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対象との距離は大体三百メートル。踏み込み一つで届く間合い。周囲の魔力に大きな変化はなし。それはつまり、こちらの接近を警戒していないという事だ。
(――でも、反応自体は早いか)
つまらない感想と共に、射程距離に入ったミーアは右手の剣を振り抜いて、敵の触手を一つ切り落とす。本来ならすれ違いざまに目玉を切り裂く一撃だったのだが、超反応により凌がれてしまった。
奇襲の一手としては、安い報酬だ。この辺りはまさにブランクの賜物だろう。次の相手に、そんな甘えは許されない。
(しっかり改善しなければね)
速度感覚に慣れて、精度を高めて、決断の勘を取り戻す。
その全てを、この敵一体で行わなければならないのだから、なかなかに大変だ。
「――ゾゾオゾゾゾオゾゾオズゥゥゥ!」
意地汚く泥水を盛大に啜るような咆哮を垂れ流しながら、魔物がその瞳を真っ赤に染めていく。
それに伴って、身を守るように皮膚から紫の液体が滲み出てきた。
(物理的な暴力への耐性は高そうね。なら――)
大きく距離を取りながら左手を突き出して、真っ赤になった瞳に魔力の道を作る。
雷の魔法は最速の攻撃の一つだが、対象に命中させるためにはこういった手順が必要だ。未熟な者は十秒以上、オーウェ・リグシュタインのような熟達の戦士ですら状況によっては三秒程度の準備が求められる。
そして道とは、それなりの魔力適性があれば誰もが視る事の出来るサインでしかなかった。よって、どれだけ速い攻撃であろうと、放つ前の予備動作が大きければ回避も容易くなる。
故に、雷撃の使い手の価値はその導きの速さが全てとまで言われており――故に、道を構築しながらそれを追い駆けさせるように雷撃を放つ事が出来たミーア・ルノーウェルは、正しく銀冠の座を得たのだ。
そしてその最大の強さは、どうやら衰えてはいなかったらしい。
用意した軌跡を追いかけて、稲妻が疾走する。
それを視認すると同時に直撃の轟音が響いた。こちらの視界に見えている眼球の表面が爆ぜて、真っ赤な血が飛び散る。
(致命傷にはならないか。それにしても、色々な色の体液を有しているのね)
その違いは一体何を意味しているのか。とりあえず、赤い血に溶解能力はないようだ。
ならば、眼球に細剣を突き立てて、そこから体内に直接雷撃を叩き込んでやるのが最も効果的だろうか。まあ、安全策を取ってこのまま中間距離で削ってもいいが――
(――さすがに、そこまで甘くはないか)
身体の内側から皮膚を突き破って、無数の触手が現れたのだ。
全てが二十メートルはあるだろうか。それらを縦横無尽に振り回し、魔物はこちら目掛けて突っ込んでくる。
回避は困難。それに、背後にはちょうど特車の気配もあった。
もちろん、これは不運な偶然ではない。突進の前に、魔物は旋回するようにミーアとマノフの二人が直線上に重なるような位置に移動していたからだ。
迎え撃たなければ、マノフは確実に死ぬだろう。
ならば、ここで決着をつける。
(お父様、お母様、どうか私に武運を)
右手に握る細剣に力を込めて刀身にありったけの魔力を注ぎ、ミーアは突進してくる魔物に向かって地を蹴った。
無数の風を切る触手の鞭が、鼓膜を埋め尽くさんと迫りくる。
隙間は殆どない。飛び散る体液も考慮すれば皆無と言ってもいいだろう。
だからこそ、体液のダメージは捨てて、ミーアは触手を蹴る事によって軌道を変えながら、急速に崩れ出す両足を治癒魔法でなんとか維持し、魔物との距離を詰めていく。
「――」
極限の集中と共に訪れる、無音の世界。
その中で、おぞましき怪物の無事な方のもう一つの目玉が、真っ直ぐにこちらを見た。
全体をぼんやりと見ていたようなそいつが、初めてピントをこちらに向けたような感じ。そこに虚空を前にしたような寒気を覚えたが、きっとただの気の所為だ。
(――届いた)
右手が千切れるくらいの速度をもって斬撃を振り抜く。
そして刻み込んだ切れ目の中心に間髪入れずに刺突を放ち、細剣を根元まで届かせたところで、ミーアは剣に溜めていた魔力を解き放った。
瞬間、殺意の証明である雷撃が体内を駆け巡り、魔物の身体を眩い銀に染め上げて――それが爆ぜる直前に、ミーアは目玉を足場に跳躍した。
「――っ」
流星のように鋭く荒野に着地し、足が折れる音を聞きながらも姿勢を低く落とし地面に押し付けた左手を力強く押しだして身体を跳ねさせ、即座に背後にあった特車の上に乗る。
それとほぼ同時のタイミングで、四散した魔物の身体から豪雨の音が降り注がれた。
いや、雨というのは少し高度が低すぎるだろうか。どちらかと言えば噴水の方がしっくりくる……だなんて気の抜けた感想を抱いた矢先に、そのおぞましい音は降ってきた。
「――ゾゾオゾゾゾオゾゾオズゥゥゥ!」
つい先ほど聞いたものよりもずっと雄々しく、膨大な魔力を帯びた咆哮。
惹きつけられるように視線を上げると、こちらの感知範囲の外である遙か上空に同じ姿をした魔物が一体確認できた。
今始末したものよりもずっと大きい。最低でも二、三倍はあるだろうか。
真っ赤に充血した目玉がこちらを見下ろしているのを、強化した視力がかろうじて捉える。憎悪、殺意、怨嗟を孕んだ眼差し。
どうやら親かなにかだったようだ。だとしたら幼子の狩りの練習でも見守っていたのか。……いずれにしても、連戦は避けられそうにない。
その事実に、ミーアはゆっくりと息を吸い込んで欠乏気味だった酸素を取り込み、その酸素をゆっくりと息を吐き出してから、
「初めから二体同時だったなら、もう終わっていたというのに。面倒な話ね」
と、愚痴を一つ零し、急速にこちらに向かって降下してくる脅威に備え、治癒に全ての魔力を注ぎながら、折れた足でよろよろと立ち上がった。
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




