08
「堕とされた神は多けれど、自ら堕ちた神は一つのみ。全ての色の頂点たる黒陽は、そこまでして何故この世界を滅ぼそうというのか」
まるで楽器のように完成された音が、部屋全体に均一に響き渡った。
不思議な感触だ。人がただ喋るという行為に、九官鳥がそれを行ったのと同じような感動を覚える。この異常性は果たして無視していいものなのか、それとも最大限警戒するべきものなのか……
「貴方には、その理由が判りますか?」
目の前に佇む人物は、真っ直ぐにこちらを見据えながら微笑む。
アメジストのような紫の髪に、真珠を散りばめたようにキラキラと光りに反射して輝く肌、薄い唇に、やや太めの垂れ気味の眉。
優雅という表現が、これ以上ないくらいに様になる姿だった。男か女かは判別できない。声も容姿も、どちらとも取れるようなラインだったからだ。
(こいつが、ナナントナ……)
納得したようでいて、不審そうでもあるレニの呟きが届く。
こちらも似たような気持ちだ。一言で表すと、色々と落ち着かない。
「……いえ」
開口一番の問いかけにそう答えつつ、俺は落ち着かないもう一つの要因でもある周囲に、視線を逃がした。
透明な部屋の壁の先にいる、全長百メートル以上はあるウナギみたいな生き物が左手を横切って行く。
その脇を墨のような液体が徹った途端に、ウナギの胴体が溶けて、溢れ出た朱い血液が無数の小魚へと姿を変えた。
それを捕食しようと、頭部がやけに大きいワニみたいな生物が頭上から降ってくる。
そんなワニの尻尾をタコのような触手が掴み、やがて胴体まで浸食した触手によってワニの身体は干からびてしまった。
そして中身をごっそりと食われたらしいワニの残骸から、小さなウナギが誕生する。
さながら、この世界の海の中の循環を展示したような部屋だった。色合いの黒さも相まって、気が滅入りそうになる。
「私は落ち着くのですが、人間はそうではないようですね」
表情に出した覚えはないけれど、どうやら感情を読まれたらしい。突然、周囲の景色が切り替わった。
澄み渡る空。足元には雲。見上げた先には穢れ一つない綺麗な星々。
それで、この部屋が透明な壁で作られたものではなく、立体的な映像を映し出す装置のようなものだという事が判った。
「これはこれで可もなく不可もなくといった感じでしょうか。やはり、人の波長に合わせるのは難しいものですね」
口元に手を当ててナナントナさんは呟き――その直後、作られた外の景色以外何もないこの部屋に、革張りのソファーが出現した。
いや、出現したというよりは、具現化されたという言葉の方が正しいだろうか。レニ・ソルクラウのそれに非常に類似した魔力の色。
「人にとって、自身の魔力というものはなによりも安堵できるものだと聞きます。貴方の色は柔らかい物を作るにはあまり向いていないので、少し色をつけ加えましたが、心地良いものになっていると思いますよ」
どこまでも穏やかな声で、ナナントナさんは言う。
正直、その説明の不気味さのおかげで、とてもじゃないが心地良さは得られそうになかったけれど厚意を無碍にして関係をマイナスから始めるのは避けたいので、気は進まないけれど腰かける。
柔らかな感触。そして人肌のような温度。……説明抜きに、気持ち悪い。
が、それは伝わらなかったのか、或いはこれ以上気を遣ってやる理由もないと判断されたのか、ナナントナさんは自身の傍らにも椅子を具現化し、そこに腰を下ろして、
「では、本題に入りましょう。……あぁ、これを言う必要はないのかもしれませんが、レニ・ソルクラウを演じる必要はありません。普段通りの貴方で結構ですよ、倉瀬蓮。ここには私と貴方たちしかいないのですから」
「……貴方は、私の事についてよく知っているんですね」
「神には多くの眼が与えられています。その目は、時に異世界の事すらも捕捉する」
「捕捉するだけ、ですか?」
殆ど反射的に、俺はそんな事を訊いていた。
どうしてかは判らない。ただ、なんとなくその言葉に引っ掛かりを覚えたのだ。
その結果、
「なるほど。貴方は可能性をよく見ている人のようですね。あぁ、だからこそ、ラガージェンは期待する事にしたのか。……ええ、貴方に手を下したのはリフィルディール達ではありません」
という、まったく想像していなかった答えが届けられた。
「……では、誰が俺を殺したって言うんですか?」
「それは貴方の世界の誰かでしょう」
「は? そんなわけ――」
「貴方の居た世界は既に末期状態にあります。だからこそ多くの世界の法則に干渉されている。貴方の世界には、すでに魔法という名の超常が存在しているのです。……あぁ、その発端となったという意味でなら、リフィルディールこそが元凶である事に違いはないのでしょう。貴方が憎むべき相手は変わらない。今の彼女は、存在しているだけで周囲の世界を汚していますから」
一定のリズムで、どこまでも淡々と柔らかな口調で、ナナントナさんは言う。
その言葉が真実かどうかを知る術は、俺にはない。けれど、それがどういう意図で語られているのかくらいは、察する事が出来る。
「つまり、リフィルディールを野放しにしておくという事は、俺がいた世界の寿命を縮める事と同意だと、貴方は言いたいんですか?」
「あの堕ちた神は強大無比です。貴方にとって利口な選択は、大人しく彼女の要望に従って、事を済ますこと。そうすれば、ラガージェンの気紛れ次第にはなるでしょうが、この世界での生を続ける事も出来るでしょう」
「代わりに、義父たちは天寿を全うできないと?」
その問いに、ナナントナさんは花のように微笑んだ。
それで確信する。目の前にこの神は、相当に性質が悪い。
「やはり、貴方は誠実な人間ですね。今ので利口に走る未来が完全に消えました。味方としては、この上なく信用できそうで良かった。残念なのは、私の誠意が貴方に正しく届かなかった事ですが、それはこれから修復していくとしましょう。なにか、訊きたい事はありますか?」
「……リフィルディールがそうなった理由は?」
「ふむ、剣を向ける正当性は既に十分だと思いますが……そうですね、どう説明すればいいか。貴方は、この世界の神についてどの程度の知識がおありですか? あぁ、言葉にしなくても結構ですよ。もう判りましたから」
硝子のような目が、こちらを真っ直ぐに見据えながら言う。
魔法を受けた感触はないが、内側に入られたような不快感に胃がきりきりし始めた。それを堪えつつ、ナナントナさんの話に耳を傾ける。
「この世界の神は二つで一つの存在として成り立っています。私にとってのシシのように、リフィルディールにも半身がいるのです。その半身たる白陽ハーウェルディナの一部喪失によって、彼女はセーフティーを失ってしまった。結果、世界を破滅させる事で、世界を安定させるなどという極端な方向性に囚われてしまったのです。もちろん、本来はこのような不具合が起きる事はありません。ですが、リフィルディールは神の中でも特別な存在でしたから、おそらくはそれが原因なのでしょう」
「特別というのは、具体的にどういう意味ですか?」
「彼女は外から訪れた神なのですよ。それが白陽ハーウェルディナと半身を分けあう事によって、この世界の最高位管理権限――すなわち、主神の座を得た。何故そのような行為が行われたのかは、我々の記録にも記されてはいませんが、なんにしても彼女はこの世界にとってのイレギュラーでもあったというわけです」
――レニ、目の前のこのヒトを、君なら殺せる?
(――は?)
唐突な質問に感じたのか、間の抜けた反応が返ってくる。
彼女に伝わりやすい言葉を選んだつもりだったんだけど、まだまだ理解が遠いみたいだ。その事実に内心でため息を吐きながら、俺は言った。
「……勝算は、あるんですか?」
「彼女は堕ちた神です。トドメこそ刺せませんでしたが、我々が墜とした」
「取り返しのつかない被害を出さずに、ですか?」
「損失が多かったのは、確かにこちらの方です。最初の言葉のままに、多くの神が彼女によって損なわれた。けれど、彼女は彼女で我々と違い取り戻す事が出来ない。永遠に失われてしまった黒陽が、なによりもそれを示しています」
「損なわれたというのは――」
ぱん、とナナントナさんが両手を叩いて、席を立った。
「申し訳ありませんが、話はひとまずここまでのようです。リフィルディールのレニ・ソルクラウが、事を始めたようですからね」
その名前が出た途端に、胸の奥が急速に冷えていく。
これは俺の感情というよりは、レニの感情だろう。
「恐れる事はありません。貴方には私がついています。貴方の魂は私が護りましょう。もちろん、貴方がそれを望んでくれるのであれば、ですが」
そう言って、ナナントナさんは左手を軽く振り払って、空気の揺らめきと共に空間の裂け目を生み出した。
その先にあったのは、バラバラに切り裂かれ、潰された街並で――
「――っ!?」
その中心にいた漆黒の鎧に全身を包んだ何かがこちらを見上げ、目が合った。
本物だ。本物のレニ・ソルクラウが、そこにいる。
「心配せずとも、すぐに門は閉じる事が出来ます。ですが、ラガージェンの影もない今が最大の好機。さあ、貴方の答えを聞かせてください。倉瀬蓮」
どこまでも一定的で、子守唄のようでもあるナナントナさんの言葉。
なにが『貴方がそれを望んでいるのなら』だ。ここまで人に圧を掛けておいて、よくそんな言葉を吐けるものである。……けれど、今が好機なのはきっと確かなんだろう。
「……信用しますよ? 貴方の力を」
俺は棘を抑えきれない声でそう言いながら、
――任せる。でも、信用が出来ないと感じたら、すぐ逃げるようにね。
と、言葉を送って、扉に向かって地を蹴り、そこで主導権をレニに預けた。
次回は三~四日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




