02
下知区に到着したが、迷子の少年は自分の家が判らなかった。
そのため、もう少し彼と一緒に行動する事になったんだけど、そこで一つ気になる点が見つかった。
道中でラムガスという名前だと教えてくれた少年は、身なりや魔力からして普通の下地区の人間だ。間違っても、リッセやヴァネッサさんのような特別な人種じゃない。
だというのに、下地区ですれ違った人の多くが、彼にそういった人たちと同じ対応を見せたのである。
さながら腫物を相手にしているようなというか、関わりになったら不味いという意識が、そこにははっきりと滲んでいた。
彼自身が特別でないとするのなら、彼の関係者がそうなんだろう。
それが俺の知っている人間かどうかは重要だけど、さすがに迷子を家に届けるという真っ当な行為で、その相手と問題が起きる可能性まで考えていたら何もできないので、とりあえずは気にしない事にして、早くラムガスの知っている場所が見つかればいいなとぼんやり思いながら、ふらふらと彷徨い歩く。
そうして二十分くらいが経過したところでだろうか、突然俺の手を掴み「こっち!」と弾んだ声を上げてラムガスが走りだした。
その勢いに流されるままに小走りで進むと、多くの娼婦で溢れる区域の一つに辿りつく。どうやらそこが彼の生活圏内らしい。
まあ、別段驚くような事でもない。下地区で暮らしている女性の大半は娼婦か、暴力を商売にしているのが露骨に判るような荒くれ者のどちらかだからだ。で、子供がいるとなれば、母親が前者である可能性は非常に高い。
甘い香水と、退廃とした空気。
此処に在るのはいつだって緩慢な絶望だと、以前このあたりを一緒に散歩した時、リッセが口にしていたのを思い出す。その場凌ぎで生きているだけのくだらない奴等だよ、と続けて吐き捨てた彼女の表情には明確な嫌悪があった。
多くの事に強く抗い、必ず報復する事を信条としている彼女には、そういった姿勢でいる人たちが許せなかったんだろう。
それ故にというべきなのかは知らないが、ヘキサフレアスは娼婦というコミュニティーとは関わっていない。深く関わっているのはヴァネッサさんが率いているゼルマインドと、連盟と呼ばれる組織だ。
連盟の方はまだよく知らないけど、仮にゼルマインドの関係者だとするのなら、ラムガスが特別視されている事にも納得ができる。たとえば、彼等の幹部の一人が贔屓にしている娼婦の子供がラムガスだという線なんかが濃厚だろうか。或いはラムガス自身が、その幹部の子供という可能性だってあるだろう……なんて、適当な憶測をしていると、一人の女性がこちらに向かって駆けてきた。
周囲と差異のない、露出の高い格好をした二十代半ばの女性。
この場所で明確な個性を示すものがあるとすれば、顔の右半分にうっすらと残っている火傷の痕らしきものくらいだろうか。治療をしたけれど完全には治せなかったといった感じで、強い魔力を浴びた過去を匂わせている。とはいえ、よく見ればわかる程度なので、痛ましさを覚えるほどでもない。
宿している魔力も一般の範疇だし、やっぱり特別な客絡みで、ある程度の立場を手にしている人物といった印象だった。
なんにしても、保護者が見つかった以上、こちらはお役御免だ。
「一体どこに行っていたの! 今日は出歩いちゃ駄目って言ってたでしょう?」
「ご、ごめんなさい、お母さん」
この発言で本当に母親だという事も確認できたし、もう大丈夫かなと、二人に背を向けようとしたところで、
「あ、このお姉ちゃんがね、助けてくれたの。で、此処まで一緒にいてくれたんだ!」
と、ラムガスがこちらを指差しながら、弾んだ声で言った。
よほど子供の事に気を取られていたんだろう。母親の方はそこで俺の存在に気付いたらしい。
微かに怯えたような反応。おそらく、ヘキサフレアスやゼルマインドと関わりのある俺の事を知っているんだろう。下地区ではそういう情報は生命線なので、殊更おかしな話でもない。
だから、この場面では頭を下げて少し過剰な感謝をし、足早に立ち去るというのが自然な流れに思えたけど、彼女は唾を一つ呑んでから躊躇いがちにこう言ってきた。
「この子が迷惑をかけてしまったみたいで、だから、その、今日は早く家に帰って、大人しくしてるのが凄く大事というか、他に返せるものとか、あればいいんだろうけど。ないから。早く帰ってください」
「……」
なんだろう、言いたい事がまったく整理されずに吐き出された感じ。
文面だけ見れば、関わりたくないからさっさと消えてくれと言う風に受け取る事も出来るけど、そんなニュアンスでもなかったし……返せるものという言葉からみて、大事な情報を提供してくれたという風に捉えるのが正解なんだろうか。
正直、あまり自信がないので、どういう意味か訊き返そうと思ったけれど、目が合った途端に思い切り視線を逸らされてしまった。
どうやら結構な人見知りのようだ。そういう相手に催促をしても、あまり上手く行った経験はないので、ここは彼女が呼吸を整えるまで少し待つべきか、それともただ素直に帰るべきか……
「そうですか、判りました。では、私は失礼しますね」
少し考えてから、俺は後者を選んだ。
別段、この先付き合いがある相手でもないのだから、それでもいいだろうという判断だった。
……それが、もう少し早ければ、それこそラムガスに紹介される前に立ち去っていれば、一体はどうなっていたのか。
「あら? こんなところで会うとは奇遇な話ね、レニ」
粘り気のある甘い声。
頭上から響いた音源に視線を向けると、そこには派手も派手なドレスを身に纏ったラクウェリスの姿があった。
長い裾が、足場となっている梯子に擦れている。
いつもの御付きというか、僕とでもいうべき裾持ちの男性陣はいない。
「私に、何か用ですか?」
当然の警戒を込めながら、俺は訪ねる。
「ええ、と言いたいけれど、残念ながら今日は違うわぁ。今日はもっと楽しい事をする日だから」
そう言って、彼女はスカートがめくれる事もまったく気にすることもなく、リズムよく梯子から梯子へ降りて行き、地面に着地した。
梯子に擦れる以上に汚れるスカート。……どうでもいい事が、やけに気になる。それはつまり、彼女が普段と違うという点に、ざわつきを覚えている証拠だ。
その感覚が正常である事を物語るように、なんの躊躇もなくラクウェリスが右腕を軽く振り払った。
瞬間、凄まじい魔力が風の刃となってラムガスとその母親に襲い掛かる。
二人はまったく反応できていない。俺が咄嗟に間に入って右腕で受け止めていなかったら、彼女たちの身体は横一線に真っ二つにされていただろう。
「……ずいぶんな暴挙だな。どういうつもりだ?」
衝撃によって義手との接合部に届いた痛みに顔を顰めつつ、俺は怒りを抑えた静かな口調で問う。
「あら? そちらこそ、どうして私の邪魔をするのぉ? 別に深い知り合いというわけでもないのでしょう? まあ、たとえ恋人だったとしても殺すのだけど」
くすくすと可笑しそうに笑いながら、ラクウェリスは周囲に魔力を展開した。
空間が歪んで見えるほどの圧力。
……本気だ。どういう事情かは知らないが、こいつは本気で親子を殺そうとしている。
それを止めなければならない理由があるわけでもないけど、でも、きっとこの女に正当性なんてものはない。嗜虐と快楽に濡れた目が、全てを物語っていた。
だったら、ここで二人を見殺しにするという選択もない。後味が悪すぎるし、それにこちらだって対抗できないほど弱いわけでもないのだ。
俺は右手に剣を具現化させて、腰を落として完全な臨戦態勢に入る。
「あらあら? 意外に好戦的ね。いいわぁ。貴女も欲しかったもの。今日は本当にいい日になりそう。つまらない歯止めを壊して、可愛い玩具を手に入れる。ふふ、ふふふ、想像するだけで濡れてくるわね」
「――もうじき死ぬ者には不要な生理現象だな、それは」
底冷えするほどに冷たく重たい魔力が、ラクウェリスの背後から中性的な声と共に齎された。
悦に浸っていたラクウェリスの表情に険が過ぎる。
「貴方はお呼びじゃないわよ、イル・レコンノルン。出来れば今すぐ死んで、私の目の前で無様を晒して黙って欲しいわぁ、本当にね」
彼女の視線を追いかけた先にあった歪んだ空間から、十歳くらいの少年がゆらりと姿を現す。
蒼を基調とした法衣のようなものを身に纏った少年。重力を感じさせないように、その中空で静止しラクウェリスを見下ろす彼は、このトルフィネで最高位に位置する貴族であり、最高戦力の一人だ。
その絶対的な力を誇示するように、
「それはこちらの台詞だ。貴族の汚点が、私の前で息をするな」
子供のものとは到底思えないどこまでも冷徹な声と共に、頭痛がしそうなくらいに強大な魔法を解き放った。
視認不可避の重力異常。
感知困難な瞬間行使。
「――っ!?」
ギリギリで反応したラクウェリスが、大きく距離を取る。
直後、彼女の居た空間が、風船が割れるような音と共に押し潰された。次いで地面に大穴が開き、無数の亀裂が周囲に広がる。
それに目を奪われた一瞬で、イルは俺の左側面に突然現れた。
文字通り突然、空間を転移して現れたのだ。
こちらも魔力の発生は一瞬だった。
「魔力はもう少し広く展開するべきだな。でなければ、簡単に手が届いてしまう」
つまらなげに、イルはそんな事を呟く。
要は魔力(この場合はテリトリーというべきか)さえ広げていれば、ここまで近くに転移は出来ないという事なんだろうが、その指摘に言葉を返すより早く、
「そちらもずいぶんと不敬ね。イル様から有難い言葉を頂いて感謝もないのかしら?」
という苛立ちと共に、彼の影から一人の女性が姿を見せた。
さらにその女性の影から、鎧を身に纏った男が顔を出す。
「御付きが勢ぞろいねぇ。それに今の魔力、もしかして貴方、いつものお人形じゃないのかしら?」
「今までそちらを処分しなかったのは、その能力にそれ以上の価値があったからだ」
ラクウェリスの問いかけを無視して、イルが淡々とした口調で言葉を紡ぐ。
「だが今、貴様はその価値を上回る損失をこのトルフィネに齎す害悪に成り下がった。……直接手を下すなど、時間と労力の無駄もいいところだが。この機会にレコンノルンという名の力を示しておくのも悪くはない」
「……あぁ、そう、そういうこと。……ふ、ふふ、あはは! まさかあの臆病者が本体で私の前に姿を現すなんてねぇ。ちょっと信じられないけれど、でもたしかに、この魔力は人形では引き出せない。それならぁ、歓迎してあげるわぁ! 盛大に!」
その目を大きく見開いて、相手の眷属に対抗するようにラクウェリスが周囲に二つの竜巻を発生させた。
「戦力差も弁えずに真正面から来るか。どこまでも愚かだな」
失望に満ちたイルのため息。それを合図とするように、影を使う女性がその闇を周囲に広げ、鎧を身に纏った男がその鎧に魔力を込めて行く。
店売りのものではけして耐えられないほどのエネルギー。つまりは彼の鎧もまた、レニの具現化と同じ類だという事だ。強大な力をもつ魔物を相手にも対抗可能な防御機構。
ラクウェリスの強さの底が具体的にどのあたりにあるのかは不明だけど、さすがに三対一ならイルが負ける要素はなさそうだ。当然、こちらが加勢する必要もない。
なら、俺が今するべきは、ラムガスと彼の母親をこの場から安全に避難させる事。
気がかりなのは、ラクウェリスがその行動に対してどういう対応をしてくるかだが――
「ここに観客は要らない。そして、余計な血が流れる必要もない」
フォローを約束するように、静かな声でイルが言った。
彼がラクウェリスを殺すと決めたのは、どうやらこの親子を殺そうとしているのを察知したからみたいだし、援護の度合いも期待は出来そうだ。
俺は小さく頷いて、
「ついてきてください」
と、母親に告げ、彼女がラムガスの手を掴んだのを確認してから、足早にこの場を立ち去る事にした。
「レニ、また後で会いましょうねぇ。私が、こいつらを殺し尽くしたあとで」
背後からラクウェリスの声が響き、直後激しい戦闘が始まる。
数分もあれば一帯全てを破壊しかねない力の衝突。
その恐怖に身体を震わせる親子の姿に、改めてラクウェリスへの嫌悪を覚えつつも急ぎ足で距離を離していくと、途中で見覚えのある魔力を捉えた。
この街の人間のものではない気配。いや、そもそも人間ではないものの気配。
……途端に、心拍数が上がっていくのを感じる。そのくせ、身体は大量の血液を失ったかのように冷えていく。
このまま進むのは不味い。でも、逃げたところできっと意味はない。
入り組んだ路地を進み、角を曲がる。
そこにいた予想通りの存在を前に、否応なく身体に力が入った。
獣の如き大男。知性と獰猛の二つを兼ね揃えた人外。
「「……ラガージェン」」
掠れた声が、俺と背後にいた母親から同時に零れた。
そう、同時に零れて、お互いがその怪物を知っていたという事実を知る事となった。
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。