18
どん、と特車の上になにかが落ちてくる音が届いた。
それほど重くはない音。同時に接近してきた魔力からして、ミーアが着地したようだ。
(まさか、もう決着がついた?)
マノフも当然のように臨戦態勢に入ってはいたのだが、それでも尋常じゃない早さだった。さすがは元『銀冠』というべきか、と安堵と歓喜が胸の奥から広がってくる。
しかし、それらの感情は怨嗟の咆哮によってあっけなく掃き捨てられた。
(一体だけじゃなかったのか……!?)
驚愕と恐怖に促されるままにマノフは外に顔を出して、それを確認する。
確認して、眼を剥くほどの絶望を覚えた。
(…………あれは、ヴェヴリ)
本来なら魔域の奥底にしか生息していない怪物。
ミーアはそのオスを始末したみたいだけど、資料で見た情報が確かなら、より危険なのはメスの方だった。
以前、魔域観測という各機関が協力した作戦において処理されたそれは、犠牲者なしでオスを討伐した最精鋭の観測隊二十五名を真正面から虐殺するほどの力を有している事が確認されていたからだ。
帝都を除く主要都市の大半が、彼等に匹敵する高位戦力を五十も持たない事を考えれば、これがいかに埒外なものなのかが判るだろう。
彼女の強さもまたその部類だが、果たして単騎で打倒する事など可能なのか……。
そんな不安を抱きつつも、マノフは自身の魔力の大半を感知能力に傾ける事によって、両者の戦いを観測する準備を済ませる。観測できなければ、フォローも何もないからだ。
「ルノーウェル様――」
「出来るだけ標的にされないようにしておいてください」
突き放すような冷たい声を合図に、両足の治癒を済ませたミーアが地面に降り立って――その姿を視界におさめた直後に、見失った。
(――っ、どこだ?)
きょろきょろと視線を彷徨わせるが、首や目を動かすよりも音が届く方がずっと早い。
左側から落雷の音。
弾かれたように振り向くが、当然のようにその時にはもうミーアの姿はなかった。
車体から離れるように、彼女は地を駆けながら雷撃を放ち続ける。
さすがに俯瞰できる距離にもなれば視認する事は可能になったが、それでも速い。攻撃はもっとだ。
にも拘らず、ヴェヴリには当たらない。触手から噴出されている大量の霧状の液体が、雷撃を自身の背後の空へと逸らしている。それと並行して、人間くらいの大きさの飛沫をヴェヴリはミーア目掛けて射出していた。
といっても、これもまた当たる気配はない。
だからだろうか、ヴェヴリは更に距離を縮めながら攻撃を激しくしていく。
ミーアにとっては、おそらく願ったり叶ったりの状況だ。遠距離攻撃が無効化されているのだから、接近して体内に直接魔法を叩き込むというのがセオリーとなるだろうか。リスクは高いが、治癒魔法が使える彼女にとってはリターンの方がずっと高い筈。
問題はそれでも火力が足りなかった場合だが――
(――っ、目の色が変わった?)
真っ赤に染まっていたヴェヴリの飛び出ている眼球が、急速に冷えるように青く染まりだした。
と、同時に地面に迫っていた身体が、上昇を開始する。
(ルノーウェル様の狙いを読み取ったのか?)
魔域の魔物に限らずだが、強力な魔力をもった個体はそれに比例するかのように高い知性も有している。彼等が特に恐るべき脅威である最大の理由だ。
「憎悪に浮かれてくれたままなら、容易かったのですけどね」
こちらがヴェヴリの異変に目を奪われている間に、足音もなく特車の上に戻ってきたミーアが呟いた。
その言葉の説得力を高めるように、ヴェヴリは内部に仕舞っていたらしい無数の触手を限界まで伸ばして、それらを網目のように絡みつかせて、穴の部分に巨大な一雫を生成していく。
(――不味い)
本能などなくても、察知できる危機。
おそらくこれは、超広範囲の無差別攻撃となる。
「……余力は残せなくなりました。補佐をお願いできますか?」
どこまでも静かな声で、ミーアが問いかけてきた。
それが、いつまでも状況に振り回されている自身への喝となる。
「はい! もちろんです!」
「そう、それは良かった」
微かに疲れを感じさせる吐息交じりの呟きと共に、ミーアは空に向かって左手を突き出して、大量の電気を帯びた魔力の膜を構築する。
人間一人が生み出したものとしては相当に強固な結界だが、空を覆い尽くす死の気配を前にすれば、脆弱もいいところだろう。
何秒、持ちこたえる事が出来るのか。
(そして、その数秒で何を用意できるか、か)
自分には何もないから、これもミーア任せだ。
普段は特に気にもならない事だが、こういう理不尽と出くわす時に限って、どう足掻いても自分が凡人以上になれないという事実を痛感する。
無力とは罪だ。今の自分がまさにそれ。
でも、だからこそ、諦観などによって享受するわけにはいかない。
この力で達成できる最大限の成果を求め、マノフは思考と視線を走らせて――程なくして、一つの重要な懸念に辿りついた。
地面だ。今まではミーアが注意を引いてくれていたから走行に支障が出ていなかったが、無差別攻撃によって進路が潰されてしまった場合、非常に不味い事になる。
(停めるか? いや、停めたところで意味はない)
だったら、進路上の道を魔力でコーティングして、液状化を遅らせてその間に突っ走るのが正解だろう。
そう判断して、マノフは声を張り上げた。
「特車の速度を上げます。足場は私に任せてください」
「……ええ、任せます」
口元に淡い笑みを浮かべ、ミーアが頷く。
どうやらこれが正解だったようだ。そのあたりは、長年後方支援に徹してきた故の察しの良さと誇るべきか。
なんにしても、やるべき事は決まった。
マノフは慌てて車内に戻り、特車の目標設定に色をつけ加えていく。
一応、乗りこむ前にマニュアルには目を通してあったので、操作が判らないという事はないが、なかなかに複雑だ。スムーズにはいかない。
手間取っている間に、上空の気配はいよいよもって小便を漏らしそうなくらいに膨れ上がっている。
「衝撃に備えてください。完全には防ぎきれない」
やや硬いミーアの声。
それを合図とするように、全てを溶かす豪雨が、大気を溶かす異様な音と共に降り注ぐ。
バチバチ、とミーアの魔力が抵抗の声をあげているが、それを掻き消すほどに前者の音の方が強い。
(……よし、これで問題はない筈)
なんとか操作を終えたので、これで魔力防壁に専念できる。
既に車両の前輪後輪にはコーティングを済ませてあるので、あとは特車の進行ルートを確保するだけだ。出来れば足場の状態を眼で確認したいので、再び外を見渡せる位置に移動する。
移動してすぐに、衝撃的な光景を目の当たりにした。
車体の最前線に立っていたミーアがおもむろに、自らの足の甲に深々と右手に持っていた細剣を突き刺したのだ。
相当に強い魔力が込められていたようで、かなりの強度を有しているこの特車が殆ど抵抗の痕跡すらなく穿たれてしまった。
(足場を、固定するためにやったのか?)
……いや、さすがにそれは考えにくい。神雷とまで称された魔法の他に治癒魔法も有しているのは知っているので、それが致命傷になる事はないのかもしれないが、痛みという感覚は間違いなく不安定な足場以上のノイズの筈だからだ。
つまり、それはもっと別の目的の為の自傷であり――
「出来るだけ揺れない状況を整えてください。出来れば、痛みが邪魔にならない程度に」
「は、はい!」
淡々とどこまでも冷たいミーアの声に慌てて頷きつつ、荒野に眼を向けてそこに魔力を流す。
直後、前方の結界外に飛沫が降り注いだが、地底に落とされるよりも早く、特車はその一帯を駆け抜けた。ただ、その際に大きく揺れてしまい、彼女の傷口から大量の血が噴き出していたので、これではまだ足りないようだ。
より一層に神経を集中させて、道の維持に努める。
無差別攻撃は止まらない。遙か高みから放射状に注がれるそれは、おそらく小都市一つくらいなら容易く呑みこむほどの範囲へと広がりを見せていた。
幸いなのは密度まで増すことはなかった点だろうか。
「まだ護りに意識を残しているといった様子ですね。人並みに賢いというのは厄介です」
ため息交じりに、ミーアが零す。
その言葉で、それがけして幸いなどではなかった事に気付いた。こちらだけが消耗する状況を用意されたのだと理解したのだ。
否応なく、表情が曇ってしまう。それを察知してか、
「……ですが、人相手と同じ駆け引きが出来るのなら、それは私にとっては望ましい事でもあります」
と、ミーアは真っ直ぐにヴェヴリを見上げながら呟くように言って、自身の血を塗りたくった剣をゆっくりと抜いた。
そして魔力の源流たる血を糧に、総毛立つほどの暴力を刀身に込めていく。それと同時に傷つけた足を引き摺らせ、簡易な魔法陣を足場に描いた。
「――ズズズズズゾォアオゾオゾオオオオオオゥオオ!」
魔物が一際大きな咆哮を上げて、前面の攻撃密度を高めていく。
圧倒的火力差をもって全てをねじ伏せるつもりのようだ。
逆に言えば、それだけの姿勢を見せなければ突破されるという危機感をヴェヴリは覚えたという事であり――
「狙い通り、護りを捨てましたね。あとは届くかどうかだけ」
小さな呟きと共に、ミーアが血染めの剣を空へと放った。
直後、血液が高純度の雷と化し、視界全てを真っ白に染め上げるほどの輝きと共に、それはヴェヴリ目掛けて疾走する。
衝突する二つの魔力。
最初に優勢をとったのはミーアの雷撃だ。振り絞られた一撃は、魔力量の差を覆すだけの出力をもっていた。
だが、それも長くは続かない。
ヴェヴリの攻撃は追加で力を注ぎこめるような類だったからだ。一気に貫けなかった時点で、勝敗は決したようなものだった。
……そう、それが本命の一撃であったのなら。
「切り札です。大人しく死んでください」
どこまでも冷たい言葉がマノフの耳に届いた直後、頭上で鼓膜が破れそうなほどの衝撃が発生した。それに顔を顰める間もなく、ヴェヴリの身体が爆発四散する。
だが、血の雨が地面に届く事はない。
ヴェヴリの真上から落とされた、そいつと同規模の雷撃は、対象を殺し尽くすと同時に複数に枝分かれし、周囲にある液体を蒸発させながら四方八方に走り回って、やがて地面へと帰結し、大地を震撼させる。
逸らされていたミーアの攻撃全てが、ヴェヴリの感知出来ないほどの天上で一つに束ねられて、解き放たれた結果だ。威力の異常さから見て、空の上でも魔法陣が描かれていたのだろう。それが大気中に含まれている魔力すらも吸収して肥大化し、ヴェヴリという存在を消し炭に変えたのだ。
これが、ミーア・ルノーウェルが例外的な対象と交戦する事を想定して生み出した、単独で機能する大魔法だった。
「……はは」
思わず、渇いた笑みがこぼれる。
(勝てる。これなら、あのおぞましきレニ・ソルクラウにだって――)
「足りませんね」
つまらない事実を確認するように、ミーアが呟く。
マノフには一瞬、言葉の意味が解らなかった。けれど、すぐに理解させられる。
「やはり私一人では、レニ・ソルクラウの鎧を突破する事はできない」
そうして、神に等しき化物を一人で打倒した少女はゆっくりと傷を癒しながら、見えてきた目的の街を前に準備不足を感じてなのか、小さな吐息を零したのだった。
§
「やはり私一人では、レニ・ソルクラウの鎧を突破する事は出来ない」
これは、初めから判っていた事実だ。
それをミーアがあえて口にしたのは、マノフの瞳に過度な期待が滲んでいたからに他ならない。
けれど、その言葉は同時に一つの夢を宿してもいた。
(でも、今なら胸を張って一緒に戦える)
レニと共に、ただの脅威でしかないオリジナルを排除する事が出来る。
二人なら、十二分に勝算もあるだろう。
だからこそ、気持ちが急ぐ。
(早く、合流しなければね)
そうして、かつての強さを完全に取り戻した彼女は、見えてきた目的地の遠さにため息をついた。
次回は四日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




