04
それは、結果だけを見ればシンプルなものだった。
攻撃を仕掛けた影の女性が、自身の血で部屋を真っ赤に染め上げたというだけ。
でも、レニは一切動いていない。こちらが反応するより早く、影の女性は深刻なダメージを背後から貰ったのだ。自らの主の一撃を受けて。
「感情というものは、なかなか理解に苦しむものだな。この行為になんの意味があるというのか。今後、意味のある行為になる余地があるのならいいが」
どこまでも静かに、何一つ温度のない声で呟いてから、イルはこちらに視線を向けて言った。
「騒がせてしまったな。申し訳ない」
「……まったくだな」
レニは微かに目を細めて、静かな声で言う。
そこにあるのは微かな戸惑いだ。行動自体に驚きはなくても、その迅速さに面食らった感じだろうか。
たしかに、イルの対応は速過ぎた。けれど、部下の心情を把握していたのなら予め備える事は出来ただろうし、そこまで不自然という事もない。
実際、レニもそう判断したようで、その点について深く考えるという事はしなかった。
更に言えば、それよりずっと不自然な、もう一つの点にも気づかなかった。きっと、彼女にとっては前者の疑問の方が重要だったからだろう。
でも、リッセを知る俺からすれば、これは到底無視できるものじゃなかった。
貴族が極めて貴族らしい思想と価値観の元、部下をなんの躊躇もなく処断したのだ。大の貴族嫌いで有名な激情家の彼女が、それを前にして暴言も暴力もなく、ただ怒りの気配だけを滲ませて終わるなんてありえない。
つまり、これには裏があるという事だ。俺たちがここに来る前に、ラウの魔法を通して両者の間でなにかしらの話がつけられていた可能性が高い。
それに、仕掛ける前に影を操る女性が放った『このような機会を逃していいと思うなよ!』という言葉。
一見すると、主に対する激昂のように捉える事も出来るけれど、本当にそうだったんだろうか?
もし、あれが俺に向けた言葉だったんだとしたら、今の状況には大きな意味がある。部屋に跳び散った彼女の血は、より一層に魔力感知を鈍らせ、試行の幅を広げてくれていたからだ。
向こうは向こうで、ある程度こちらの状態を把握していて、俺にどの程度の事が出来るのかを計ろうとしているのかもしれない。
いずれにしても、この好機を逃すような莫迦は許されないだろう。
俺はまず左手から魔力を垂らし、いくつかの要請を文字として示していく。
その間、イルは大きな声で執事を呼び、影の女性を処分するように指示を出して、レニの意識を自分たちの動向に向けさせようとしていた。
こちらのサインに気付いた証拠だ。なら、影の女性が死ぬ心配はない。そもそも、死なせないためにイル自身がギリギリのラインの攻撃をしたんだろう。そして彼女もそれを信じて、なんの違和感や不安も見せずに背後からの攻撃を受け入れた。
……まったくもって、重たい期待だ。それに応えられたかどうかは、まだ判らないけれど、ひとまずやれるだけの事はやった。
文字以外も含め、レニは気付かなかった。この時点で、彼女の身を挺した行いは大きな意味を持ったと言えるだろう。
「では、改めて、そちらの答えを聞こう」
引っ込めていた手を、再度イルが差し出してくる。
それを数秒ほど乱暴に握り返してから、もう此処に用はないとレニは背を向けた。
§
そうして屋敷を出たところで、
「ずいぶんと嬉しそうだな」
と、レニは刺すような口調でリッセに言い放った。
それに対して、リッセはつまらなげに吐息を零してから言葉を返す。
「そりゃあ、こっちの要求の手間が省けたからね」
「……なるほど、度し難い都市だな」
貴族と下地区の犯罪組織が共謀するという事実は、この愛国者には許しがたい事らしい。まあ、政治家とヤクザが仲良くしている図に近いわけだから、それについては同感だが。
「清濁あってこその社会でしょう? 綺麗なだけの国家は毒に弱いって言うしね。……それで、どうするの? さっそくやってくれるわけ?」
「その前に生贄だ。そちらも転移には必要不可欠な要素だからな。無論、貴様たち二人が立候補するというのなら、今すぐ騎士団とやらに赴いてもいいが」
「お前なんかの為にあたしが命を捧げるって? ――それ、なんて冗談だよ?」
小馬鹿にするように鼻で嗤ってから、リッセは懐から卓球の玉くらいの大きさの石を取り出して、そこに魔力を込めて、ラウに手渡した。
「まずは問題なく生贄に出来る奴から見て、それであとどれだけ必要なのかを言え。……あぁ、もちろん、生け捕りに出来ないって告白は受け付けないけどな」
「……」
ラウが小さく吐息を零して、手近にあった建物の上に跳躍し、そこから騎士団本部に向けて石を投擲する。
殆ど閃光のような速度で騎士団本部の壁に着弾したそれは、リッセの魔力を霧のように広げ、彼女の領域を生み出した。
「――ちっ、予定外の奴がいるわね」
顔を顰めつつ、リッセは着弾箇所周辺を映像にしてみせてくれる。
相変わらず異様なくらいに器用で、見事な魔法の使い方。……それに、感心する暇があれば良かったんだけど、真っ先に視界に入ってきた相手の所為で、俺もリッセと同じ気持ちにならざるを得なかった。
ラクウェリスだ。リッセの魔法の確認をするためにだろう外に出てきたディアネットの隣には、あの異常者の痴女がいたのである。
『あら? 覚えのある魔法。はぁい、リッセ、今日はずいぶんと大胆な覗きなのねぇ? 心境の変化でもあったのかしら? まあ、どうでもいいけれど』
こちらに向けて手を振りながら、ラクウェリスはにこやかに微笑む。
『私ね、イルの奴を本気で殺す事にしたから、この子の側につく事にしたの。ねぇ、良かったら、貴女もどうかしら? あいつ殺したいでしょう?』
「脳足りんの糞女が……!」
心の底から出たのがよくわかる渾身の悪態をついてから、リッセは乱暴に前髪を掻き上げて
「……いや、むしろちょうどいいか。おい、その二人とあと何人いる?」
と、怖いくらいに冷たい声で、こちらにそんな事を訪ねてきた。
それを受けて、レニは瞑目し、感知に集中し騎士団本部にいある二人の魔力を捉える。
(これなら、それほど問題はないか)
それほど、という部分は生け捕りに関してだろう。
正直、俺にはディアネットという人物の強さが、この段階ではまったく判らないのだが、レニは違うらしい。或いは、それが驕りという可能性もないとは言い切れないが――
「一人でいい。無論、同等の魔力の質をもった者なら、だがな」
ゆっくりと開いた目でリッセを見据えながら、レニが釘を刺す。
「あっそ」ため息交じりの声と共に、標的二人の映像が掻き消えた。「じゃあ、次行く場所は決まったわね」
そう言って、リッセは足早に歩きだし、
「ヴァネッサの奴に会う。人を揃えるなら、あいつが一番だしな」
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




