というのは、得てして後悔を生むものだ。
それは現在倉瀬蓮と共存しているレニ・ソルクラウも例外ではない。
自分を生ませた癖に自分を切り捨てた、この国の絶対的な王のその行動が、もし彼自身の意志ではなく、誰かの思惑によって行われていたのだとして、それで一体何が変わるというのか?
全ては今更だ。この国の病でしかない皇帝を生かしておく理由はないし、子共としてだけではなく、国家への忠義を尽くしてきた騎士としての自分すら裏切った男を、許せる道理などどこにもない。
会えば必ず殺すだろう。
今までそれをしなかったのは、ひとえにアルドヴァニアに無用な混乱を齎すのを嫌っての事だ。騎士の殺しにはいつだって正義が必要なのである。
(……そうだ、だからこそ私は此処に来たのだ)
愚かな皇帝を処断するだけでは足りないという事実を知ったから。元凶の全てを余すことなく皆殺しにするためには情報が必要だから。……なんて事を自分に並べている時点で迷いが生じているという事実から目を逸らすように、レニは帝都の空を見上げた。
そこにあるのはいつもの灰色だ。いつだって帝都は青天というものを嫌っている。
理由は知らない。きっと、この街の醜さに辟易した神がため息を零し続けている所為だろうと、昔のレニは本気で思っていた。
いや、今も変わらず思っているのかもしれない。
だって、視線を落とせば、そこにあるのは有象無象の人間共なのだ。
うじゃうじゃと我が物顔で闊歩して、不快で仕方がない。この中の一体どれだけが、アルドヴァニアにとって有益な存在だと言えるのだろうか。
無為な人間を見ると、無性に殺したくなる。
最近は特にそうだった。愛しきアルドヴァニアに贅肉が付きすぎている事実に、感情を抑える事が出来なくなっていたのだ。その矢先に、レニの左腕を奪ったあの敵の討伐を命じられて――
「貴女の思考は、なかなかに危険なもののようですね」
中性的な声が、右肩の方から響いた。
そちらに視線を流すと、そこには小さいままのナナントナの姿がある。どういうつもりか知らないが、一緒についてきたのだ。
「言動には気をつけろ。今すぐ握りつぶしても良いんだぞ?」
「逃げ道を失いたいのであれば、どうぞご勝手に」
涼しげな微笑をもって、ナナントナは言葉を返してくる。
その逃げ道を生み出せる菱形の眷属は今、主のサイズに合わせていて、ナナントナの周囲を衛星のようにぐるぐると廻っていた。
自分の存在価値が分かっていて、それを利用してくる相手というのも、やはり煩わしいものだ。
レニは小さく舌打ちをしつつ、萎えてしまった憎悪に見切りをつけて、帝都を歩く。
向かうは王宮。道は当然知っている。
障害は、今のところ特になし。
(節穴ばかりだな)
鎧の色と形を変えただけで、誰もレニ・ソルクラウに気付かないのだ。いっそ嗤えてくる。
まあ、それだけ漆黒を基調とした、禍々しくも流線的でどこか艶めかしいあの全身鎧の姿こそがレニだと認識されていたという事なんだろう。
おかげで、今はただの冒険者程度にしか見られていないというわけだ。もっとも、肩に乗っている変な奴を見てどう思っているのかは不明だが、特に注目されていないところからして、何かしらの小細工でも機能しているんだろう。
「ええ、心配しなくとも、私達の姿は貴女以外には認識されていません」
「……二度も言わせるなよ?」
「私も好き好んで人の思考を覗いているわけではありません。神は人を管理するもの。故に、その機能は呼吸のように備わってしまっているのです。貴女がもっと強固な魔力で身を守れば、私も貴女の感情に考慮する必要もないのですが」
「そんな事をしたら騒ぎになるだけだ。皆殺しの前の情報収集に支障が出る」
「では、受け入れてください。心配せずとも、倉瀬蓮ほど貴女の奥底を覗けるわけでもありませんから。今の貴女にとっては些末なノイズでしょう」
「のいず?」
「彼の世界の言葉です。たしか、英語という言語でしたか。貴女も存じていると思いますが?」
確かに、その言葉は倉瀬蓮の記憶を通して知っていた。あまりに馴染みがないから、すぐにはぴんと来なかったが。
「馴染みのない言葉というものは面白いものですね。つい使ってみたくなります」
「まるで子供のようだな」
「子供であれる瞬間があるというのは幸福な事です。特に神にとっては。……故に、シシはそれを進んで求めてしまったのかもしれませんが」
微かに目を細めて、ナナントナが呟く。
そこにあるのは後悔か、それとも失望か。
「シシというのはどういう存在だ?」
「それは私にとってでしょうか? それとも、性能についての質問ですか?」
「心が読めるのなら解るだろう? ……両方だ」
実際は後者への興味しかなかったのだが、今の反応でそっちも少し気になったので、そう言っておく。
ナナントナは数秒ほどの沈黙をもってから、
「元々シシは好奇心が旺盛でした。神という存在には不必要なほどに。ですが、同時に自制能力も高かったのです。だからこそ、問題を起こすような事はなかった。とても微笑ましい娘でした。彼女は若い神で、私にとっては初めてのパートナーでもありましたしね。誰かと行動をすると言うのはとても新鮮で、満たされるものでもありました」
「対の神だというのに、同時に誕生したわけではないのだな」
「多くの神はそうですが、二柱で一つという形になったのは、白陽たるハーウェルディナが黒陽を迎え入れた時からですので」
「つまり貴様は最古参の神というわけか。……それで、それがおかしくなった理由は何だ?」
「貴女は既にその答えを知っていると思いますが、リフィルディールに殺されたからですよ。あらゆる存在の完全復元を可能とする、唯一の存在である彼女に」
そう言って、ナナントナは灰色の空を見上げた。
「リフィルディールが世界の敵にならなければ、神というシステムがここまでおかしくなる事はなかったでしょう。自身の復元も可能な筈の彼女が、何故あそこまで壊れてしまったのか。……もしかしたら、此度の件で、それを知る事が出来るのかもしれませんね」
どうやら、それが同行の理由らしい。
どうでもいい話、と切り捨てたいところだが、そうもいかないのが憎たらしいところである。
「あぁ、彼女の性能ですが、私に出来る事は全て出来ます。神の性能は白陽と黒陽以外に大差はありません。違うの比重だけです」
最後に、こちらの心情よりもずっとどうでも良さそうなトーンで答えて、ナナントナは視線を空から地上に戻し、顔を出した王宮を真っ直ぐに見据えて、
「それにしても浮いた建物ですね。まるで時が止まっているかのようです。こういうのを、人の世界では不健全というのでしたか。今の彼女の居城には、相応しいのかもしれませんね」
と、苦々しさを含めた声で呟いた。
§
潜入という行為にはこれまで縁がなかった。
必要性を感じた事など一度もなかったし、そのような惰弱に手を染めなければならない者達を軽蔑すらしていた。
ただ、まったく興味がなかったというわけでもない。もちろん現実においてではないが、そういった内容を含んだフィクションには昔から惹かれるものがあったのだ。いわゆる工作兵ものという、アルドヴァニアでは人気のジャンルである。
意外と思われる事も多いが、レニは結構な読書家だった。
そこが倉瀬蓮と共通しているというのは、少々癪な話ではあるが……まあ、それはさておき、どういう事情であれ物語の世界では愉しめた状況に置かれて、出来ればその感覚を少しは味わいたいところだったのだが、残念ながら王宮内の環境はそれどころではないようだった。
やたらと慌ただしくて、誰も周りが見えていない。
よほどの大事が起きているのだろう。こんな有様を見るのは、それなりに王宮に顔を出す機会があったレニも初めての事だった。
(この分だと、特に行動を起こさずとも勝手に情報が入ってきそうだな)
それを期待して耳を澄ましていると、二階西側の会議室から出てきた二人の男のやりとりが引っ掛かった。
『ところで、マルカハールとの連絡は取れたのか?』
『いいえ、完全に音信不通です』
『ダダルルヴェノの方はどうだ?』
『そちらは一応取れましたが、どうも応答が変だとの事です。乗っ取られている可能性があるかもと』
『どこもかしこもだな。一斉蜂起か。市内の様子はどうだ?』
『監視員の一人からの定時連絡が届いていないとの事です。よくある事らしいので、そこまで大事にする必要はないのかもしれませんが』
『そんな者をどうしてまだ活用しているんだ? さっさとクビにしろ!』
『そんな事を私に言われても困りますよ。担当を割り振った人に言ってください。それと、ペトラの観測塔が高密度な魔力の移動を確認したとの事です』
『趣旨返しのつもりか? 魔域の問題はこちらの管轄ではないだろうが』
『でも、スチアさんの管轄でしょう』
『何故あいつの話が出て来るんだ?』
『今日の夜の会うのでしょう? だったらついでに伝えておいてください。こちらも忙しいのです』
(……ダダルルヴェノ、懐かしい名前だな)
そこは、かつてレニが粛清を行った都市の一つだった。ちょっとした後悔を残した地でもある。
あの頃はまだ、アルドヴァニアの為にならない存在を皆殺しにするという結論に至っていなかったのだ。そのせいで、ダダルルヴェノは粛清から数年でまた多くの国賊を生み出す事になった。
マルカハールも似たような都市だ。別の誰かが鎮圧任務を請け負い、中途半端な粛清をした所為で内乱が続いていた。
レニが意識を失っていた数ヶ月でどう変化したかは知らないが、その所為もあってかなり強力な部隊が配備されていた筈だ。当然、情報のやり取りも頻繁に行われていた。
そこが音信不通となれば、考えられる可能性は一つしかない。
オリジナルだ。奴が皆殺しにしたのだろう。そして、恐怖を増幅させながら首都に向かってきている。
(次はおそらくギルノッテナか)
帝都に次いで栄えている大都市だ。色冠が守護を任せられているほどに重要な都市でもある。
果たして、どの程度耐える事が出来ることやら――
――寝てる間に、ずいぶんと勝手な事をしてくれたみたいだね。まあ、君だけの意志じゃないみたいだけど。
ため息交じりの蓮の声が、脳裏に届いた。
思わず舌打ちが零れ、ナナントナを睨みつけてしまう。
(なにが、しばらくは目を覚まさないだ。嘘吐きめが)
「目的地に着くまでの間はそうだったのですから、言葉に偽りはないと思いますよ。それよりも、気付かれてしまったようですね」
眼を閉じながら、ナナントナが淡々とした口調で答えた。
と、そこで、真っ青な顔色の女が視界に入ってくる。いや、青というよりは土色というべきか、まるで死体の色だ。
そんな女は、こちらを真っ直ぐに見据えてながら近づいてきて、
「お待ちしておりました。ナナントナ様。シシ様がお待ちしております」
と、異常なほどに淡泊な口調で言って、くるりと背を向けた。
罠の可能性は十二分にありそうだが、逃げるなどという選択がない以上ついていくしかない。
そうして、レニは皇帝陛下の寝室へと歩を進め、その扉の前に立った。
「失礼します」
ドアをノックすることなく、なんの感情も見当たらない言葉を並べて女がドアを開ける。
瞬間、レニの耳に入ってきたのは嬌声であり、レニの眼に入ってきたのは壁際に女を押し付けて腰を振るケダモノのような父親の姿だった。
次回は三~四日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




