04
時々、淡々とした男の聲が脳裏に響く。
断片的な、冷たく恐ろしい思考の漏洩。それに触れるたびに、焦燥感が増していく。
認めたくはないが、認めるしかないいくつかの現実。
(私はどうすればいい……?)
レニ・ソルクラウの人生の中で、これはもっとも大きな窮地だった。アルドヴァニアでの初めての敗戦以上に途方に暮れている。
だって、帝国に戻る理由が奪われてしまったのだ。あの忌々しい倉瀬蓮という名の異分子の所為で。
(私は、どうするだろう?)
もう一度だけ、その事について考える。
でも、どれだけ楽観的に見繕っても、レニ・ソルクラウは紛い物の存在を許しはしないだろう。
そして、紛い物が本物に勝てる道理もない。
目覚めているこの時間の積み重ねと共に、自分がどれだけの間眠っていたのかが分かってきて、どれだけこの身体が錆びついているのかも理解したからこそ、それは覆しようのない開きだった。
帝国に戻れば、自分は間違いなく殺される。全てを否定された上で、殺される。
もちろん、他の選択に逃げる未来なんてものもない。アルドヴァニアを救うのはレニ・ソルクラウの使命だからだ。なによりも尊く、優先されなければならない命題なのである。それを捨てて生きるなんて考えはけして許されない。
だからこそ、雁字搦めだった。
身動きがとれない。そのくせ、時間的な猶予もあまりない。
もう一度眠ってしまったら、その時は確実に倉瀬蓮に消されてしまうだろう。
あの男は恐ろしい。戦いなんて下手もいいところで、一方的に殴られているだけのくせに、ぞっとするくらい冷めた目でこちらを見て、レニの心を的確に抉ってくるのだ。
心こそが命といってもいいあの世界で、それは最悪の暴力だった。涙が出るくらいに。
(……向こう側では勝てない)
かといって、現実の方でも出来る事は少ない。
無意識に首筋に伸びた右手が、普段よりも騒がしい脈動を捉えている。
(なんで、あんな簡単に……)
あれが、こちらに対する脅しなのはわかっている。
判ってはいるけれど、先程の行動にはあまりに躊躇がなかった。死への恐怖がなかったのだ。
(……いや、実際はあった筈だ)
生物である以上、それが自然だ。無い方がおかしい。
だが、あったとしても、あの男はまた同じことをするだろう。ミーア・ルノーウェルという小娘に手を出したら、倉瀬蓮は躊躇わず自殺する。
(忌々しい異常者が……!)
何度目か判らない罵倒には、理解出来ない存在に対する恐れがあった。
他人なんて価値のないものに、どうしてそこまでの事が出来るというのか――
「着いたわよ」
前を歩いていたリッセの声が不意打ちのように届いて、少し身体がビクついた。
その屈辱に歯を軋ませながら、レニは中地区にある一軒の家の奥にいる一つの気配に意識を向ける。
向けて、じわじわ膨れ上がる驚きに晒される事となった。
(なんだ、この色は……)
怖いくらいに澄んだ魔力。
初めて見たと言っていいレベルだ。息苦しさを覚えるくらいである。それほどまでに、その場は清浄という異常に犯されていた。
「どう? ケチをつけられる要素は見つかったか?」
愉しげにリッセが言う。
他の候補を探せなんて時間稼ぎはなしだ、という意志表示のようだが、見当外れだ。
既に今の体調を把握し、冷静さを取り戻すだけの時間は稼げた。
先程見た二人を無力化するくらいなら、十分可能だろう。……無論、倉瀬蓮の邪魔が入らなければという前提ではあるが、さすがに殺し合いに介入してくるとは思えないので、警戒するべきは決着がついた後だ。それまでの間に、どうするべきかを決める必要がある。
……と、そこで、この身体に内在する二つの人格の悩みと猶予に終わりを告げるように、突然の熱波が吹き荒れた。
殺意と魔力を大量に宿した揺らめき。
鮮烈に身体が覚えている。なにせ、それはレニが目覚めるきっかけを与えた色とまったく同じものだったからだ。
「もう復活したってわけかよ、あの不死者」
舌打ちと共に、リッセが毒づいた。
それで一応の納得を覚える。完全に同一の色をもつ別人がいる可能性よりは、そちらの方がまだ現実味があったからだ。
もっとも、不死身といったところで、本当に死なないという事もないだろう。所詮は、他人がそいつを見て勝手に抱いた幻想に過ぎない。
(超再生の類か。なんにしても、次は首を撥ねるだけではなく、肉片一つ残さずにすり潰す必要がありそうだな)
面倒な労力にため息をついたところで、別の気配を捉える。
こちらも先程見たばかりのもので――
「素晴らしいものだな。これなら、存分に愉しめそうだ」
風の加護を受けて空をかけながら、真っ白な髪に真っ白な服を纏った女が上空より降りてくる。
「そうね、乱戦は好ましいわぁ。色々と、色々と起きそうだしねぇ」
傍らで風を操るラクウェリスの表情も実に楽しそうに、好戦的だった。
「嫌な流れに乗って来たな、糞女共が」
朱色の毛を掻き乱しながら、リッセがため息をつく。
と同時に、小さな足音がレニの右手側から響いた。
横目に音の方を見るが、何もない。つまりは魔法によって隠されているという事だ。
(たしか、ラウ・ベルノーウだったか)
音を支配する者が、意図せず音によって存在を気付かせてしまったのは、それだけ部屋の奥にいる人物が特別という事なのだろう。
なんにしても、その行動を止める理由はない。むしろ、視えない凶器がこの場を離れたのは僥倖と見るべきだ。
(……余裕がない方が、今はいいのかもしれないしな)
そんな事をふと思ったところで、背後から声が届く。
「痛かった、とてもとても痛かった。だから、お返しをしに来たよ? 小娘」
中性的な声。
そういえば、ろくに確認する間もなく首を撥ねたから、どんな顔をしているのか覚えていなかったな、と気紛れに振り返り、レニは眉を顰めた。
そこにいたのは腰の折れ曲がった、よぼよぼの老婆で――いや、違う。そこにいたのは男か女か不明瞭な腰を曲げた十代半ばの人間だ。
それをどうして、一瞬とはいえ見間違えたのか……この異様な誤認は、疲れなどといった安易な決めつけで無視してはいけないような気がする。
「どうやら当たりを引いたようねぇ、あれは話が通じる方だわ」
その警鐘を助長するように、ラクウェリスが妙な事を呟いた。
それを、吟味する暇もなく、
「どうでもいいさ、それが強者であるのならな」
微かに高揚した声と共に、ディアネットが全身に冷気を纏って臨戦態勢に入った。
「助力してやろうか?」
「下がっていろ。目障りだ」
つまらなげなリッセの言葉を切って捨てて、レニもまた右手に得物を具現化し、一番の不確定要素から処理しようと、不死者に向かって踏み込んだ。
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




