02
裂け目に呑みこまれて三十秒ほど経過したところで、正常な重力が戻ってきた。同時に、トルフィネとは明確に違う空気を感じ取る。
始まりの場所であるアルドヴァニア帝国に、帰ってきたのだ。
真下に街並みがある。今自分がいる高度は、大体三千メートルくらいだろうか。無抵抗に落ちたらさすがに死にそうだが、無駄なく姿勢を制御して地面に足が向くように整えるレニの上手さを前にすると、さして心配する必要はないようにも思える。
まあ、そもそも具現化が使えない状態というわけでもなし、落下速度を落とす手段はいくらでもあるのだから、当然と言えば当然だ。だから、今気にする必要があるのは、先にアルドヴァニアに投げ出された無法の王との距離だった。離れ過ぎた場合は合流が面倒になる。
もちろん、野放しするという手もあるし、それが一番楽ではあるんだけど、ラガージェンは「愚かな造物主に恨みをぶつけるいい機会だ」と言っていた。それが、こちらにとっても共通の敵になるのかは不明だけど、無関係でないのだとしたら、ある程度の協力関係なり利用できる状況は作っておきたい。
(つくづく打算的な男だな。気持ち悪い)
最後のあたりの思考を伝えたら、ずいぶんな言葉が返ってきた。
けど、一応は賛成のようで、五百メートルほど下方にいる、まだ再生していない無法の王に向かってレニは舵を切り、地表から百メートルに差し掛かったところで巨大な傘を具現化した。
「お、おい、死体が降って来たぞ!」
「騎士団に通報した方がいいのかしら?」
先に無残な着地を決めた無法の王に、野次馬が群がりだす。
レニは多分お尋ね者だろうから、騎士団を呼ばれるのは厄介なので、復活する前に回収して人気のない場所に移動するのがいいだろうか。
なんて事を考え始めたところで、思わぬ人物が視界に入ってきた。
俺が下地区まで送り届けた迷子の母親であるフィネさんだ。ラガージェンと意味深なやりとりをしていた女性。そんな彼女は息を呑んで、再生を始めた無法の王を見つめている。
彼女もこちらに引き摺りこまれていた? でも、一体なんのために……?
「……アぁ、お腹が、減ったなぁ」
むくりと上体を起こした無法の王が、やけに甘い声でそんな事を呟いて、再生された目で野次馬の中にいた十代半ばくらいの少女に照準を定め、
「美味しそうな、肉だ、なぁ」
と、涎を垂らした。
そして食べやすくするためだろうか、頬のあたりの再生だけは行わずに、口が最大限に開く状態を維持しながら、四肢に力を込めて――
「駄目よ。別のものを食べさせてあげるから、止めて」
微かに震えた、でも強い意志をもった眼差しで、間に割って入ったフィネさんが言葉を放った。
正直、人格というベースにすら秩序がない奴に意味がある行為とは思えなかったので、ケダモノが動いた瞬間に両断しろとレニには告げていたのだが、結果として彼女が動く必要はなかった。
「あぁ、あぁあああ! イニタ、イニタ、イニタぁ!」
歓喜に声を上ずらせて、なんと無法の王は涙を流し彼女の腰に縋りついたのだ。
まるで、また迷子に出くわしたみたいな気分だった。絵面の異様さも相まって、正直少し気味が悪い。……けど、まあ、なんにしても荒事にならなかったのはいい事だ。
彼等から少し離れた家の屋根の上に着地をし、傘を消して、俺はレニに彼等の前に行くように指示をしつつ、会話の権利を取り返す。
(――っ、貴様!)
突然喋る自由を奪われた事が気に入らなかったのか怒声が脳裏に響くが、お前が他人とまともな関係を築けるのか? と言葉を返してやると黙った。一応、自分の得手不得手くらいは心得ているらしい。
「あ、貴女は……」
フィネさんから五、六メートルほど離れた位置に降り立つと、微かな驚きという反応が返って来る。
俺がここにいるのが意外だったようだ。という事は彼女も、望んで此処に居るわけじゃないという事なんだろう。一方的に連れてこられた可能性が高い。だとしたら、やはりそれは無法の王の為の措置なんだと思う。まあ、今の段階ではただの推測に過ぎないけれど――
「ね、ねぇ、あれって、レニ様じゃないの?」
「まさか、だって、そんなわけ……」
「お、おい、どうするんだ?」
野次馬たちの意識が、常軌を逸した再生能力を披露した無法の王から、こちらに一気に向けられる。
けれど、予期していた感情の数が少ない。
憎しみの類を滲ませているのは、大体半数くらいだろうか。
残りの半数は、それとは真逆の安堵や歓喜といったプラスの感情を滲ませていて、つまりそれがアルドヴァニアという帝国の現状を物語っていた。
もちろん、野次馬を基準に導いた答えでしかないので、比率に関してはそこまでではないのかもしれないけれど、それでも戦火を生み出し多くの人命を奪った相手に、感情が一致していないというのは末期的と言えるだろう。
(騎士団が近付いてきている。多少は迅速になったようだな)
嘲りと殺意の込められた聲が届けられる。
これ以上この場に留まっていれば、レニの奴が感情のままに彼等を皆殺しにしそうだ。そんな事は望んでいないので、予定通りさっさとこの場を離れたいところである。
「先程ぶりですね。貴女一人ですか?」
「……ええ」
やや硬い声で、フィネさんは答えた。
野次馬がこちらに見せた反応の所為で、少し警戒していると言った感じだろうか。
「そうですか。……心配ですね」
俺は少し表情を曇らせて、そう子供の事を口にしてから、
「よければ、一緒に行動しませんか? 私も一刻も早くトルフィネに戻りたいですし、一人よりも三人の方が上手く行く事も多いでしょうから」
と、提案した。
「……わかりました」
微かな逡巡の末に、彼女は頷き、
「まずは、場所を変えた方が良さそうですね。先に行ってください。私は無理だけど、彼なら、ついて行けるから」
無法の王の頭をややぎこちなく撫でながら、そう言った。
正直、少し不安な感じはしたが、どう転んだとしても俺が二人を抱えて移動するよりは安全だろう。
「では、ついてきてください」
出来れば街の外がいいけど身を潜められるならどこでもいい、とレニに要望を送りつけて、俺は静かに話が出来る場所に到着するまでの間、無法の王の扱いとイニタという言葉について考える事にした。
§
屋根から屋根へと飛び移りテンポよく移動しながら、レニは最後に大きな跳躍をして城壁を跳び越え、こちらの要望通り街の外へと躍り出た。
その数秒後、無法の王とフィネさんの姿が視界に入ってくる。
迫ってきていた騎士たちの気配はもはや遙か後方だ。途中で魔力の痕跡も消したし、この場に留まらない限り追跡は難しいだろう――と思った矢先、背後で歪な魔力が突然発生した。
振り返ると、地面に魔法陣が浮かび上がっていて、その真上の空間がぐにゃりと歪み、中から一人の男が姿を見せる。
二十代半ば、金髪碧眼の優男風の人物。
身に纏っている魔力の色から見て、空間を開いた者ではなさそうだ。
「お待ちしておりました。我らが救世主よ。どうぞ、こちらに」
恭しく頭を垂れて、実に芝居ががった調子で男が言う。
――知り合い?
念のため、レニに確認を取ってみるが、
(見知った敵なら殺しているな。奥に数十人いる。そいつらが空間を開いているようだ。……どうするかは、貴様が決めろ)
と、こちらに丸投げするような言葉を返してくるあたり、どういう相手なのか計りかねているといった感じだった。
――開いた先が、どこに繋がっているかは判る?
(二つか三つほど隣にある別の都市だろう。この魔力で跳躍できる限度はその辺りだしな)
なら、彼の提案に乗るのも悪くはなさそうだ。
「彼女たちも一緒で問題がないのなら」
「ええ、もちろんです」
にこやかな笑顔を崩すことなく、男は頷く。
(顔の皮を剥ぎたくなるな)
この手の人種が心底嫌いなんだろう。とんでもない心の声が聞こえてきたが、まあ、それはおいておくとして、俺たちはこちらに背を向けて空間の裂け目へと戻って行った男の後を追いかけた。
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




