03
……目の前にいる怪物は、間違っても一般人が知っていていいような存在じゃない。
トルフィネの最高権力者の一人であるイル・レコンノルンや、下地区の支配者の一人であり情報という分野において最強といってもいいリッセですら、それがどのような存在なのかを把握してはいないだろう。
だからこそ、その時点でラムガスの母親は特別な人間であり、俺に近い立ち位置にいる事が考えられたが、具体的にどういう人物なのかを特定するにはまだ材料が足りない状況だった。
「やあ、フィネ、久しぶりだな。元気そうでなによりだ」
そんな相手に、ラガージェンは親しげに声を掛ける。
対する彼女が見せた反応は、怯えであり、不安であり、微かな安堵だった。
アポイントなんかは取っていなくて急な事だったから、何をしに来たのか判らずに恐怖していたが、その答えに辿りついて納得したといった感じだろうか。
もっとも、またすぐに不安を見せるあたり、両者の関係に信頼があるようには見えなかった。まあ、こちらとしてはその方が色々と都合が良さそうではあったけれど。
「貴方は、助けに来てくれたの? それとも、また壊しに来たの?」
ラムガスを抱きしめながら、躊躇いがちにフィネさんが訪ねる。
「さて、どうだろうな? 助けに来たともいえるし、壊しに来たとも言える。つまり、全てはお前さん次第という事になるのだろうな」
「……私は、ただの人間よ」
どこか後ろめたそうに、それを恥じるように、彼女はそう吐き捨てた。
「だが、なにより特別な凡人だ。お前さんだけが、アレの鞘になれるのだからな」
「物みたいに言わないで。あの人は、ずっと苦しんでる……!」
押し殺した怒り。
こちらの抱いた印象のままに、両者の関係は良好とは言い難いらしい。……いや、というよりは、致命的な温度差があるというべきか。
「人間というものは、やはり凄いものだな。あんなものにも情を抱けるのか。つまらない事に拘れるというのは、まさに人間の美徳だな。くく」
嬉しげに、ラガージェンは鋭い犬歯を見せつけるように笑う。
そこに皮肉や侮蔑は感じられない。彼にとって、人間というものは興味深い観察対象という事なんだろう。といっても親愛の類も一切感じられない。良くてモルモットなのがよく判る。
嫌悪を覚えずにはいられない上から目線。出来る事なら消してやりたいが、ここで攻撃的な意識に身を任せられるほど身の程知らずになる気もない。レニの感性に少し引っ張られている事を自覚しているのだから、尚更だ。
だから、一つ呼吸を取って心を落ち着かせてから、どう動くかを考える事にして――
「助かるか壊れるかは知らないが、起こしに来たのは間違いない」
その言葉の直後、ぞぶり、という音が自身の身体から響いた。
そして、視界に顔を出す、誰かの血塗れの手。
鳩尾からそれが引き抜かれた途端に、全身に脱力と激痛が襲い掛かってくる。
明滅する意識と、やけにクリアに響くラガージェンの声。
「お前さんは初めて会うだろうから、私が代わりに紹介しておこう。それが無法の王だ。お前さんが誤って死んでしまわないように眠らせておいた、つまらない神が生み出した愉快な欠陥品」
まるで促されるように振り返った先にあったのは、驚愕の表情を浮かべるフィネさんと、知らない誰か。男とも女とも、大人とも子供ともいえない、全てが中性的に映るなにかだった。
ラガージェンの仕業なんだろうか、魔力が一切感じられない。それに、ラムガスの姿も見当たらなかった。
彼は、一体どこに消えてしまったのか……。
「そんな事を気にする必要はない。そんなどうでもいい事よりも、お前さんには神経を使わなければならない相手がいるのだからな」
それが誰なのかは、きっと鏡が教えてくれるのだろう。
砂の城が波にさらわれて崩れ去るように、急速に意識が薄れて行く。
手放さないように歯を食いしばろうとするけれど、それより先に膝から崩れ落ちた。
「これで完全な入れ代わりは二度目。……喰われるなよ。せっかく、勝算が生まれるまで育てたのだから」
「……」
間際にこの眼が映したのは、虚ろな表情でこちらを見下ろしている全てが曖昧な誰かが、ゆっくりとその手に顕した蒼く燃え盛る炎を凝縮させた五本の爪をこちらに振り下ろそうとするところで――
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。