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もう二度と、この地に足を踏み入れる事はないと、ミーアは思っていた。
(それが、こんな形で戻って来るなんて……不思議なものね)
空の色も、街の空気も、ずいぶんと変わってしまった気がするけれど、帝都の高台に建つこの国の象徴たる王宮は依然としてその威容を維持している。
もっとも、多くの犠牲を払ってまで保つだけの価値があるものだったのかは、今となっては怪しいところだが……。
「おい、聞いたか? 英雄様が現れたって話」
「本当なのか?」
「軍にいる従妹が言ってたんだ。間違いないさ」
「でも、どうして今頃……」
「今だからこそ、なのかもよ」
「……あんまり妙な事を言うな。誰に聞かれているかわからないんだぞ?」
街の人達のひそひそ話。
職務の合間の暇潰しに、昔はよく聞いていた事を思い出しながら、ミーアは(レニさまは今どこにいるのだろう?)と、さっそく魔力探知を行う事にした。
(……近くにはいない、か)
まあ、彼女は身を潜める事に特化している人間ではないし、居たらとっくに見つかっているだろう。
つまり、今は別の都市にいると考えるのが妥当だ。仮に転移門を使ったのなら、そこから足取りを追う事も出来る。
とはいえ、この状況である。転移門の警備は相当に厳重になっているだろうし、一部の都市との繋がりも断たれている筈。それに、ミーア自身、この国で今どの程度自由に動ける立場にあるのか不明なのだ。
レニと初めて会った時に障害となったあの騎士が調べられていた場合、こちらもレニ・ソルクラウに加担した反逆者として扱われている恐れがある。
(今のところ、指名手配は受けていなさそうですが……)
その辺りの確認を、まずは済ますのが得策だろうか。
仮に、幸運な事にただの不明扱いされていた場合は、軍を利用してオリジナルのレニ・ソルクラウと事を構える未来だって用意出来るだろうし、そもそもそれくらいの事をしなければ、彼女を打倒するのは不可能だ。そして彼女を打倒しなければ、ミーアにとって何より特別で大切な『レニさま』を守る事は出来ない。
(最低でも、色冠が四人。特位の騎士が二十人は必要。そこに魔法陣の補助をつけて、五分程度といったところか……必要なものが多いですね)
思わずため息が零れる。
或いは、それでもまだ足りないのかもしれないのだ。まったくもって気が滅入る話である。
それに、何よりも先に解決しなければならない不安も、まだ残されていた。
(……恐れていても仕方がないか)
どの程度の猶予が残されているのかだって判らないのだから、回り道も危険。
なら、初手で向かうべき場所は決まっている。かつて勤めていた銀の施設だ。
敵認定されているのなら、戦いに勝利した後で情報を確保し、そうでないなら説得を行う。
(でも、説得なんて……私に出来るだろうか?)
当たり前にして最大の不安が顔を出したが、それはひとまず見ない事にして、ミーアは足早に王宮を囲うように四方に構える軍施設の一角に向かう事にした。
§
トルフィネを含むルーゼ・ダルメリアにおいて蒼が頂点の色とされているように、アルドヴァニア帝国においても色には序列がある。漆黒を頂点に、銀、蒼、紅、紫といった具合にだ。
四つの施設は黒を除いた上位四色の機関によって管理されており、それぞれ皇帝に次ぐ特権を一つ有している。
蒼は秩序管理機関への命令権。
紅は金融システムへの決定的な干渉権。
紫は貴族への取り締まり権。
そして銀に与えられた権利は、あらゆる殺人の黙認権となっていた。
もちろん、これは無実の人間を殺してもいいという意味ではない。銀が殺すのは国家に損害を齎す存在のみであり、殺害には決定的な裏付けが必要とされていた。
だが、逆を言えば、それさえあれば法的な手続きを一切通すことなく、即座に処刑する事が許されているという意味でもある。そしてその権利は下位にあたる蒼よりも強いものであり、秩序の大本を司る彼等にも銀の行いを止める事は許されない。
(でも、それも今や過去の話なのかもしれませんね)
七階建て相当の高さの、シンプルな長方形の、窓一つない施設の前に到着してミーアが真っ先に感じたのは、威厳の失墜だった。
王宮とは違って、ずいぶんと薄汚れている。あの戦争による被害を本当に最低限だけ整えたような感じ。
(まさか、破棄されたとか? …………いえ、人の気配はありますね)
なら、別の部署のものにでもなったのか。
銀の主要人物が全員死んでいたら、それもあり得ない話ではない。
というか、そうだった場合、説得する相手がいないという事になってしまう。
銀の最高位たる司祭が、ミーアにとっては唯一の頼りだったのだ。皇帝の側近中の側近であり、ミーアに殺すべき相手を指示していた彼だけが、ミーアの価値を正しく理解していたし、話をそちらに流しやすかったから。
(……とにかく、彼の気配を探さなければ)
さすがに、ここからでは感知出来ないので中に入らなければならないが、セキュリティーの方はどうなっているのか……なんてことを考えたところで、入口の扉が開かれて、そこから馴染み深い法衣を纏った二人の職員が出てきた。
どちらも見たことのない顔だ。年齢的に見て補充要員の新人だろうか。まあ、そうは言っても、どちらもミーアより年上な感じがするが。
「でも、ザグナフさまが敗北するなんて、そんな事があるのでしょうか?」
「相手が本当にそうだったなら、驚くことじゃないさ」
(迂闊な情報漏洩ね)
間違いなく、ミーアが在籍していた頃よりも、此処の質は落ちている。
そこに古株故の落胆を覚えつつ、とりあえず彼等から話を聞くことにした。
気配を消して、襲撃の機会を待つ。
本来ならそこには細心の注意を払うところだが、今は急ぎなので、やれると判断したら速攻をもって沈黙させるという方針を定め、二人が施設の外に出てから約十秒。
吃驚するくらい早く、その機会はやってきた。
(罠である事を、むしろ願いたくなる酷さね)
思わず、察知の材料になりかねない溜息を零しつつ、ミーアはお喋りに夢中な二人の背後に忍び寄り、一人の側頭部に懐から取り出したナイフの柄を叩きつけ昏倒させて、もう一人の首筋にナイフを押し付け、
「動かないでください」
と、淡々とした口調で言った。
びくりと全身を硬直させる尋問対象。
「これからする質問に答えて頂ければ、貴方も貴方の同僚も命を失う事はありません。私は拷問が苦手です。うっかり殺してしまうかもしれません。二人もいますしね。ですから、私に苦手な事をさせないようにしてくれると非常に助かります。立場は理解出来ましたが?」
「は、はひ」
物凄く上擦った声。
少し、聞き取り難い。脅しが強すぎただろうか。……でもまあ、質問の内容自体は簡単だし、問題もないだろう。それよりも周りへの警戒を強めるべきだ。
なにせ白昼堂々の犯行である。それほど他人の眼が多い場所ではないといえ、状況の維持は難しい。
「まず、此処は銀の施設で間違いありませんか?」
「は、はい」
「では、ここの責任者の名前は?」
「オノトルヴェク・ダッカラート様、です」
「そうですか、司祭様はご存命なのですね。それはよかった。彼は此処に居ますか?」
「……」
司祭の身に危険が及ぶと感じたのか、今更ではあるが職員が黙秘の姿勢を見せる。
が、それが既に解答のようなものだ。
「ご苦労様でした。もういいですよ」
言うなり、ミーアは職員のこめかみに一撃を喰らわせて昏倒させ、堂々とした足取りで施設内へと踏み込んだ。
そこで、魔力を用いた探知を行い、施設の機密保持能力の大幅な低下を確認する。
どうやら、外以上に内部の状態はボロボロのようだ。おかげで、内部の全容に触れる事が出来たし、司祭の魔力も感知する事が出来た。
(この分なら、楽に会えそうですね)
受付を左に曲がり、よく使っていた非常口からのルートを使って上に向かう事にする。
「し、失礼ですが、身分の証明をお願いできますか?」
受付の傍らにいた二人の警備兵が、一瞬呆気に取られつつも慌ててこちらの前に立ちふさがって、僅かに腰を落とした体勢で硬い言葉を投げてきた。
「ミーア・ルノーウェルが帰還したと、司祭様にお伝えください。私がそこに着く前に」
言って、ミーアはするりと二人の間をすり抜ける。
彼等の手続きを待っている暇はない。相手に準備をさせない事も重要なのだ。まあ、だったら隠密で接触を試みるべきなんだろうけれど、そこは敵対や暗殺の意志がない事を示す誠意のようなものでもある。幼少から自分を知っている司祭なら、十二分に汲み取ってくれる事だろう。……昔の自分がこんな選択をしたかどうかは、さておき。
「ですから、身分の証明を――」
言葉の途中で二人の身体が宙を浮いた。
足を払った結果だ。
「敵なら首を撥ねています。早く、報告を」
受付の女性に淡々とした口調で告げて、ミーアは階段を悠々と昇って行く。
警備兵たちは追い縋ってこない。そのあたりは実力を弁えての事か。或いは、ただのアルバイトで臆しただけという可能性もありそうだが。
どちらにしても、これでこちらが到着する前に情報は届くだろう。その時の向こうの対応次第で、こちらへの認識もある程度把握する事が出来る。
(……大きな動きはなし、か。悪くはない流れね)
着実に、司祭までの距離が縮まっていく。
そうして階段を上りきり、入り組んだ迷路のような最上階の、最奥の部屋の前に辿りついたところで、
「どうやら、本当に貴女のようですね。ミーア」
と、穏やかな声が響き、向こうの意志によって扉は開かれたのだった。
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




