03
フィネ・ルールーが留守にした二十日間で、下地区の様子はすっかりと様変わりしていた。
ゼルマインドという組織が崩壊し、それまで彼等が牛耳っていた場所を連盟が占拠したためだ。
といっても、その勢力の拡大によって連盟が本当の意味で下地区の顔の一つになったという訳でもない。詳しい背景は知らないが、おそらくヘキサフレアスとゼルマインドの戦争で前者が勝利し、そのおこぼれを貰う代わりに顎で使われるようになったといったところなんだろう。
つまり、下地区の権力はヘキサフレアスに一極化したというわけだ。
それが良い事なのか悪い事なのか、フィネにはまだ判らない。ゼルマインドは恐ろしき支配者ではあったが、同時に話の分かる秩序者でもあった。逆にヘキサフレアスは大きく幅を利かせていたわけではないので傲慢という印象はないが、同時にトップである二人を除いてまったく顔が見えない不気味さが常にあった。
いずれにしても、今、下地区はそんな有様で、落ち着くまでは色々といざこざが頻発しそうな気配を漂わせている。
ただ、それでも、フィネが留守にしていた時期よりはずっと安全だったというのは、無事に再会できた我が子であるラムガスが教えてくれた。
おぞましい植物によって周りが逃げ惑う中、彼だけはまったく見向きもされずに危機を逃れることが出来たらしい。間違いなく、ラガージェンの仕業だろう。
彼にはずいぶんと振り回され続けたし、大事なものも奪われたけれど、約束だけは守ってくれたようだ。もちろん、そこに感謝の気持ちなんてないけれど……
「お母さん、出かけるの?」
色々と考え事を済ませながら支度を済ませたフィネの背後から、ラムガスの声が届けられた。
今までの娼婦としての格好とはまったく違う、中地区で働いていてもおかしく見えない、きっちりとした衣装が気になるようだ。
視線でそれを感じながら、フィネは言う。
「夕方には帰るから、大人しくしているのよ。お土産も買って来るから」
「お土産? なに?」
「それは帰ってきてからのお楽しみ」
頭を撫でながらそう話を締め括って、フィネは自宅を後にした。
馴染み深い下地区の、込み入った細道を歩いていく。その中で味わうのは、代わり映えのしない奇異の視線だ。
今まで、フィネはこの下地区では不可侵に該当する特殊な立場の人間だった。それは無法の王と呼ばれたルベル・ローグライトという存在がそうさせていたのだけど、彼がいなくなった今でもそういった視線を感じるのは、間違いなくこの格好の所為だろう。
下知区には似つかわしくない。それを身に纏う必要があるという状況こそが、またもフィネを特殊な人間へと変えてしまった。
それは喜ばしい事なのか、哀しい事なのか……まだわからないけれど、一般的な価値観で言えば前者であるはずだ。
だから、胸を張ってもいいと思う。
思うのだけど、中地区に近付いていくにつれて、不安が増していくのを肌で感じる。そわそわして、心音が妙に早くなって、視野も狭くなっているのがわかる。
(私、変じゃないよね? 大丈夫だよね)
服の袖や襟元を気にしながら進んでいると、角を曲がったところで誰かにぶつかった。
普段なら余計なトラブルを作らないように、他人の足音を気にするのに、それを怠っていた所為である。そして多分、どこかでまだルベルが生きていた時と同じ感覚でいた所為でもあるんだろう。
前者も致命的だが、後者はもっと致命的で――
「ご、ごめんなさい!」
慌てて謝りながら顔をあげた先にいたのは、元ゼルマインドの構成員三名だった。
ゼルマインドが健在だったころは悪い噂もなかったのだが、無くなった途端に悪名が轟きだした連中だ。
非常に不味いのに出くわしてしまった。
「お前、無法の王の……」
しかも、こちらの顔も知られているらしい。
まあ、下地区では知らない方がおかしい顔ではあるので、これは必然でしかないが。
「……気をつけろよ、女」
舌打ちをつきながら、左手に居た男が言う。
どうやら、注意一つで済みそうだ。
「は、はい、すみません」
これ幸いにとぺこぺこと頭を下げて、フィネは足早に男たちの脇を横切ろうとしたが、
「――っ、わっ」
と、右手に居た男に足を引っ掛けられて盛大に転んでしまった。
数日前に意を決して買った一張羅が、簡単に汚れてしまう。
「お、おい、なにしてんだ!」
三人で示し合わせた行動ではなかったのか、真ん中の男が焦ったように声を荒げたが、
「なにビビってんだ? あの化物はもういないんだぞ? だったら見逃す理由もないだろうが」
「けど、マジな情報はわかんねぇだろうが? もし、あれが生きてたら――」
「生きてたら、こんな恰好してねぇだろうさ。あの化物が死んだから、下地区から出て中地区あたりで暮らそうって算段なんだろう? なあ? あの化物が奪い尽した金を使ってよ」
「――ぅ、ち、ちが」
髪の毛を引っ張られながらも、否定を口にしようとしたところで目の前に火花が散った。
殴られたのだ。鼻から血が垂れて、口の中の至る所に痛みが広がる。幸い、歯は折れていないけれど、それは手加減をされたからで、殺す事が目的の暴力ではないからだ。
「そんなの、許せるわけないだろう! 薄汚い売女が分も弁えずに!」
唾を飛ばしながら怒声を放ち、右手の男はフィネの服に手をかけた。
「今から何者なのか、てめぇに思い出させてやるよ」
「や、やめ――」
此処は下知区だ。騎士という秩序は一切機能しないし、今の自分を助ける事にメリットもない。
犯される。別に生娘でもなし、それ自体は大した事じゃないけど、初仕事が台無しにされるのは堪えた。
(……やっぱり、この生き方しかないのかな? 私には)
諦観に近い想いと共に、上着のボタンが破れる音を聞く――その前に、ドスッ、という音が鼓膜を叩いた。
肉を刃物が貫くような音。
「――あ?」
覆いかぶさっていた男が目を見開き、押し付けられていた重さが消失する。
男の身体に突き刺さり中心で停止した杭が、男を持ち上げたのだ。そして壁に叩きつけながら、それは乱暴に引き抜かれた。
刺された孔から血が溢れだす。ただ、距離が取られていたおかげで、こちらにその汚れが届くことはない。
気を遣ってもらったのだと解ったのは、相手を見て。
「お、お前……!?」
残った二人が、背後にいた女性に驚愕と恐怖に身体を強張らせる。
夜のように艶やかな黒髪を携えた、ぞっとするほどの美貌。そして嫋やかな漆黒の左腕に、右手に握られた無骨な杭を霧のように消し去る魔法。
「不愉快な雑音を垂れ流した上に、私の知人に暴力まで揮ってくれるとはね。よっぽど命がいらないらしい」
どこまでも冷ややな眼差しと共に、レニは義手を無造作に伸ばして――凄まじい速度で伸びた中指が、一人の右目に突き刺さった。
そのまま貫通して、血が噴き出る前に壁に叩きつけられ、その男は絶命する。
一片の躊躇もない暴力だった。
「ヴァネッサ・ガルドアンクも、テトラ・アルフレアももういない。……ねぇ、部を弁えるのはどっち?」
伸ばした指の部分をまたも霧のように消しながら、右手に斧を具現化し、レニはゆっくりとこちらに近付いてくる。
その恐怖から闇雲に逃げるように、最後の一人になってしまった男は、フィネを人質に取ろうと手を伸ばしてきたが、その手が届くことはなかった。
重々しい音と共に、男の身体がくの字に曲がる。
それは、足元から突き出された黒い柱が、男の左脇腹の骨を全て砕いた音だった。
衝撃で宙を舞い、頭から地面に落ちる。
「た、助け、」
命乞いの途中で、男は血反吐を吐いた。
そんな彼を無感動に見据えながら、レニは右手に斧を具現化して、
「や、やめ――」
言葉を掻き消すほどの重厚な衝突音が、地面に響き渡った。
……もし、それが直撃していたら男の上半身はミンチになっていただろう。
「貴方は生き証人だ。彼女に手を出すという事がどういう事を意味するのか、しっかりと御同類たちに伝えて欲しい。お願い、できるよね?」
男の右耳に掠めるように叩き落とし、その余波で耳をぐちゃぐちゃにした斧を魔力の粒子へと解きながら、レニは淡々とした口調で言う。
「……あ、あぁ、ああ」
小便を漏らしながら、男は頷いた。
涙を流しながら、何度も頷いた。
それで、この問題は終わり。
「……大丈夫ですか?」
こちらに視線を向けたレニが右手を差し出してくる。労わるような淡い微笑。
今、確実にこの場を支配していた震えあがるほどの恐ろしさは、嘘みたいに消え去っていた。
「は、はい。ありがとうございます」
彼女の手を掴み、立ち上がる。
服は、少し破損してしまったけれど、第一ボタンだけだ。これなら、そんなに問題にはならないだろう。服についた埃を払って、もう一度レニにお礼を言ってから、新しい仕事場に向かって歩き出す。
「送ります。まだ安全とは言い難いですしね」
隣に並んだ彼女が、ハンカチをこちらに差し出しながら言った。
「で、ですが――」
「私の方はもう仕事も終わりましたし、明日する予定だった買い物を今日済ませても問題ありませんから」
フィネの言葉を遮り、レニはハンカチを押し付けて、さっさと歩き出す。
「……で、では、お願いします」
ただの条件反射で断ろうとしただけで、そこに強い意志があったわけでもなし、ぼそぼそと了承の言葉を返し、鼻血をハンカチで拭きながらフィネは素直について行く。
レニの足取りには淀みがない。それもそのはずで、今日からフィネが受付として勤めるエインスフィート第二支部を紹介してくれたのは、他でもない彼女だったからだ。フィネが留守の間、ラムガスの面倒を何度か見てくれていたのも彼女だったりした。
親切の理由は判らない。ただ、なんとなく、その行いは自分の為にというより、なにか別のものの為に行われているような気がした。いわゆる代償行為という奴だ。
そう思う一番の根拠は、彼女の変化にあった。
別段、深い付き合いがあったわけでもないが、アルドヴァニアに居た頃とは明らかに雰囲気が違う。そういう劇的な変化というのは、大抵何か大事なものを喪失した人間が陥る状態だ。
自分がルベルを失ったように、彼女もまたトルフィネの騒乱の中で、そういった存在を失ったのだろう。そして、その代わりに得たのが、今見せた容赦のなさと、トルフィネにおいての大きな影響力。
彼女はもはや、ただ有名なだけの狩人ではなく、明確な発言力をもった下地区の顔の一人だった。貴族ともつながりがあり、リッセ・ベルノーウにも意見するだけの力を持っている、特別な存在だ。
ただ日々を生きるだけに使われていた絶対的な力を、そういう事にも揮いだしたように見える彼女は、果たしてどこに向かおうとしているのか。
それは、下地区で生きる多くの人にとって重要な懸念でもあって……その懸念をより強める出来事が、中地区の広場に差し掛かったところで起きた。
敵対関係にある二人の貴族が、従者を伴わずに単独で彼女の前に現れて、
「「例の件について、私は貴方に大きな利益と安全を約束できると思う。少なくとも、そちらの者よりも」」
と、火花を散らしだしたのだ。
白昼堂々、極めて珍しい修羅場の開幕だった。
次回は七日後に投稿予定です。次回が最終話となりますので、よければ最後までお付き合い頂けると幸いです。




